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13.7.14 礼拝

13.7.14第一礼拝

 

13.7.14 礼拝

 

 

2013年7月14日 ルカ17:11-19 「賛美と感謝の心」

序文)主イエス様が弟子たちとパリサイ人たちに、交互に教えておられる記事の中に、突然、ツァラアト(古い訳でライ病)に冒された10人のいやしが挿入されています。これは今までの教えと、その反応を暗示し、証拠だてるような位置におかれています。そして、主ご自身の教えとして、信仰の応答には、神をあがめる信仰と言う深さがある事を示されました。

Ⅰ 11-14節 いやされる信仰

主イエス様がエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの地境を通られた。ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。この内少なくとも一人はサマリヤ人でありました。旧約聖書のネヘミヤ時代以来、サマリヤ人とユダヤ人は対立関係にありました。それはサマリヤ人が捕囚時代にユダヤに残された民と異民族との交わりによって生まれた人々となり、神様を礼拝するのにエルサレムと対抗してゲリジム山に礼拝場所を造ったからでした。ユダヤ人から見ると異端集団であると見なされていたからでした。一般的には人種や民族の障壁が歴史的経緯のために根深く社会の隅々にあります。しかし十人はお互いにツァラアトに冒されていたために悲惨な状況に置かれていたので、このような人為的な事柄は取り払われているのでした。自分たちは、みな、救いを必要とする人間であるという点で一致した心を強く持っていました。

私たちが神の創造による人間であるにもかかわらず、今は、神から遠くはなれた罪深い存在である事を認め、その悲惨と究極的な死を迎えるので、救われる必要があることに気づく時に、どの民族かとか、どのような階層に属するかとか、社会的ないろいろの制約、区別は問題ではなくなります。聖書の真の神による救いを必要としているのです。ユダヤ人もギリシャ人も未開の人も、男も、女も全て、根本において救いと永遠のいのちへの誕生を必要としているのです。イエス・キリストの福音は、救いを求めるすべての人に有効で、求めさえすれば、その人に届くのです。

主イエス様は十人のツァラアトの方々に出会いました。彼らは遠くはなれて立っていました。ユダヤの律法は、ツァラアトの人は宿営の内には住めない。外に住み、元気な人々に近づく事を禁止していました。また、人々が誤って近づくのを防ぐために、衣服を裂き、頭を現し、口を覆って自ら「汚れた者、汚れた者」と叫ばなければなりませんでした。それは生ける屍のような扱いで、社会的には孤立無援の生活環境でした。彼らは主イエス様を遠くに認めて声を張り上げて「イエスさま。先生。どうぞあわれんでください。」と言いました。通常は声がつぶれている事が多いと言われている彼らが「声を張り上げて」という所に、どれほど真剣であったかがわかります。この機会を逃せない。どうしても!なんとしてでも!なのです。イエス様はあわれんでくださる。いやしてくださる。そのような方であるとの希望を持っていました。次の機会に信じればいいやといった姿勢ではありません。救いのために、今しかない!

主イエスは言われました。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」この一言だけでした。それは権威あることばでした。ツァラアトの人は、病気がなおるときよめられた証拠として祭司のところに行って清いと宣言してもらう必要がありました。宗教的にも社会的にも完全に復帰できるための定めだったのです。イエス様は、彼らがまだ治っていないときに、祭司に見せなさいと言われたのです。このことは、十人が主のお言葉を信じて治ったと確信して祭司のところに行く事を求めていました。マタイの福音書8章にでてくる、一人のツァラアトの人が癒されるとき、主イエス様は、彼にさわって「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました.その上で祭司のところに行くようにと命じました。同じ問題を抱えている人々に、主イエスはそのひとり一人にふさわしい取り扱いをして解放されました。私たちにも、それぞれにふさわしい導きによりお救いくださるのです。

十人は信仰の試しがありました。彼らはすぐにおことばに従いました。その結果彼らは祭司のところに行く途中でいやされました。信仰による救いは、今目に見えるところによらないで、ただ、約束されたお方、イエス様の真実なことばに頼って歩むところに成就するのです。まさに一方的に受けるだけなのです。神からの恵みなのです。約束の先取りです。

私たちは信仰によって罪赦された者として、また、神の子として新しい誕生を得た者として歩み始めます。そのとき、赦された解放と幸いと安心を経験し、神の子であるさまざまな特権を用いるようにと主イエス様から勧めをいただいて、祈りはじめます。神様の救いの約束は信仰によって歩む者に実現するのです。

 

Ⅱ 15-16節 感謝する信仰

ツァラアトから清められた十人のうち、イエス様に感謝するために戻ってきた者はサマリヤ人ただ一人でした。「大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足下にひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。」

信仰によってあゆみだす事も大きな決断ですが、感謝の心をもって引き返してイエス様にお礼をいうのも、また、大変な努力がいりました。とくかく人間は救われた恩を、めぐみを忘れやすいのです。出エジプトした民たちがモーセに率いられて荒野を旅する時に、感謝ではなく、不平を次々といって、神様がついにそれを幾度か裁かれたことを思い出します。救われる者、きよめられる者、癒される者は多いのです。しかし感謝をもって神を賛美する者が少ないのです。私たちも、救われた絶大な恵みをわすれて、感謝どころか、次々と不平をならべ立ててしまいがちである事を悔い改めましょう。恵みを求める時は熱心ですが、恵みを受けた後に持ち逃げするのです。感謝する者が少ないのです。十人中九人が忘れたのです。信仰生活に置いては、常に信仰と伴に働かれる聖霊様が導くのです。私たちの不平が導くのではありません。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:6)

 

Ⅲ 17-19節 あがめる信仰

1 主のもとにひれ伏して感謝したこのサマリヤ人に「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」

主イエス様のことばを聞くと、そのわざが、単純に病気全快をめざしていたのではなかったことが、はっきりわかります。霊的ないやしを含むものとして「あなたを直した」いわれました。

神のあわれみへの賛美と感謝のこころは、このサマリヤ人により高い憐れみをもたらしました。主は彼にからだのいやし以上の事を与えられました。信仰は究極的に神をほめたたえ、あがめるところまですすみます。このツァラアトの人がしたことは、「神の栄光」のためにという目的を、「大声であがめ賛美する」仕方で現したことでした。「神をあがめるために」「神の栄光」のためにと私たちを救う信仰は働くのです。

2 イエス様の母マリヤは、このツァラアトだった人よりも前に、同様の賛美をささげ神をあがめたかたでした。「わたしのたましいは主をあがめ、わが霊はわが救い主なる神を喜びたたえます。」わたしは全存在をかけて神をたたえます。わたしの思いもからだも手のわざも足の歩みも、すべてをかけて賛美いたします。マリヤは自分の内に神の全能の力が働き、驚くべき恵みにあずかったことを理解し、確信したとき賛美せずにはおれませんでした。

神は賛美を喜ばれます。とくに喜びの感謝の賛美ほど豊かに神をたたえることは他にありません。喜びの賛美を歌うときは、その賜ったものや賜った出来事を理解できたことを表わすのです。神から恵みを項いたという喜びだけでなく、神がそうしてくださったお心がよく理解できたときの喜びの感謝と賛美は、どれほどに湧きあふれることでしょうか。

「あがめる」(原語:メガルノー)の意味が「拡げる。おおきくする」です。メガとついているのは、そういう意味で、たとえばメガホン(拡声器)、メガトン水素爆撃の威力など。マリヤは「自分を小さくして、神を大きくする」と歌っているのです。パウロは「生きるにしても死ぬにしても私の身によって、キリストのすばらしさが現われされることを求める」と書いているが、このマリヤの心と同じです。

日常においてわたしたちに、神は一方的に恵みをくださいます。わたしたちは主があたえてくださる事柄に感謝します。病気が治った。子供が生れた、就職できた、入学した、この人と結婚できた。さまざまなことに感謝します。すばらしい神の恵みに御礼を言うのは人間として当然の心くばりでしょう。しかし、そこにとどまってしまわないで、その事柄の所以を深く理解し、神のみむねの深さ、恵みを十分にくみとって喜びの賛美をささげるにいたるなら、これほどすばらしいことはありません。そのような中で何よりも救いをいただいたことへの感謝と喜びの賛美は年を追うごとに深まり、増しくわわらねば本当とはいえません。

マリヤがある意味ではとても理解できないようなショックな体験にさらされたにもかかわらず、なお、かくも神への喜びの賛美をささげたということを思うとき、その賛美の心は崇高でもありました。「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと」は、ここにみごとにあかしされています。

 

結び)神様は今朝も、あなたのうちにきよめのわざを行ない続けておられます。このことを信じましょう。あなたが洗礼を受けたときに、神の救いの確証ときよめの働きが開始されました。目にみえる「水」でそれは表されました。今なお、身の内側に残存している罪の腐敗、汚れをおぼえても、神のみわざを信じましょう。信仰を保ちつづけ、みことばを読み、聞き続け、礼典や祈祷の恵みの手段を用いて確実な約束に立ちましょう。み国にはいるための健康が備えられつつあると確信しなければなりません。

九人のように神の恵みを忘れ、かつて自分が神から遠くはなれ汚れた者と叫んでいた惨めな存在であったことを忘れてはなりません。自分を死の病いから解放してくださったみ言葉を覚え、主の足下に新しくひれ伏して、主によって神をサンビし感謝によって栄光を神に帰するようにしましょう。

詩篇 103:1−5

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