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2013年 4月7日

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2013年(ねん)4月(がつ)7日(にち)主日(しゅじつ)礼拝(れいはい)
説教題(せっきょうだい):「生(い)ける神に(かみに)望み(のぞみ)を置い(おい)ている」
聖書(せいしょ):第一(だいいち)テモテ4:1−10

 

序文(じょぶん))私(わたし)たちは前回(ぜんかい)の説教(せっきょう)で、神(かみ)の家(いえ)と敬虔(けいけん)の奥義(おうぎ)を学び(まなび)ました。今日(きょう)もパウロの手紙(てがみ)は続き(つづき)ます。今日(きょう)は、霊的(れいてき)な敬虔(けいけん)と生(い)ける神(かみ)に望み(のぞみ)を置(お)く人生(じんせい)について学(まな)びます。聖霊様(せいれいさま)の助(たす)けによって、御言葉(みことば)に書(か)いている神様(かみさま)の御心(みこころ)が何(なに)か分(わ)かるように祈(いの)ります。

 

1.偽(いつわ)りの教(おし)え

パウロは4章(しょう)1節(せつ)からは御霊(みたま)が明(あきら)らかに言(い)われるようにと話(はなし)を始(はじめ)めています。これからの話(はなし)は彼(かれ)の話(はなし)ではなく、御霊(みたま)が明(あきら)らかに示(しめ)している大切(たいせつ)な話(はなし)ですと言(い)っているのです。それは1節(せつ)から5節(せつ)までの偽(いつわ)りの教師(きょうし)の教(おし)えに対(たい)する警告(けいこく)です。パウロはテモテにエペソ教会(きょうかい)の偽(いつわ)りの礼拝(れいはい)が神様(かみさま)への真(まこと)の礼拝(れいはい)を汚(けが)すことを警告(けいこく)しています。後(のち)の時代(じだい)、すなわち、近(ちか)いうちに、ある人(ひと)たちは惑(まど)わす霊(れい)と悪霊(あくれい)の教(おし)えとに心(こころ)を奪(うば)われ、信仰(しんこう)から離(はな)れるようになります。と警告(けいこく)しています。聖霊様(せいれいさま)の導(みちび)きに従(したが)うことではなく、偽(いつわ)りの霊(れい)と悪霊(あくれい)に従(したが)うことになるから背教(はいきょう)が起(お)こることを警告(けいこく)しています。

彼(かれ)らの特徴(とくちょう)はうそつきで、偽善(ぎぜん)によるものであり、良心(りょうしん)が麻痺(まひ)しています。彼(かれ)らはサタンによって支配(しはい)される者(もの)で、平気(へいき)でうそをつく者(もの)です。サタンは彼(かれ)らを利用(りよう)して神様(かみさま)まで登(のぼ)る手段(しゅだん)として使(つか)っています。また、彼(かれ)らは良心(りょうしん)が麻痺(まひ)しています。良心(りょうしん)が麻痺(まひ)している文字的(もじてき)な意味(いみ)は体(からだ)に火(ひ)で焼(や)いた印(いん)が押(お)してあるという意味(いみ)です。昔(むかし)、奴隷(どれい)を媒介(ばいかい)する時(とき)、主人(しゅじん)が自分(じぶん)の奴隷(どれい)の体(からだ)に火(ひ)で焼(や)いて、自分(じぶん)のものであることを現(あらわ)す時(とき)に使(つか)った言葉(ことば)です。火(ひ)で焼(や)いた部分(ぶぶん)はだんだん堅(かた)くなり、その感覚(かんかく)が無(な)くなりました。それと同(おな)じように悪(わる)いことを続(つづ)けるとその良心(りょうしん)の感覚(かんかく)が無(な)くなり真理(しんり)を区別(くべつ)することが出来(でき)なくなります。その人(ひと)は良心(りょうしん)が麻痺(まひ)している者(もの)で、彼(かれ)らの所有者(しょゆうしゃ)はサタンです。

人(ひと)は罪(つみ)を犯(おか)すと罪悪感(ざいあくかん)という良心(りょうしん)の警告(けいこく)が出(で)ます。しかし、その罪(つみ)が重(かさ)なると良心(りょうしん)がだんだん麻痺(まひ)することになり、罪悪感(ざいあくかん)を感(かん)じる良心(りょうしん)の働(はたらき)きが鈍(にぶ)くなって本当(ほんとう)に罪悪(ざいあく)な人(ひと)になります。それぐらい罪(つみ)を繰り返(かえ)して犯(おか)す結果(けっか)は深刻(しんこく)です。その罪悪(ざいあく)な人(ひと)から他(ほか)の人々(ひとびと)に大(おお)きな被害(ひがい)が生(しょ)じます。そのために法律(ほうりつ)を作(つく)って人間(にんげん)の罪悪性(ざいあくせい)を力(ちから)によって制限(せいげん)しています。しかし、その法律(ほうりつ)の力(ちから)が力(ちから)にならない人(ひと)、すなわち国(くに)の権力(けんりょく)を握(にぎ)っている人(ひと)の中(なか)で良心(りょうしん)が麻痺(まひ)している者(もの)がいます。そのような人(ひと)によって、歴史(れきし)の中(なか)では多(おお)くの暴力(ぼうりょく)と殺人()による大勢(おおぜい)の人々(ひとびと)が殺(ころ)され、苦(くる)しみを受(う)ける大(おお)きな悲劇(ひげき)が起(お)こっています。

それぐらい大(おお)きな問題(もんだい)ではなくでも、私(わたし)たちが日々(ひび)犯(おか)している罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めることを避(さけ)け始(はじ)めると私(わたし)たちの良心(りょうしん)もだんだん鈍(にぶ)くなります。それで、信仰(しんこう)から離(はな)れるようになります。ですから、私(わたし)たちは神様(かみさま)の前(まえ)で素直(すなお)に生(い)きるのが大切(たいせつ)です。それは自分(じぶん)が罪人(つみびと)であり、いつも神様(かみさま)の赦(ゆる)しと人々(ひとびと)の許(ゆる)しが必要(ひつよう)である者(もの)だと認(みと)めることで、それが神様(かみさま)の前(まえ)で素直(すなお)に生(い)きる人生(じんせい)です。その生(い)き方(かた)が私(わたし)たちを信仰(しんこう)から離(はな)れること無(な)く、健全(けんぜん)で健康(けんこう)は人生(じんせい)を保(たも)つためのものになります。

エペソ教会(きょうかい)の異端(いたん)たちは物質(ぶっしつ)とは悪(わる)いもので、精神的(せいしんてき)なものは良(よ)いと考(かんが)え、肉的(にくてき)なものは悪(あく)の原因(げんいん)であると主張(しゅちょう)しました。その理由(りゆう)で、彼(かれ)らは結婚(けっこん)することを良(よ)くないと考(かんがえ)え、それを禁(きん)じ、食物(しょくもつ)を制限(せいげん)したベジタリアニズムでした。結婚(けっこん)を禁(きん)じることはエッセネ派(は)から始(はじ)まり、後(のち)にグノーシス主義(しゅぎ)たちの教理(きょうり)になりました。彼(かれ)らは肉体的(にくたいてき)な快楽(かいらく)は罪(つみ)だと決(き)め清(きよ)い生活(せいかつ)を保(たも)つためには禁欲(きんよく)の道(みち)しか無(な)いと主張(しゅちょう)しました。

しかし、結婚(けっこん)は神様(かみさま)が人間(にんげん)のために特別(とくべつ)に作(つく)った制度(せいど)です。神様(かみさま)がこの世(よ)を創造(そうぞう)した時(とき)、非常(ひじょう)に良(よ)かったと宣言(せんげん)しました。ですから、無理(むり)やりにする禁欲主義(きんよくしゅぎ)は神様(かみさま)の創造(そうぞう)の摂理(せつり)に反(はん)するものです。食物(しょくもつ)も神様(かみさま)が作(つく)った物(もの)ですから、信(しん)じる物(もの)は感謝(かんしゃ)をもって食(た)べるのです。旧約(きゅうやく)にはモーセによって禁(きん)じられた食(た)べ物(もの)がありました。しかし、イエス様(さま)は人間(にんげん)をすべての不義(ふぎ)から解放(かいほう)してくださいました。ですから、私(わたし)たちは特別(とくべつ)に食(た)べ物(もの)を制限(せいげん)することや野菜(やさい)だけを食(た)べる必要(ひつよう)はありません。パウロは4節(せつ)で、神(かみ)が造(つく)られた物(もの)はみな良(よ)い物(もの)で、感謝(かんしゃ)して受(う)けるとき、捨(す)てるべき物(もの)は何一つ(なにひとつ)ありません。とはっきり教(おし)えています。それらのものが神(かみ)のことばと祈(いの)りとによって、聖(きよ)められるからです。と教(おし)えています。

神様(かみさま)が作(つく)った結婚(けっこん)というものを神様(かみさま)の祝福(しゅくふく)として受(う)け入(い)れ、日々(ひび)の食(た)べ物(もの)と飲(の)み物(もの)も神様(かみさま)からの祝福(しゅくふく)であると受(う)け入(い)れるのです。ただし、イエス様(さま)を信(しん)じる者(もの)は食(た)べたり、飲(の)んだりすることも世(よ)の人々(ひとびと)のように快楽(かいらく)と満足(まんぞく)のためにするのではなく、神様(かみさま)の栄光(えいこう)のためにするのです。それが神様(かみさま)のことばと祈(いの)りとによって、聖(きよ)められるの意味(いみ)です。

イエス様(さま)を信(しん)じる者(もの)は自由(じゆう)ある者(もの)です。しかし、それが何(なん)でもやってもいいという意味(いみ)ではありません。ですから、時(とき)には私(わたし)たちはイエス様(さま)を証(あかし)するために食(た)べ物(もの)と飲(の)み物(もの)を制限(せいげん)する必要(ひつよう)があります。第一(だいいち)コリンド3書(しょ)16節(せつ)では「あなたがたは神(かみ)の神殿(しんでん)であり、神(かみ)の御霊(みたま)があなたがたに宿(やど)っておられることを知(し)らないのですか。」と書(か)いています。私(わたし)たち一人一人(ひとりひとり)が神様(かみさま)の聖(せい)なる神殿(しんでん)であり、聖(せい)なる神様(かみさま)の御霊(みたま)が私(わたし)たち一人一人(ひとりひとり)に宿(やど)っておられることを聖書(せいしょ)は教(おし)えています。ですから、私(わたし)たちは聖(せい)なる者(もの)です。イエス様(さま)を信(しん)じない者(もの)の中(なか)でも多(おお)くの人々(ひとびと)が食(た)べたり、飲(の)んだりすることを避(さ)けるものを、聖(せい)なる神様(かみさま)の神殿(しんでん)である私(わたし)たちが食(た)べたり、飲(の)んだりするのはとてつもないことであるのが分(わか)かります。それは神様(かみさま)の神殿(しんでん)を汚(けが)す行為(こうい)になります。ですから言(い)い訳(わけ)とか、惑(まど)わされずに信仰(しんこう)によって決断(けつだん)しましょう。また、聖(せい)なる生活(せいかつ)が守(まも)れるように祈(いの)りましょう。

 

2.霊的(れいてき)な敬虔(けいけん)

 

パウロはテモテにこれらのことを兄弟(きょうだい)たちに教(おし)えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者(ほうししゃ)になります。と彼(かれ)の働(はたら)きを励(はげ)ましています。彼(かれ)の主(おも)な働(はたら)きは兄弟(きょうだい)たち、すなわちパウロの霊的(れいてき)に兄弟(きょうだい)であり、家族(かぞく)であるエペソ教会(きょうかい)の人々(ひとびと)に教(おし)えることです。それは権威(けんい)を現(あらわ)すためのものではなく、異端的(いたんてき)な教(おし)えから守(まも)るための愛(あい)の働(はたら)きです。その働(はたら)きを忠実(ちゅうじつ)にすることによって、キリスト・イエスのりっぱな奉仕者(ほうししゃ)になります。とパウロはテモテを励(はげ)ましています。

それは信仰(しんこう)のことばと、あなたが従(した)って来(き)た良(よ)い教(おし)えのことばとによって養(やしな)われているからです。とパウロは言(い)っています。それは偽(いつわ)りの教(おし)えではなく、真(まこと)なる神様(かみさま)のみことばと小(ちい)さい時(とき)から母親(ははおや)とおばあさんが信仰(しんこう)によって彼(かれ)を養育(よういく)したことによって、今(いま)のテモテが神様(かみさま)の忠実(ちゅうじつ)な働(はたら)き人(ひと)になっていると教(おし)えています。その忠実(ちゅうじつ)な姿(すがた)と働(はたら)きを多(おお)くの人々(ひとびと)に見(み)せるように勧(すす)めています。

パウロはりっぱな奉仕者(ほうししゃ)になるために俗悪(ぞくあく)で愚(ぐ)にもつかぬ空想話(くうそうばなし)を避(さ)けなさい。むしろ、敬虔(けいけん)のために自分(じぶん)を鍛練(たんれん)しなさい。と命(めい)じています。俗悪(ぞくあく)とは聖(せい)なるところを汚(けが)すことを意味(いみ)します。また、愚(ぐ)にもつかぬ空想話(くうそうばなし)とは年寄(としよ)りの女(おんな)がこどもに聞(き)かせたいと思(おも)っている無駄(むだ)な話(はなし)を意味(いみ)します。すなわち、異端(いたん)者たちが語(かた)った果(は)てしのない系図(けいず)と神話(しんわ)の話(はなし)であります。それに心(こころ)を奪(うば)われたりしないように命(めい)じています。その代(かわ)わりに敬虔(けいけん)のために自分(じぶん)を鍛練(たんれん)しなさいと命(めい)じています。

敬虔(けいけん)とは純潔(じゅんけつ)な良心(りょうしん)で、神様(かみさま)の前(まえ)に出(で)る心(こころ)を意味(いみ)します。すなわち神様(かみさま)の聖(せい)なる品性(ひんせい)を習(なら)うのを意味(いみ)します。それは神様(かみさま)であるイエス様(さま)の品性(ひんせい)と姿(すがた)を習(なら)い、似(に)る者(もの)になることを意味(いみ)します。また、敬虔(けいけん)とは生(い)きている神様(かみさま)を信(しん)じる信仰(しんこう)による力(ちから)と実在(じつざい)です。ヤコブは神様(かみさま)だけを頼(たよ)り、この世(よ)に流(なが)されず、困難(こんなん)の中(なか)にある人々を助(たす)けることが真(まこと)の敬虔(けいけん)であると教(おし)えています。敬虔(けいけん)な人(ひと)は神様(かみさま)の御言葉(みことば)を真剣(しんけん)に受(う)け入(い)れ、奉仕(ほうし)し、施(ほどこ)し、祈(いの)る生(い)き方(かた)を持(も)っています。また、言葉(ことば)の使(つか)いを注意(ちゅうい)し、神様(かみさま)の御心(おこころ)を行(おこな)い、再(ふたた)び来(く)るイエス様(さま)を持(ま)ち望(のぞ)む者(もの)です。そのような敬虔(けいけん)な人生(じんせい)は神様(かみさま)の御言葉(みことば)と親(おや)の養育(よういく)と祈(いの)りによって可能(かのう)です。

続(つづ)けて8節(せつ)では肉体(にくたい)の鍛練(たんれん)もいくらかは有益(ゆうえき)ですが、今(いま)のいのちと未来(みらい)のいのちが約束(やくそく)されている敬虔(けいけん)は、すべてに有益(ゆうえき)です。と教(おし)えています。肉体(にくたい)の鍛練(たんれん)とは外面的(がいめんてき)な信仰(しんこう)の行(おこな)い、すなわち礼拝(れいはい)への参加(さんか)、聖書(せいしょ)の学(まな)び、祈(いの)り会(かい)、昇天(しょうてん)、徹夜(てつや)、断食(だんじき)なども含(ふく)まれます。それらのものはある程度(ていど)までは有益(ゆうえき)ですが、今(いま)のいのちと未来(みらい)のいのちが約束(やくそく)されている敬虔(けいけん)は、すべてに有益(ゆうえき)で、大切(たいせつ)であると教(おし)えています。

日曜日(にちようび)と教会(きょうかい)に来(く)る時(とき)だけ敬虔(けいけん)な姿(すがた)を取(と)ることではなく、生活全体(せいかつぜんたい)が神様(かみさま)とともに歩(あゆ)むことを意味(いみ)し、その生(い)き方(かた)はめぐみが溢(あふ)れる平和(へいわ)な生活(せいかつ)であります。それは日常(にちじょう)の生活(せいかつ)が敬虔(けいけん)な生(い)き方(かた)である意味(いみ)です。それは今(いま)のいのちと未来(みらい)のいのち、すなわち永遠(えいえん)のいのちが約束(やくそく)されている者(もの)の生活(せいかつ)であります。その生(い)き方(かた)は自分(じぶん)が置(お)かれた生活(せいかつ)と環境(かんきょう)の困難等(こんなんなど)に左右(さゆう)されず、いつも豊(ゆた)かな人生(じんせい)を送(おく)ることが出来(でき)ます。今日(きょう)、私(わたし)たちが神様(かみさま)とともに一歩(ぽ)づつ歩(ある)くことで、そのような豊(ゆたか)かな人生(じんせい)になるのです。それが、私(わたし)たちが信(しん)じている福音(ふくいん)であり、霊的(れいてき)な敬虔(けいけん)です。

また、私(わたし)たちは自分(じぶん)の信仰(しんこう)の成長(せいちょう)とともに次(つぎ)の世代(せだい)を備(そな)える必要(ひつよう)があります。次(つぎ)の世代(せだい)、すなわち自分(じぶん)のこどもを信仰(しんこう)によって養育(よういく)するのはとても大切(たいせつ)です。パウロがテモテを高(たか)く評価(ひょうか)した理由(りゆう)の中(なか)で、彼(かれ)が母親(ははおや)とおばあさんによる信仰養育(しんこうよういく)がありました。また、聖書(せいしょ)には自分(じぶん)のこどもが敬虔(けいけん)な生涯(しょうがい)をおくるために親(おや)たちが祈(いの)り、養育(よういく)することが書(か)いています。特(とく)に信(しん)じる者(もの)のこどもの信仰養育(しんこうよういく)の責任(せきにん)はその親(おや)にあります。救(すく)いに導(みちび)くことも親(おや)の役割(やくわり)です。教会(きょうかい)はそれを助(た)ける役割(やくわり)です。また、聖書(せいしょ)ではこどもが大(おお)きくなったから教(おし)えることではなく、幼(おさな)い時(とき)からむちを持(も)って厳(きび)しく信仰(しんこう)を教(おし)えました。

ですから、私(わたし)たちは出来(でき)るだけ幼(おさな)い時(とき)からこどもに信仰(しんこう)を教(おし)えることが大切(たいせつ)です。小(ちい)さい時(とき)から霊的(れいてき)な敬虔(けいけん)を親(おや)から学(まな)んだ者(もの)は大(おお)きくなっても神様(かみさま)の前(まえ)に霊的(れいてき)な敬虔(けいけん)を保(たも)つ生活(せいかつ)をするし、神様(かみさま)が大(おお)きく祝福(しゅくふく)してくださいます。私(わたし)たちのこどもたちを信仰(しんこう)によって養育(よういく)することは後回(あとまわ)し出来(でき)る問題(もんだい)ではありません。彼(かれ)らには今(いま)が大切(たいせつ)です。人(ひと)のいのちと人生(じんせい)はだれも分(わ)かりません。それは明日(あす)が私(わたし)たちのものではないことを意味(いみ)します。今日(きょう)、私(わたし)たちに任(まか)されているこどものたましいのために何(なに)が出来(でき)るか真剣(しんけん)に考(かんが)えましょう。

私(わたし)たちが彼(かれ)らにいくら良(よ)い教育(きょういく)と良(よ)い環境(かんきょう)を提供(ていきょう)しても真(まこと)のこと、すなわち霊的(れいてき)な敬虔(けいけん)を教(おしえ)えないなら彼(かれ)らは従(した)わないし、尊敬(そんけい)を払(はら)いません。もし、彼(かれ)らは従(したが)うことと尊敬(そんけい)を払(はら)うように見(み)えることがあっても、それは形(かたち)だけです。自分(じぶん)が生(う)んだこどもであってもそうです。しかし、私(わたし)たちがこどもに霊的(れいてき)な敬虔(けいけん)を教(おしえ)えるなら彼(かれ)らは真(まこと)に従(したか)い、尊敬(そんけい)を払(はら)うようになります。それは親(おや)にも神様(かみさま)にもそういうふうになります。たとえ、良(よ)い教育(きょういく)と良(よ)い環境(かんきょう)を提供(ていきょう)することが出来(でき)ないことがあってもそうです。なぜならば、私(わたし)たちも彼(かれ)らも霊的(れいてき)な存在(そんざい)であるからです。

こどもに霊的(れいてき)な敬虔(けいけん)を教(おし)える現場(げんば)は信(しん)じる者(もの)の場合(ばあい)は家庭(かてい)です。その中心(ちゅうしん)はお父(そう)さんです。お父(そう)さんの一番(いちばん)大(おお)きな役割(やくわり)と責任(せきにん)は家族(かぞく)を養(やしな)うことや仕事(しごと)をすることだけではなく、家(いえ)のリーダーとして、家族(かぞく)、特(とく)にこどもに霊的(れいてき)な敬虔(けいけん)を教(おし)える権威(けんい)と責任(せきにん)があります。お父(とう)さんは神様(かみさま)からもらった父親(ちちおや)としての基本的(きほんてき)な権威(けんい)を持(も)っています。お父(とう)さんがこどもに霊的(れいてき)な敬虔(けいけん)を教(おしえ)えることで、その基本的(きほんてき)な権威の上に霊的(れいてき)な権威(けんい)が重(かさ)なることで、真(まこと)の権威(けんい)を持(も)つ家(いえ)のリーダーとしての役割(やくわり)を満(み)たすことが出来(でき)ます。お父(とう)さんの存在(そんざい)と役割(やくわり)はとても大切(たいせつ)です。ですからお父(とう)さんのために祈(いの)ることはとても大切(たいせつ)です。

しかし、まだお父(とう)さんが霊的(れいてき)な敬虔(けいけん)を教(おし)えることが出来(でき)ない未信者(みしんじゃ)の場合(ばあい)は先(さき)に信(しん)じたお母(かあ)さんや家族(かぞく)がその役割(やくわり)を補(おぎな)うのです。テモテはお父(とう)さんが異邦人(いほうじん)であったからお母(かあ)さんとおばあさんが彼(かれ)に霊的(れいてき)な敬虔(けいけん)を教(おし)えました。それによって彼(かれ)は立派(りっぱ)な人(ひと)になり、神様(かみさま)が大(おお)きく祝福(しゅくふく)しました。私(わたし)たちのこどもに信仰(しんこう)を教(おし)える大切(たいせつ)さはテモテという人物(じんぶつ)を見(み)ても十分(じゅうぶん)に分(わ)かります。

 

3.生(い)ける神(かみ)に望(のぞ)みを

 

パウロは敬虔(けいけん)な生(い)き方(かた)をするために労(ろう)し、また苦心(くしん)があるとしているのです。と語(かた)っています。福音(ふくいん)のために、御言葉(みことば)とおりに生(い)きる人生(じんせい)は苦労(くろう)があることを教(おし)えています。イエス様(さま)を信(しん)じてから、あるいは、洗礼(せんれい)を受(う)けてから色(いろ)んな問(もん)題(だい)が起(おこ)っこたり、生活(せいかつ)がうまく行(い)かない時(とき)があります。そのことで、戸惑(とまどう)う時(とき)もあります。また、福音(ふくいん)のために、御言葉(みことば)とおりに生(い)きようとすると今(いま)までは違(ちが)って不便(ふべん)なことや誤解(ごかい)を受(う)けたり、損(そん)することもしばしば起(おこ)こります。しかし、福(ふく)音のために、また、神様(かみさま)の前(まえ)に敬虔(けいけん)に生(い)きる人生(じんせい)は神()様とともに享受(きょうじゅ)する交(まじわ)わりがあり、やがて来(く)る楽(たの)しくて祝福(しゅくふく)された日(ひ)がくることを待(ま)ち望(のぞ)む希望(きぼう)があります。

ですから、現在(げんざい)、神様(かみさま)のために苦労(くろう)している者(もの)は幸(さいわ)いな者(もの)です。なせならば、その人(ひと)は苦難(くなん)をとおして神様(かみさま)への信仰(しんこう)がさらに深(ふか)められるからです。それで、真(まこと)の感謝(かんしゃ)を捧(ささ)げるようになります。ですからその人(ひと)は苦難(くなん)の時(とき)さえ力(ちから)を尽(つ)くして、神様(かみさま)のために熱心(ねっしん)に働(はたら)くのです。信(しん)じる者(もの)の中でもこの世(よ)の人(ひと)のように苦難(くなん)が来(く)ると自分(じぶん)の問題(もんだい)に綴(と)じ込(こ)められ神様(かみさま)から離(はな)れる人(ひと)がいる反面(はんめん)、もっと神(かみ)様に近(ち)かづく人(ひと)がいます。人(ひと)の本当(ほんとう)の姿(すがた)と信仰(しんこう)の深(ふか)さは苦難(くなん)に対(たい)する態度(たいど)を見(み)ることで明(あき)らかにされます。ですから私(わたし)たちは普段(ふだん)の生活(せいかつ)の中(なか)で霊的(れいてき)な敬虔(けいけん)のために自分(じぶん)を鍛練(たんれん)する必要(ひつよう)があります。その重(かさ)なりによって、苦難(くなん)と苦(くる)しみの中(なか)でも感謝(かんしゃ)する生活(せいかつ)になるのです。

パウロは自分(じぶん)が福音(ふくいん)のために多(おお)くの苦(くる)しみと苦難(くなん)を耐(た)えた生活(せいかつ)を過(す)ごしたように、私(わたし)たちもどんな迫害(はくがい)と困難(こんなん)も耐(た)えるように勧(すす)めています。イエス様(さま)を信(しん)じて祝福(しゅくふく)され、幸(しあわ)せになるのは嬉(うれ)しいことですが、迫害(はくがい)と困難(こんなん)を受けることは嫌(いや)だし、避(さ)けたいのが人の本音(ほんね)です。しかし、不思議(ふしぎ)なことはイエス様(さま)を信(しん)じる者(もの)はそれを避(さ)けずに受(う)け入(い)れる人生(じんせい)にだんだん変(か)わります。しかも、それが無理矢理(むりやり)ではなく、喜(よろこ)んで、自(みずか)らそうゆうふうに生(い)きようとします。それは、信(しん)じる人々(ひとびと)の救(すく)い主(ぬし)である、生(い)ける神(かみ)に望(のぞ)みを置(お)いているから可能(かのう)な生(い)き方(かた)です。

生(い)ける神(かみ)に望(のぞ)みを置(お)いている生(い)き方(かた)は今(いま)を生(い)きることだけではなく、将来(しょうらい)の永遠(えいえん)のいのちを確実(かくじつ)に保証(ほしょう)する神様(かみさま)の約束(やくそく)を期待(きたい)する生(い)き方(かた)です。ですから今(いま)の苦難(くなん)を耐(た)えることが出来(でき)ます。それが真(まこと)の敬虔(けいけん)です。私(わたし)たちがどんな時(とき)でも、希(まれ)望を持(も)って勇気(ゆうき)を出(だ)すことが出来(でき)るのは生(い)ける神(かみ)に望(のぞ)みを置(お)いているからです。私(わたし)たちの神様(かみさま)は生(い)きておられる神様(かみさま)です。それは大(おお)きな特権(とっけん)であり、希望(きぼう)です。死(しん)んだ神々(かみがみ)と偶像(ぐうぞう)とは全(まった)く違(ちが)うのです。神様(かみさま)が生(い)きておられる意味(いみ)とは人格(じんかく)を持(も)っておられることで、今、私(わたし)たちを見(み)ることが出来(でき)るし、私(わたし)たちの声(こえ)を聞(き)くことが出来(でき)る方(かた)です。神様(かみさま)が私(わたし)たちを感(かん)じることが出来(でき)るし、私(わたし)たちも神様(かみさま)を感(かん)じるのが出来(でき)ます。神様(かみさま)は生(い)き生(い)きしている存在(そんざい)です。

大昔(おおむかし)、歴史(れきし)の中(なか)でただ記(しる)されている存在(そんざい)ではありません。私(わたし)たちが息(いき)をすっているこの空間(くうかん)と時間(じかん)の中(なか)にともにおられる方(かた)です。しかも、信(しん)じる者(もの)の中(なか)に住(す)んでおられる方(かた)が神様(かみさま)である聖霊(せいれい)様(さま)です。神様(かみさま)が私(わたし)たちの内(うち)に住(す)むようになっているのです。イエス様(さま)が受肉(じゅにく)になって人(ひと)になり、人々(ひとびと)の間(あいだ)に住(す)みました。十字架(じゅうじか)と復活(ふっかつ)を通(とお)して天(てん)に上(のぼ)りましたが、今度(こんど)は聖霊様(せいれいさま)を送(おく)って下(くだ)さって、信(しん)じる者(もの)、一人一人(ひとりひとり)の内(うち)に住(す)むようになったのです。それで、私(わたし)たちはこの世(よ)に生(い)きている間にも生ける神(かみ)に出会(であ)っているし、その望(のぞ)みを感(かん)じることが出来(でき)るし、私(わたし)たちの人生(じんせい)の目標(もくひょう)をそこに置(お)くことが出来(でき)るのです。ですから、私(わたし)たちは今日(きょう)も生(い)きておられる神様(かみさま)に朝日(あさひ)とともに「おはようございます」と挨拶(あいさつ)が出来(でき)るのです。
4.結論(けつろん)

 

また、私(わたし)たちは「もし生(い)きるなら、主(しゅ)のために生(い)き、もし死(し)ぬなら、主(しゅ)のために死(し)ぬのです。ですから、生(い)きるにしても、死(し)ぬにしても、私(わ)たちは主(しゅ)のものです。」と告白(こくはく)が出来(でき)るのです。(ローマ14章(しょう)8節(せつ))

 

お祈(いの)りします。

 

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