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2013年9月29日 「救い主の愛に感じて」ルカ19:1-10
序文)先週の説教の場面は、生まれつきの目がみえなかったバルテマイが、主イエス様から目を開いていただいた出来事でしたが、それはエリコの街に近づいたときに起こったことでした。今朝の出来事はエリコの町に入った時におこりました。主イエス様と取税人ザアカイの対面です。救いを頂いた取税人ザアカイの有名な出来事です。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」イエス様のみ声は、あなたに、今朝、呼びかけられています。
Ⅰ 取税人ザアカイについて
彼は取税人の頭でした。取税人はパレスチナでは最も人々から嫌われた職業でした。この時代ローマの属国であったパレスチナは、ローマ政府に税金を納めなければなりませんでした。その税金をローマに代わって取り立てる仕事が取税人ザアカイに仕事でした。人々は彼らのことを売国奴、裏切り者と呼んでいました。税金の取り立てが請け負い制度であったので、取税人たちは、ローマに納める一定額以上を取り立てて、差額を着服して自分のものにしたのでした。その時代の人々は新聞、ラジオ、テレビなど一般的に広くニュースを知らせる手段を持っていませんでした。自分たちがいくら納めるのが本当なのかは、誰もよくわからなかったのです。
税金は二種類ありました。固定税は人頭税として、男子14-65才、女子12-65才まで、ただ生存する権利金として支払わされました。地税として穀物の十分の一、ぶどう酒、油の五分の一を現物か金で支払いました。所得税は収入の1%でした。二種類目は、種々の義務税がありました。道路、港、市場の使用税、荷車、それを引く動物にも課税しました。ある種の物品の購入税、輸出入税です。この二番目で不当な搾取が起こりました。
当時の人々は取税人を盗賊、人殺しと同類と見なしていました。そしてザアカイは取税人の頭だったのです。先週の物乞い生活をしていたバルテマイと違って、裕福だったのです。しかし、彼もまた、孤独だったのです。人々のまっただ中に税金取り立てという仕事で直結した生活をしていたにもかかわらず、追放された人間のように生活しなければなりませんでした。町の人々のさげすみと憎しみの中で、ザアカイもまた、罪人や取税人も迎えてくださるイエス様について、噂話を聞いていました。そして、どのようなお方かを、さらに知りたいと願っていました。彼の心に、神の愛を求める動きが起こされていました。
それで、エリコの町にイエス様がこられたと聞き、なんとしてでもイエス様に会いたいと願いました。会うために出かけました。群衆は背の低いザアカイを邪魔者扱いして、イエス様が見えないようにしました。このチャンスにとザアカイをつついたり、蹴飛ばしたりしたことでしょう。ザアカイは人々の敵意に立ち向かい、妨げを乗り越える勇気を必要としていました。ついに彼は、人々の遙か前方に走っていきました。そこにあったイチジク桑の木の上に登りました。小男の彼がどれほど必死に木登りをしたか想像してみてください。何としてでも一目でもイエス様を見たいと願う心がそうさせたのでした。この点でバルテマイの大声の叫びと一緒でした。木の上に登れば見える。子供でもそう考えるでしょう。取税人ザアカイがそれをしたのです。救い主に会いたい一心が、彼の日常性を打ち破り勇気をださせたのです。さまざまな意味で、神の前に立つために、そして、神の愛の注ぎを受けるために、私たちも、私たちの木の上に登る必要がありますね。教会の礼拝に集うことや、修養会などの日常性と違ったことに出かけることも木に登ることでしょう。
Ⅱ そこに丁度イエス様が来られました。
主イエス様は、木の上を見上げて言われました。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(5節)。よくよく考えるとイエス様のこのことばは変ですね。この町に入ったばかりなのに、ザアカイの名前を知っていました。さらにザアカイに招かれた訳でもないし、彼は一言も話していないのに、イエス様は一方的に「泊まることにしてあるから」と言われたのです。普通なら大変おかしいこのことばも、クリスチャンならば、思い当たる言葉でしょう。神様の救うみ心が、先にあって、あなたのところにとどまるというのです。イエス様の側では、私たちの一切の状況と必要をご存知であって、先に声をかけてくださったのです。導き、備えして、救いに入れてくださったのです。
私たちの心の重いが、神さまへと導かれてゆくとき、イエス様の声が、私たちにかけられていたのを、後になって気づきました。イエス様の私たちを救おうとするおこころが先にあったのです。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。」
ザアカイは、このみ声を聞いて、大喜びで、降りてきて、家にイエス様を迎えました。人々に罪人あつかいされ、憎まれ、さげすまれていた、自分を友達のようにあつかい、宿泊してくださる。このお心に大感激しました。世の中に人々から罪人あつかいされても彼には反抗心しかなかっただろう。しかしイエス様の大きな愛にふれたときに、自らが罪深いことを重ねてきたことへの涙と反省がわき出てきたことでした。彼は、自分から命令もされないのに、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。まただれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(8節)。と語りました。
ザアカイのこの自発的な申し出は、実は律法が要求していた以上のことでした。
出エジプト記22:1では、意識的な強盗で破壊行為が歴然としている場合、4倍の賠償が必要でした。出エジプト記22:4,7では、普通の盗みで、盗んだ物が、元のまま返還される場合は、2倍の賠償でよい。レビ記6:5,民数記5:7では、自首して、自主的に賠償する場合は、元の額を償い、それに五分の一を加算する。
ザアカイはたしかに法の要求する以上のことをしようと決心しました。それによって自分が罪人であることを認めたばかりか、生活がイエス様に会って一変したことを実証しようとしました。イエス様が彼を受け入れてくださった大きな愛とゆるしにより、かれは感謝のあまりに、施しと弁償をしますと宣言しました。ザアカイの変化は彼の生き方の一新であり、いのちの変化でした。
Ⅲ 9-10節イエス様はザアカイの変化を喜んでくださいました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は失われた人を捜して救うために来たのです。」ザアカイだけが救われたと言わないで、この家に救いが来た!といわれました。家長がイエス様によって新しく救われたときに、その全家に変化が起こりました。その影響は大変大きいのです。神の恵みの及ぶ範囲も広いのです。皆様の中で家長である方々は、主イエス様のことばの含蓄に心を留めましょう。
ザアカイの家に起こったすばらしい変化は、何によって起こったのでしょうか。それは失われた者を捜して地上に来てくださったからでした。イエス様が地上に来られた大目的が、ここにはっきりと表明されています。
神様の前に、私たち一人ひとりは失われた存在だったのです。「失われた」とは、本来いるべきところにいないために、見失われたという意味です。本人が間違った位置にいることです。逸脱して誤った場所に置かれている時、それは失われているのです。イエス様はそれを定位置に、本来あるべき位置におくために、探し出して救ってくださるのです。その人が、天の父の家族として、従順な子供として、本来の位置に戻るならば、見いだされたことになります。ザアカイは見いだされたのです。バルテマイも見いだされたのです。信じる私たちも見いだされたのです。
結び)わたしたちは、一人として失われたままの状態でいるなら、イエス様が愛を持って救おうとされた、お心を無にしてしまいます。ザアカイのように生まれ変わった人生を、今朝から歩み始めましょう。