2016年1月10日 詩篇36篇1-12節 「いのちの泉はあなたにあり」
序文)罪赦されたダビデが、神を畏れない者の行動原理と、神を信じ畏れて生きる者の行動原理を対比させて、神の恵みのうちに生きる幸いを告白している。神に従う者にも罪の現実は深刻であるが、信仰者は罪の力を認識しつつ、一層神の恵みに身をゆだねて歩むべきことが教えられる。
詩篇36篇 指揮者のために。主のしもべ、ダビデによる
1節前半「罪は悪者の心の中に語りかける。」
罪の「お告げ」「託宣」。人はこれに逆らうことができないほどの権威をもって迫る。心の内に語りかける言葉に人は従う。神を畏れない者は、罪の言葉にすぐ従うということが罪の行動原理である。罪が彼の主人であると言っている。彼が主人なのではなくて、罪が主人といっている。衝撃的な言い方である。人間はいつでも言葉に引きずられている。朝起きたら、今日も主は私と共におられ、導きと恵みを備えてきてくださると、自分の心に語りかけることは有益です。常に言い聞かせている言葉は罪深ければ深いほど引っ張られます。否定的に話しかけ続ければ、人は自分に創造主が与えてくださっている良さを見失って、何もないと思いこみます。語りかける言葉は重大な作用を引き起こすのです。
1節後半-2節「彼の目の前には、神に対する恐れがない。2 節 彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。」
「おのれの目」の判断が罪人の基準である。罪人は自分の目で判断し、罪を過小評価する。また神を自分の基準に合せてしまう。確かな視点を失っている。「それを憎むこと」は「憎むことに向かって」「憎むことについて」と訳することができる。本文が損なわれているらしい。咎を見つけ出して嫌悪することはない、というほどに楽天的で,向こう見ずになっている。
3節「彼の口のことばは、不法と欺きだ。彼は知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。」
3節は2節の必然的結果である。罪に従順で自己中心な者の口からは「不法と欺き」が出る。「知恵を得る」とは具体的に善悪を判断し善を選択する力のこと。知識を活用する能力である。破壊に励む社会活動に向きを変えている。良いことに背を向けた者として見られている。
4節「彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。」 「寝床」は信仰者にとっては神との交わりの場であるが、悪しき者にとっては自己の利益追求を計画する場である。彼は理性と意志と感情を動員して悪を行う。ミカ2:1「ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行う者。朝の光とともに彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。」パウロはローマ1:28−32に、この罪深い人間を描写している。
5節「主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。」
主に従う者の行動原理が述べられる。それは神中心の考え方である。「恵み」「真実」は主の約束の豊かさと確かさを表す。それは偉大で極めがたい。「天」「雲」という表現で拡大されている。
6 節「あなたの義は高くそびえる山のようで、あなたのさばきは深い海のようです。あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。」
「山」「海」という表現によって神の正しさが不動であること、神のさばきの神秘性を表す。「栄えさせる」は新共同訳の「救われる」が直訳です。
7節「 神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。」
「神よ」と呼び換えることによって、全人類に対する神の慈愛が告白される。神は地上の人間に対し父の恵みを与えておられる。ここでは「恵み」があまりにもすばらしいので、見逃すことができないと告白している。ダビデより前の時代に、恵みを見逃さず御翼の陰に身を寄せた人にルツがいる。ルツはボアズの下に落ち穂拾いにいったとき、ボアズは言います。「主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように」(ルツ2:12)。これに対してイスラエル民族は見逃してしまいました。神様の預言者を送ってメシア到来を告げようとした計らいにたいして、悪を選びました。主イエス様はエルサレムの事を嘆いて「ああ。エルサレム。エルサレム。預言者たちを殺し,自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」(マタイ23:37)。現代でもこの詩篇は私たちに有効です。神の偉大で、すばらしい恵みを見逃すことなく,心から感謝してうけとりましょう。それは主イエス様のお心にかなうことです。
8節「 彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。」
「あなたの家の豊かさ」とは神の支配しておられる地球のことであり、神は主人として豊かにもてなしておられる。このことを認識出来る者は幸いである。「あなたの楽しみの流れ」は「あなたの喜びの流れ」とも訳されます。この節はエデンの園を彷彿とさせます。
9節「 いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」
「いのちの泉」とはすべての良いことの源が神にあることを示す。神は命を与え、保ち、尊いものとし、生きる目的を与えて下さる。主イエス様はヤコブの井戸のほとりで、サマリヤの女性にいのちの水をおあたえになりまし(ヨハネ4:3-15)。
主は素晴らしい言葉を「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」と問かけた女に返された。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」主イエスは「生ける水」の奥義をさらりと率直に語られた。
ヤコブの井戸は歴史的に由緒のある井戸で、1800年も前から用いられていたが、深く汲むものをもっていなければ容易に飲めない。井戸は長い歴史を通じて水を湧き出し続け、豊かに尽きることがなかった。にもかかわらず、その水は飲めば渇くのである。
それに対して主イエス様がご用意しておられる水は、飲むものの内で泉となり、永遠のいのちへの水がわき出る。想像を絶する。
「あなたの光のうちに光を見る」とは人間は神の光によって自分を正しく認識し、人生の目的を知ることが出来るということで、これが恵みの原理であり信仰者の確信である。
10節「注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人に。」
詩人は自分が人間の邪悪さ(1-4節)と、神の恵み(5-9節)とが争っている地に自分が配置されていることに気づき、熱心な祈りを捧げている。
「注いでください」という祈りは恵みの継続を求める祈りであり、具体的には5‐9節が内容となっていると考えられる。「あなたを知る者」とは主に従い主の恵みによって生かされることを願う者。
11節「高ぶりの足が私に追いつかず、悪者の手が私を追いやらないようにしてください。」「高ぶりの足」「悪者の手」とは1‐4節のこと。「追いやる」とは信仰の道に背かせ、礼拝者の仲間からはずれさせる誘惑。
12節「 そこでは、不法を行なう者は倒れ、押し倒されて立ち上がれません。」「そこでは」は〈ヘ〉シャームで、場所を表すと共に状況・状態も表す。不信仰者はその行動のただ中で倒れ、起き上がれない者となるというダビデの確信と霊的洞察の表現であろう。宣言された勝利がある。
結び)ダビデは、悪が主人となっている人間と戦う用意ができていた。神の恵みを褒め称えて呼び求める用意もできていた。それで熱心に祈り求めて、それを与えられたものとして勝利を受け入れる用意もできていた。私たちは、主イエス様が指し示された御翼の下に身を寄せ、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」と約束された生涯を歩んでまいりましょう。