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2009年12月27日 年末主日説教 詩篇103篇1〜5節「主のめぐみへの感謝・賛美」

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2009年12月27日 年末主日説教 詩篇 103篇 1〜5節

「主のめぐみへの感謝・賛美」

序文)2009年が終わろうとしています。年末という特別な機会の説教を、聖書のどこからしたら良いかと導きを求めていました。候補に五カ所ぐらい見つけましたが、詩篇103篇に落ち着きました。この機会に、私たちは、一年を振り返って、数々の主の恵みを思い起こして感謝をささげましょう。なぜなら、私たちはとても忘れやすいからです。これは年齢のせいではなくて、恵みを思い出し数えることを、なかなか,しないという霊的な理由があるからです。一年間何もなかったと思っておられる方が、あるいわ、おられるかもしれませんね。主の恵みの年を告げ知らせる聖霊の静かなささやき、ときには大声、を聞き漏らしたかもしれません。詩篇103篇は、神がその民たちに注がれた恵みの賛美と感謝にあふれた大詩篇です。150篇ある詩篇の中で、最高峰に位置するともいわれているのです。感謝できる17の理由がのべられているのですが、今朝は、1〜5節だけをともに読みましょう。

 

1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものものよ。

聖なる御名をほめたたえよ。

2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

 

Ⅰ 1〜2節 主をほめたたえるようにと、信仰者が自分自身を励まし、感謝と賛美に溢れるようにと、かき立てている。「わがたましいよ」。たましいは、「知性と情愛の座である」(カルバン)が、それだけでは満足しないで、「私のうちにあるすべてのものよ。」と自分自身に呼びかけている。理性も意思も感情も、ある人は、これは内蔵のすべて五臓六腑にも呼びかけていると説明しているが、要するに全人格、全身、存在のすべてで、呼びかけ合いながら、主をほめたたえよ。そうしないと神様への感謝や賛美について、私たちはとても鈍くて、絶えず躊躇しているから。この詩篇を歌う詩人でさえも、このように自分をかき立てて励まして神への感謝に向かうようにと呼びかけているのですから、まして私たちにおいておやです。わたしたちは、神の詩人たちよりももっと愚かで鈍いのですから。

主が良くしてくださったことは、日々に恵みの泉から、こんこんと湧きあふれて、私たちを潤し続けている。その一つ一つを思い出すならば、あのことこのこと、すべてが賛美と感謝に結びつく。「招きの詞」で読んでいただいた詩篇136篇1〜26節をみると、イスラエル民族のために主がしてくださった良い事柄が列挙されている。創造主への感謝、エジプトから脱出させていただいた行程のすべてへの感謝、荒野の時代から約束の地カナン定着までの事柄への感謝、神の救いのみわざへの総合的な感謝などです。私たちの誕生から救いの信仰のめぐみ、日々のめぐみと導きと摂理への感謝、小さな事柄から、大きな出来事すべてへの感謝が溢れてきてとどまるところを知らないほどである。

「忘れる」ことは「感謝をしない」ことと結びついている。主イエスさまが私たちのためにしてくださったこと、今もしてくださっていることを忘れると、感謝することから遠ざかり、同時に不平不満がわき起こってくる。放蕩息子の兄のように、天の父にむかって、怒り、抗議を申し込み、天父は私に借りがあるといわんばかりの心の態度となり、ほめたたえることから無縁になって、心寂しく、悲しく、つらくなる。

「何一つ忘れない」ためには、一人静かに思いめぐらすことが大切になる。一つ思い出すとそれとの関連で続いて思い出すことになる。そういえばこのような祝福もあった。このような悔い改めもあった。そのゆるしもあったというようにです。

神様が、私たちを主イエス様の十字架の身代わりの死によって救ってくださったことだけでも、考えられないほどの一方的な恵みでありますが、それだけではなく、神の子とした一人一人に、寛大さをもって恵みに溢れる日常を、今年も、今日も、支えてくださっている。私たちの忘恩にもかかわらずです。それはなぜか。それは、わたしたちが神をほめたたたえるためであります。神の栄光を表すためです。永遠に神を喜ぶためにです。ほめたたえることは、私たちの存在目的である。神はわたしたちが、何一つ忘れないで思い起こすなら、あまりにも多くの恵みに圧倒されて、一日中賛美していても終わらないほどであるぐらいに、恵みを注いでおられるのです。

だから詩人は、私たちに忘れることを禁じている。覚えていることを奨励している。否、賛美と感謝で主をほめたたえることを、自分に呼びかけているのです。

Ⅱ 3〜4節

3 主はあなたのすべての咎をゆるし、あなたのすべての病をいやし、

4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

感謝すべき最初の理由は、わたしの、あなたの、すべての咎をゆるしてくださったからです。第二の理由は、病をいやしてくださったからです。特に霊的なやまいも含めてです。

すべての咎をゆるすことは、神の特別な愛のゆえです。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)のです。彼とはもちろん主イエスさまのことです。十字架上の刺し通し、砕きが、私たちの咎のゆるしのために払われた犠牲です。

すべてのやまい、痛みを、主も、ともに負われる。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」(イザヤ53:4)

感謝すべき、第三の理由は、いのちを穴から贖ってくださった。「いのちの穴」死と墓の穴から贖いだした。病の究極の姿である死も、主は私たちの死を負ってくださった。いのちの復活を成し遂げて死を滅ぼしてくださった。「死んでいた」私たち、墓に葬られていたわたしたちを、贖いだしてくださった。死と滅びからのあがないを成し遂げてくださった。ともに十字架につけ、ともに葬られ、ともによみがえり、天の所に座らせてくださった。

「恵みとあわれみの冠」(複数形)諸々のめぐみと諸々のあわれみ。 「めぐみ」は、「愛なる神の、人間にたいする好意(愛顧)、またはそれに基づく働きかけである。それは、特に受けるに値しない対象に向けられた神のいつくしみである。」(新基督教辞典)「受けるに値しない私たち罪人に注がれる自己犠牲的な神の愛」をさす。「恵みは歴史的な過去ばかりでなく、現在福音がのべ伝えられるところに常に表される神の働き」でもある。

「あわれみ」は、「神の永遠かつ必然的な属性で、苦悩や困窮のうちにある者たちに向かって示される神の慈愛である。聖書では同情、忍耐、愛、情けをいったことばが、実際には同じことを表すにも用いられている。」(新基督教辞典)イスラエルにたいする神のあわれみは、特にその選びと契約、さらに契約の保持において顕著である。

わたしたちは、神のめぐみとあわれみにとりかこまれて生活している。誰も、私にはめぐみもあわれみもかけられていないといってはならない。神様はもろもろの恵みと哀れみを注ぎ続けておられるのですから。

Ⅲ 5節

5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

詩人は神に感謝する、第五の理由をここにあげます。神が創造主であるだけではなく、養い手でもあることです。霊的な食物で養い育てます。まことの羊飼いですから。その上、教会を治め深い休養で支えてくださいます。

第六の理由は、神は神の子たち一人一人と教会を更新(リニュアル)してくださいます。力が弱りかけているところに、新しくわしのように、若さを与えて、リバイタリゼイションしてくださるのです。若々しさはクリスチャンの特徴です。わしのように若々しくさせてくださる聖霊の力が注がれているから。肉体は日々に衰えますが、その究極においては、復活の栄光にあずかり、永遠に聖めていただく霊とともに、永遠のいのちを宿す復活の体をいただく日がくる。天の御国で永遠に生きる若さがあたえられる。

イザヤ 40:28〜31あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまづき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 

結び)年の終わりにあたって、めぐみを数え、主に栄光を帰し、一年の守りと励ましと、今日あり得ている救いの確かさをよろこび、新しい年に向かってわしのように若々しい力といのちを更新していただき、御国をめざして前進しましょう。

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