コメントはまだありません

2017年10月22日 礼拝 説教(日本語文)

 

序論

「天にたくわえられてある私たちの望み」/ 聖書箇所:コロサイ1:3-14

コロサイ1:3-14

3   私たちは、 いつもあなたがたのために祈り、 私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。 4 それは、 キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、 すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。 5 それらは、 あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。 あなたがたは、 すでにこの望みのことを、 福音の真理のことばの中で聞きました。 6 この福音は、 あなたがたが神の恵みを聞き、 それをほんとうに理解したとき以来、 あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、 世界中で、 実を結び広がり続けています。 福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。 7 これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。 彼は私たちに代わって仕えている忠実な、 キリストの仕え人であって、 8 私たちに、 御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。 9   こういうわけで、 私たちはそのことを聞いた日から、 絶えずあなたがたのために祈り求めています。 どうか、 あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、 神のみこころに関する真の知識に満たされますように。 10 また、 主にかなった歩みをして、 あらゆる点で主に喜ばれ、 あらゆる善行のうちに実を結び、 神を知る知識を増し加えられますように。 11 また、 神の栄光ある権能に従い、 あらゆる力をもって強くされて、 忍耐と寛容を尽くし、 12 また、 光の中にある、 聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、 喜びをもって感謝をささげることができますように。 13 神は、 私たちを暗やみの圧制から救い出して、 愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 14 この御子のうちにあって、 私たちは、 贖い、 すなわち罪の赦しを得ています。

 

 

序論

「あなたは普段何を待ち望んでいるでしょうか。」誰かにいきなり聞かれたら、答えるのは難しいと思いますが、意識していても、意識していなくても、私たちは何かを持ち望んでいる者と言えるでしょう。

 

受験生にとっては望んでいる大学に受かることかもしれません。就活している大学生にとっては望んでいる会社に就職することかもしれません。結婚したい人たちはふさわしい相手と出会うことかもしれません。また、夫婦として、将来、より親密な関係を持てるように望んでいるかもしれません。親としては家族が安定した幸せな生活を送ることを望んでいるかもしれません。家族や友達がまだイエス・キリストを受け入れていなかったら、彼らがクリスチャンになることを望んでいるかもしれません。

 

クリスチャンがこのような望みを持つことは何も問題ありません。しかし、私たちの抱(いだ)くすべての望みの中の1番上に立つ究極の望みというものが私たちの中にあると思います。それは何でしょうか。

 

それは試練と苦難の中で、はっきり見ることができます。私たちは、受験や就活、会社などで忙しくなったり、上手くいかないとき、私たちはあわてず、深く失望しないで、教会生活をやめず、神様に従うことができるでしょうか?

もしあらゆる理由で、例えば、

病気、迫害、苦難、死などで、愛する家族や友達、または自分の幸せが取り去られたら、私たちは、それでも神様の愛を疑わず、神様を心から喜びをもって褒めたたえることができるでしょうか。もし、私たちの伝道やミニストリーが自分が望むようにいかなくても、私たちは神様の御力を疑わず、教会に対する愛も揺るがず、信仰と希望を持ち続けて、福音を宣べ伝えることができるでしょうか

そのように歩めるなら、本当にクリスチャンとして証になると思います。そのゆえに、ペテロは試練・苦難は伝道の機会になると思っていました。クリスチャンではない人が、激しい苦難がありながらも、喜びをもって礼拝し、伝道し、教会を愛しているクリスチャンの姿を見て、驚いてそのクリスチャンに「あなたがたのうちにある希望は何だ?」と尋ね求めるとペテロは考えていたのです。そして、それを通して、私たちの天にたくわえられてある私たちの望みについて分かち合い、伝道することをペテロは考えていたのです。

 

しかし、罪深い私たちは、もちろん、これを完璧にはできません。神様は私たちの不信仰と罪を、恵みをもって、見て下さいますが、なぜ私たちは時に、神様、信仰の歩み、教会を優先することができないのでしょうか。

 

この箇所を見ると、私たちは、私たちに与えられている究極の望みを忘れていて、望みの理解がまだ薄いからということがわかります。パウロによると、天にある私たち望みについて、正しく、深い理解があれば、私たちも正しく、深い信仰の歩みができるのです。そして、私たちがこの世の望みに捕らわれ始めて、天にある望みが私たちにとって究極の望みではなくなってしまったら、私たちの信仰の歩みが中途半歩になり、私たちはイエス様に背むいてしまうこともあります。

前回の説教で説明しましたように、「混合主義」で育ったコロサイ人に、パウロは手紙の最初から、イエス様が唯一の究極の希望であることを主張しています。

 

コロサイ1:3-14では、私たちの王イエスキリストが私たちを拡大している御国の一員としてくださり、私たちに天にある遺産を下さったので、私たちは御霊にある知識によって成長し、イエスキリストを喜びをもって待ち望むことができるのです。このメッセージを説明するために、三つのポイントを見ましょう。

  1. イエス様の王国の前進 (v3-8)
  2. イエス様の民の成長 (v9-11)
  3. イエス様の勝利の喜び (v12-14)

 

  1. イエス様の王国の前進

まず、一つ目のポイントは、イエス様の王国の前進です。

3-8節では、コロサイ教会の信仰と愛、神様の御国が成就されたことと拡大されていることがわかります。そして、彼らの信仰と愛の源は、主イエスキリストのしもべが宣べ伝えた福音にある希望なのです。

 

3-8節では、パウロは感謝の報告をしていますが、まずイエス様とパウロの立場を再確認する必要があります。まず、イエス様はもちろん私たちの友達でもあり、愛する花婿、親しい兄弟でもありますが、まずイエスキリストは私たちの「王様」であることを思い出す必要があります。3節に書いてある「主イエスキリスト」という呼び方に私たちはなれすぎて、イエス様の立場を忘れる傾向があります。ギリシャ語では「主」というのは、権威のあった「王様」または「帝王」や、ある奴隷を所有する「奴隷の主人」を指していました。旧約聖書では「主」という言葉は神の民を支配している王である神様を指しているのです。そして、イエスキリストの「キリスト」とはイエス様のラストネームではありません。キリストは「油注がれた者」を意味していて、ダビデの子孫である神の民を究極的に支配する「王様」を指しているのです。そして、パウロはこの王様の権威を託された部下であり、神様を代表するメッセンジャーでもあります。使徒パウロはコロサイ教会を担当していた「使徒」で、コロサイ教会に神様の御言葉を分かち合う責任と牧会の責任がありました。そして、パウロが王様である神様に、お祈り通して、コロサイ教会について感謝を捧げることは、ただ形だけの挨拶ではなく、コロサイ教会にとっても非常に重みのある励ましの言葉にもなったのです。の。

 

さて、パウロはなぜ感謝していたのでしょうか?4節に書いてある通り、

4 キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、 すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。

コロサイ教会の礼拝出席者、社会的影響力、献金額、洗礼の数などではなく、コロサイ人が彼らの王様であるイエスキリストに堅くより頼んでいること、そして、彼らが王様の民を深く愛していることに対して感謝していたのです。私たちが神様に教会の成長の感謝をするとき、私たちも教会の信仰と愛を見て、感謝しているのかどうかを確認させられる箇所だと思います。

 

しかし、パウロは彼らの「根性」と「頑張り」を誇っているかのように聞こえますが、コロサイ教会の信仰と愛の源を見ると、そういうことは強調されていないということがわかります。

5 それらは、 あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。 あなたがたは、 すでにこの望みのことを、 福音の真理のことばの中で聞きました。

天にたくわえられてある望みがあるからこそ、コロサイ教会はイエスキリストを堅く信じることができ、キリストにある兄弟姉妹を犠牲的に愛することができたのです。そして、この「天にある望み」というのは、福音が指している私たちの「望み」でもあるのです。ここに書いてある「望み」とは私たちの心の中の主観的な「気持ち」ではなく、実際にイエス様が得て下さった客観的な「祝福」なのです。そして、「福音の真理のことば」を通して、「祝福」が宣べ伝えてられるです。

 

福音は大きく三つの望みを私たちに約束しています。まず一つ目は、わたしたちが天国で、キリストにお会いし、蘇られた栄光の体を頂き、神様と永遠に親しく交わり、神様の御国に所属するということ。二つ目の望みは、私たちが天国または神様の御国に入るのに必要な条件が、キリストにあって、満たされていること。そして、三つ目の望みは、キリストにあって、今現在、終末に与えられる天の祝福の初穂を、私たちも聖霊様を通して頂くことができるということです。要するに、このキリストにある「望み」とはただ私たちが願っているものではなく、すでに、そして今も私たちにあたえられている祝福であり、また、これからも必ず与えられる絶対的な祝福なのです。

 

その上、常に変わる私たちの心境や意思、根性など、ではなく、王様である主イエスキリストがすでに与えてくださった、揺るがない「福音」であり、それがクリスチャンの信仰と愛の源となるのです。

王様であるイエス様の絶対的な望みという良い知らせのゆえに、コロサイ教会の信仰と愛が存在して、深まったということなのです。

 

そして、パウロはコロサイ教会の愛と信仰はイエス様の御国の前進の実でもあり、証拠でもあるということを主張しています。6節にはこう書いてあります、

6この福音は、 あなたがたが神の恵みを聞き、 それをほんとうに理解したとき以来、 あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、 世界中で、 実を結び広がり続けています。 福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。

6節にある「世界中で、実を結び広がり続けている」、そして、10節にある「あらゆる善行のうちに実を結び、 神を知る知識を増し加えられますように。」は同じギリシャ語の動詞を使っていて、「実を結ぶ」と「増し加えられる」ということばは創世記1:28の「生めよ。 ふえよ。」という言葉を示唆しているのです。

 

なぜ創世記1:28節を示唆しているのでしょうか。創世記1:28では、神様は第一のアダムに命令を与えました。それはアダムにこの世を治める王権を与えて、完璧に神様に従い、子孫を増やし、世界中に神様に従う王国を拡大するという使命でした。要するに、「うめよ、増えよ」の意味はアダムが神様のために、王国を建設しなさいという意味だったのです。もしアダムが完璧にその使命を完成できたら、神様は永遠の天にある祝福と天の御国の王権をアダムに約束するとおっしゃったのです。しかし、皆さんもご存知のとおり、アダム王は堕落して、神様に従う王国を建設することができなくなり、天の祝福を得ることはできませんでした。

 

しかし、ローマ5章や1コリント15章に書いてある通り、イエス様は第二の最後のアダムです。イエス様は人として、完璧に神様に従い、神様の使命を完成し、蘇って天に昇られた際、神様の御国の王権と天にある祝福を頂きました。そして、この天の御国を拡大するため、また、天にある祝福を教会と分かち合うため、聖霊様がこの世に下られ、教会を建てられました。そして、この箇所や使徒行伝に書いてあるように、御言葉によって教会が「実を結ばせて、増えさせる」ということは、第2のアダムである圧倒的な勝利者であるイエス様が神様の天の御国をこの世で建設されている証拠であると言えるのです。

 

パウロは不安に陥(おちい)っているコロサイ教会を励ますために、「あなたたちはこの力強い御国の前進をみなさい!」と主張しています。世界中に、この「福音」が広まっていること、そして、クリスチャンがまし加えられていることは、御国の王様の力強さの証拠でもあります。コロサイ教会の中でも、同じイエス様が働いておられ、コロサイ教会の信仰と愛を通して、イエス様の圧倒的な力をお示しになっているのです。

そして、7-8節に書いてある通り、この「神様の力」は何らかの奇跡とか何かの神秘的な力ではなく、パウロとパウロの弟子であるエパフラスが宣べ伝えた神様の御言葉でした。大切なのは、パウロとエパフラスは神様の「しもべ」または神様の「仕え人」であったということです。ギリシャ語では「しもべ」は「奴隷」という意味で、「仕え人」の意味は「ウエーター」のような意味です。神様のメッセンジャーには何の権威もなく、何の力もないのです。メッセンジャーに権威があるのは、ただ神様の御言葉を語っているということのみです。牧師であり、教師である、私と廣橋先生はただ主人であるイエス様のいうことを奴隷として聞き、イエス様が備えて下さる祝福をイエス様の民にただ運んでいるだけなのです。なぜ教会が成長するのか、なぜ人の心が変わるのか、なぜ人が救われるのか?それは、メッセンジャーの賜物ではなく、王であるイエス様の御言葉が力強いものであり、聖霊様が生きておられるからなのです。

 

ですから、もし私たちが主イエスキリストの力強さを目で見たいというなら、その証しは隣に座っているクリスチャンや、世界の果てまでに広がっている教会、そして、死んでいた私たちの心の中に神の御言葉によってもたらされたキリストに対する信仰と教会に対する愛を見る必要があります。私たちの王である主イエスキリストは実際に生きておられ、必ず私たちが待ち望んでいるものを与えて下さるのです。

 

  1. イエス様の民の成長

二つ目のポイントは、イエス様の民の成長です。

9-11節では、神の御国の民として成長するには、聖霊様が与えて下さる知恵と理解力によって、良い行いという実を結ぶ必要があると書かれています。

 

9節では、コロサイ教会に対する神への感謝で満ちていたパウロは、彼らの成長のために祈りました。

9   こういうわけで、 私たちはそのことを聞いた日から、 絶えずあなたがたのために祈り求めています。 どうか、 あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、 神のみこころに関する真の知識に満たされますように。

ここで重要なのは、どれほど成熟したクリスチャンであっても、絶対に自分の成長に満足しないということだと思います。むしろ、コロサイ教会がすばらしかったからこそ、パウロは彼らの成長のために祈ったのです。私たちはそのように、自分の成長、そして、他人の成長を見ているでしょうか?

 

もう一つ重要な点は、成長の順序です。コロサイ教会が良い行いという実を結ぶには、「聖霊様が与えて下さる知恵と理解力」が必要だったということです。ある意味、良い行いには、正しい、良い知識が必要です。

 

これは私たちが普通に考えることだと思います。私たちはどのようにまだ会ったこともない人を愛することができるでしょうか?写真だけをみて、好きになって、結婚しようとする人はあまりいないと思います。

 

人間は何にも知らないモノにより頼めない者なのです。バンジージャンプをする時、バンジーコードも確認しないで、崖から飛び降りるひとはあまりいないと思います。

 

人間は何も知らない望みのために、待ち望むことができるでしょうか。誰かを待つとき、連絡がなくて、理由もわからずに、その人のために、何時間、何か月間、何年間も待てる人はあまりいないと思います。

 

それゆえに、コロサイ教会がますます神様と神様が約束してくださっていることを理解して、満たされることをパウロは祈ったのです。その聖霊様と御言葉の知識によって、私たちはイエス様に対する正しく良い感情が沸(わ)き起こり、心から自然に良い行いをしたくなるのです。感情に基づいた成長は、感情が生ぬるくなったら、成長も生ぬるくなります。意志に基づいた成長は、ただ義務や形だけになり、燃え尽きる傾向があります。それゆえに、5節に書いてある通り、パウロはクリスチャンが福音を通して揺るがない希望について知るときに、どれほどけ生ぬるくても、どれほど燃えつきていても、揺るがないキリストにある原点に戻り、さらに深い信仰、さらに深い愛へと導かれると教えているのです。そのため、パウロは知識から始まる成長のために祈っています。

 

10節を読みます

10 また、 主にかなった歩みをして、 あらゆる点で主に喜ばれ、 あらゆる善行のうちに実を結び、 神を知る知識を増し加えられますように。

この10節の「また」でははっきりわかりませんが、10節には聖霊様から来る知識の目的が書かれています。ギリシャ語の文法では、御言葉の知識の目的は「主を喜ばせる」ことなのです。御霊にある深い知識は浅い愛をもたらしません。深い、犠牲的な愛を生み出します。よく1コリント8:1では「知識は人を高ぶらせ、 愛は人の徳を建てます」を引用して、知識と愛を対比するような考えがあります。しかし、これは聖書的な考え方ではありません。1コリント8:1の知識は「浅い」、御霊から発していない知識なのです。イエス様の模範から「知識と愛」の相互関係がよくわかると思います。イエス様は完璧に御父を知っておられ、一番御言葉に根付いた神学者であったゆえに、神様に常に祈り、従い、神様を愛し、神様を喜ばせたかったのです。何時間も御言葉を勉強し、神様への深い愛、より親密な神との交わり、心からあふれる礼拝に導かれないとしたらそれはまだ「浅い」知識だと言えると思います。形だけ信仰、生ぬるい信仰、感情的な信仰、義務的で律法主義的な信仰は、御言葉と聖霊様からくる知識がまだ未熟であることがをパウロは指摘しているのです。

 

11-12節では、パウロはその知識の実を具体的に書いています。

また、神の栄光ある権能に従い、 あらゆる力をもって強くされて、 忍耐と寛容を尽くし、 12 また、 光の中にある、 聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、 喜びをもって感謝をささげることができますように。

 

福音をより知るほど、私たちはあらゆる力が神さまから与えられ、どのような誘惑があっても、主にかなった主に喜ばれる歩みができるのです。福音をより知るほど、どんなに激しい試練であっても、天にたくわえられている望みを見て、希望をもって忍耐することができるのです。そして神の子として、神様を喜ばせ、神の栄光を表したくなり、ヨブのように、苦難の中からでも神様の名を褒めたたえられるようになるのです。

 

それゆえに、性格と賜物問わず、御言葉をより知るほど、良い行いをして、神様を喜ばせるたくなるのです。そのために、私たちは毎週教会に来て説教を聞くのです。そのために、私たちはセルグループの交わりの中で、神様の御言葉と接するのです。そのために、日々のデボーションで御言葉を読んで、お祈りを通して神様に応えて賛美を捧げるのです。

 

それでは、福音を知ることによって、私たちは何について知ることができるのでしょうか。

 

III. イエス様の勝利の喜び

三つ目のポイントはイエス様の勝利の喜びです。

12-14節では、福音がいかに恵み深く、神様がいかに働いて下さり、なぜ私たちは感謝すべきなのかが書いてあります。

 

まず、12節にある、クリスチャンは「相続分にあずかる資格を私たちに与えて下さった」とはどういう意味でしょうか。ギリシャ語では、「相続分」は二つの言葉を指していて、よく旧約聖書では「約束の地」を指していました。旧約のひな型を通して、神様はクリスチャンに天にある「約束の地」を約束されて神様と永遠に交わることを約束しておられるのです。先ほど、申しましたように、アダムとイスラエルは神様の「律法」を完璧に果たす必要がありました。しかし、それができなかったら、「相続分」を引き継ぐ資格を受けることはできませんでした。

 

しかし、1:12節に書いてある通り、私たちは天の「約束の地」に入る資格が与えられたのです。それはなぜでしょうか。それは父なる神様がイエス様の完璧な義、または完璧に律法を果たしてくださった結果を私たちに与えてくださったのです。その結果が私たちに転嫁されたので、私たちは聖くされ、相続する資格が与えられたです。それ故に、イエス様を信じるなら、イエス様の完璧の義があたえられるです。

 

もし自分の過去の罪の大きさや、今までの自分の信仰の不安定さ、そして、これからの自分の成長の遅さを思って自分が本当に天の祝福を受けるにふさわしい者かどうかを疑っているなら、どうかよく聞いて下さい。「聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった」。もしイエス様の完璧で揺るがない「義」により頼むなら、あなたはすでにその資格が与えられるのです。そして、今後罪を犯しても、信仰が弱くなっても、試練を通して神様を疑ったとしても、その資格は消えません。天にたくわえられてある望みは揺るがない望みなのです。

 

次に、13-14節では、神様が私たちをどのように救い出したかをパウロも説明しています。

13 神は、 私たちを暗やみの圧制から救い出して、 愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 14 この御子のうちにあって、 私たちは、 贖い、 すなわち罪の赦しを得ています。

私たちはもともと、暗闇の圧政、サタンの支配の下にいた者だったのです。これは出エジプトを示唆しており、神様はモーセを通して神の民をパロの支配から救い出したように、神様はイエス様のわざを通して、私たちをサタンの圧政から救い出ししてくださったのです。

 

出エジプト3:7-8にはこう書いてあります。

わたしは、 エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、 追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。 わたしは彼らの痛みを知っている。 8 わたしが下って来たのは、 彼らをエジプトの手から救い出し、 その地から、 広い良い地、 乳と蜜の流れる地、 カナン人、 ヘテ人、 エモリ人、 ペリジ人、 ヒビ人、 エブス人のいる所に、 彼らを上らせるためだ。

7-8節を読むと、この聖なる戦われる王様はパロに戦争を布告するのです。私たちの王である神様が御自分の民の嘆き声を聞かれたとき、神様はすぐに王座からくだられ、聖なる将軍として民をお救いくださるのです。8節に書いてある「救い」のヘブル語の意味は、暴力的に「奪う」または「引きちぎる」という意味があります。聖なる将軍である神様は、パロに支配され縛られた私たちを救う為に、エジプトに突撃し、エジプトの軍隊を絶滅させ、私たちの手錠を引きちぎり、パロの臨在と支配から私たちを奪い「約束の地」である御自分のご臨在へと導かれるのです。導いてくださったのです。王子様がお姫様を救うような場面です。

 

それと似たように、神様は私たちをサタンの支配から贖い出し、律法のくびきから解放し、罪に縛られたわたし達の心を自由にしてくださり、死の呪いを打ちくだかれたのです。神様は私たちを暗闇の王国から、愛する御子、究極のダビデ王である、イエス様の光の王国に移し、永遠のいのち、満ち溢れた幸い、力強い守りを与えて下さるのです。

 

ところで、イエス様はどのようにサタン、罪、死を圧倒的に倒されたでしょうか。出エジプトに書いてあるように、十の災いを通してパロを倒されたり、紅海を通してエジプトの軍を倒されたときのような力強い救いの手段だったでしょうか。そうではありません。14節に書かれているのは、「罪の赦し」を通しての救い手段なのです。赦しの十字架を思い出すとき、よく、弱わくて、敵に追われている、無力なイエス様を思い描いてしまいますが、実は、戦士でもある王なるイエス様がカルバリーに突撃して、十字架で得た赦しを通して、圧倒的な勝利者になられたのです。十字架でイエス様が完璧に律法を果たして、神様の御怒りを完全に満たした下さったことによって、出エジプトのときのように、サタン、罪、死から力強く私たちを贖い出してくださったのです。この力強い贖いを通して、イエス様が天にたくわえられてある望みを得て下さったのです。それ故に、それは揺るがない望みなのです。

 

もし私たちが信仰と愛を深めて、教会のために仕えたたり、神様を喜ばせたいなら、自分が神様と教会のために何をどのように愛するかよりも、まず、私たちは神様がどのように教会と自分を愛してくださったかを思い出す必要があります。

 

結論・適応

では改めてお聞きします、私たちの究極の望みとは何でしょうか。「何」よりも「だれ」なのです。私たちが待ち望んでいるのは、私たちの王様であるイエス・キリストなのです。天におられる私たちの王でもあり、花婿でもあり、救い主でもあるイエスキリストのうちに、 知恵、知識、すべての宝が隠されているのです。そのゆえに、あなたは天におられるイエス・キリストご自身を待ち望んでいらっしゃいますか?

 

もし自分の信仰、希望、愛を深めたいと思っていらっしゃるなら、まず御言葉を通して、イエス・キリストについて知識を深める必要があります。聖書を読むとき、お祈りするとき、礼拝するとき、奉仕するとき、私たちの王であるイエス・キリストをより深く知るためにしていますか?

 

私たちの究極の望みが常にイエス・キリストであるように祈り求めましょう。

 

コメントを投稿

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church