2009年12月13日 イザヤ書9:1〜7 アドベント礼拝説教 廣橋嘉信
「みどりごの名は!」
序)イスラエルの12部族は、パレスチナを分割して住んでいた。そして、ガリラヤ地方は、そのうちベツレヘムのゼブルン部族とナフタリ部族の領土であった。異邦人のガリラヤ、暗黒にすんでいる民ともいわれていた。それはガリラヤ地方やトランスヨルダン地方は昔から外国領と隣り合っていた関係上、しばしばフェニキヤ、シリアその他の外国から侵略を受けていた。特に、イスラエルの王ペカの時代(BC734年)にアッシリヤの王ティグラセピレセルが来て蹂躙し、多くの民を捕らえてアッシリヤに移した。列王下15:29[アッシリヤの王ティグラセピレセルが来てイヨン、アベル、ベテマアカ、カノアハ、ケデシュ、ハツオル、ギレアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリヤに捕らえ移した。] その結果アッシリヤ帝国の各地から植民が注ぎ込まれた。ガリラヤ人は、ユダヤの血と外国人の血を受けた混血人で文字通り異邦人のガリラヤとなった。また、当時のユダ王国のほうでもアッシリヤ帝国に追従して、みつぎ物を送り、神々を受け入れていた。人々は8:19巫女や霊媒や易占いに頼ろうとして悩みと暗さと苦しみと闇があった。暗黒の状態が生活を覆っていた。聖書の神様よりもアッシリヤの神々をたたえる迷信者、背教者で暗黒の住民異邦人であった。日本の各地に同様の霊的暗黒がある。その克服は非科学的な占いや口寄せや霊媒を排除するための科学的知識によるのではない。正しい神知識と信仰が、わたしたちの心の中に座を占めない限りは、たとえ文明や科学が迷信を追放しても、空っぽになった家になかに偽りの神々が入り込む。以前よりももっと悪くなるとイエス様はおっしゃっている。
Ⅰ みどりごがうまれる
この暗黒の地に住んでいる人々に光が照りわたる。それは私たちのために一人のみどりごが生まれるからである。クリスマスの恵みである。新しい時代があけそめようとしていることを喜ぶように。最も多くの苦難にあった者が、主の救いを最も喜ぶ者となる。ひとりのみどりご、彼はダビデの王座に就く。ダビデの子、義と公平を基いとした王国をたてる。その方が異邦人の地ガリラヤだけでなく、全世界を統治される。その統治はまず人々の暗い心の中から始まり、福音の光を照らす。いつの日か神ご自身が主権者、王として御国を地上にたて上げられる。新天新地を来らせられる。
ひとりのみどりごは馬舟に生まれた。創造主である神のひとりごが、わたしたちのために生まれてくださった。なぜ、みどりごなのか?いきなり成人としておいでくださって、救いの働きを即座にしてくださったら良かったのではないか。しかし神はそのようにではなく、みどりごとして御子をこの世に送ってくださった。それは、わたしたちの罪の影響が母のおなかに中にいるところから、みどりごとして生まれ母のふところに抱かれるときも、そして成人してもなお深く及んでいるからなのです。罪の根は歴史を貫いて人類に綿々とまとい(纏)ついているために、救い主の人生は、みどりごとして母の体内に宿るところから始められねばならなかったのです。
そのために、御子は全く永遠からみ父のふところにいる神のみ子でありながら、わたしたちのために、時が満ちて、低い身分の女によって成り、彼女から生まれ、普通以上の屈辱的ないろいろな境遇をすごす人の子となることを良しとしてくださったのです。心から感謝と賛美をささげます。
ベツレヘムの神秘は、罪の暗闇に座する民への大いなる光となったのです。わたしたちはオギャーと生まれて人としているだけでも神の御前に罪があり、罪の性質の深さに悩み苦しみますが、そのような者のために、みどりごの光は用意されたのです。
聖霊によって宿ったみどりごは、罪の毒を除き去り、咎めを消し去り、神の子たちとする清い性質を名目的にも実質的にもお与えくださるのです。その約束は誕生の預言において、みどりごに与えられた豊かな意味のある名前によって示されているのです。『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」
Ⅱ みどりごの名
1 「不思議な助言者」
不思議の意味を理解させるために、イザヤは直ぐ前の節で「ミデアンの日になされたように」と歴史に言及しています。ギデオンを通してイスラエルの戦い、困窮、救出がしめされました。それはすべての主の民の苦闘と、困難と、贖いを比喩的に示しているのです。ギデオンのころイスラエルは暗雲で覆われ、ミデアンが国を侵略し民を虐殺し略奪をほしいままにしていました。しかも剣に剣をもって、矢に矢をもって、槍に槍をもって立ち向かうことが出来る者はいませんでした。そのような中、神は人々の予想とは全く違って、ギデオンに率いられた少数の兵士が持ち、打ち砕いた壷と、左右に打ち振るたいまつと、歓声の声によって救いを成し遂げたまいました。実に「不思議」なことでした。
これは通常に人間の考え、憶測の逆を行くもので、わたしたちのために生まれたもうたみどりごは、そのような仕方で救いを完成されるのです。この世の賢き君が考え出すことの出来ない方法で、時代の思想家が云々できないような方法で、位の高い者たちが権力によって成し遂げようとたくらむような道においてではなく、救いは達成されるのです。産着につつまれたみどりごの内に救いの一切は込められています。このみどりごはインマヌエル-神われらと共にいます方です。自然と人間の力や宝によってではなく、その一切がむなしくなったときに、神はご自分の方法で、不思議なめぐみと全能の力によって成し遂げられるのです。
このみどりごは単に不思議なだけでなく、助言者です。不思議な助言者です。「助言者」は昔の訳文では「議士」でした。昔から人々の間で共通の解決すべき問題が生じたときは、評議がおこなわれ、困難や不安に押しひしがれている者たちが集まって評議をしました。その時に一人の賢者が立って、絶望的な状況に中にある人々にはかりごとを助言したのです。そして救いのため、助言にしたがって一人で救出したり、集団で救出したりしました。
しかし人間の罪の問題は、いくら律法によっても、道学者と言われる人々によっても、賢者によっても、裁判官によっても、教育家によっても、宗教家によっても、それぞれの創案や救済手段、はかりごとを助言しても、解決はつかなかったのです。罪の深淵は計り難く、通常では救いは成し遂げることが出来ません。しかしこのみどりごは「不思議な助言者」です。彼の中にのみ唯一の救いのはかりごとがあり、その全存在をもってみどりごは不思議なはかりごとを実現し、実施されるのです。
人間の罪深き無知蒙昧と無力さに対して、神が遣わされたみどりごは救う助言をされます。これに与れる者は誰もいません。三位一体の神がご自身のうちに決定し実行されるからです。「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」Ⅰコリント1:30 不思議な助言者イエス・キリストは神の智恵となってくださり、さらに義と聖めと、贖いとなってくださったのです。
2 力ある神
不思議な助言が実行されるためには、神の力が必要なのです。いくら不思議なはかりごとでも、その良きわざを行うためには、罪の世、背後にあるサタンとの激烈な戦いが予想されるのです。みどりごは力ある神です。文字どおりには「神ー勇士」です。わたしたちの救いを阻止しようとする勢力は、最初のときにアダムを見事に堕落させた誘惑の名手であるし、必ず死ぬと言われた神のさばきを実現させたのです。サタン、罪、世と言う言葉は、意味のないうつろなことばでなく「地獄の門」と言われている肉の目に見えない闇の力であり、わたしたちの喉元を順次締め付けてついには永遠の滅びに持ち込む不気味な作戦家であり、魂を最終的に滅ぼすために存在しているのです。この勢力との激烈な戦いに、不思議な助言者がいなくても勝てると思ってはならないのです。生まれつきのままの力や英雄的な気質によって勝つことは出来ない。強力なサタンに真実に立ち向かい勝つことが出来るのは神ー勇士であるみどりごだけなのです。かつて人間の子が経験したことのない戦いをみどりごはするのです。彼は罪なき人の子として、罪人が知らない格闘をサタンに対して挑まれるのです。しかし彼にはサタンも世も罪も打ち勝つことが出来ません。彼は神ー勇士なのです。神と人に敵対するすべての勢力を討ち滅ぼし足の下に踏みにじり、ご自身の権威ものとに屈服させるのです。わたしたちは弱い存在です。しかし救い主は強いのです。全能の神なのです。
3 永遠の父
みどりごの名前が、「永遠の父」。これは三位一体の「父なる神」を意味しているのではありません。永遠の父とは時間における恐るべき罪の力と対立して付けられている名前です。罪はわたしたちの心に巣くっているだけではなく、わたしたちの過去、人類の過去にも横たわっているのです。時間がその刻印を押した習慣や、時間によってますます固められた教訓といわれるもの、時間が生活の中に呼び寄せた制度といわれること、時間によって登場した思想・意見、罪はこれらのものを汚染して自分のために利用しようとするのです。
このように時間によって伝統の中に罪の力はあらわれるのです。過去が持つこの恐ろしい力は、わたしたち自身の中に、そのたましいと肉体の中に祖先から受け継いでいるのです。あるいは病の傾向とか、罪の性質とか、特性とか、原罪などが、荒廃をもたらすべく強く深くわたしたちに染み着いているのです。もしこのような時間によって背負い込んだすべてをあなたが一振りでふるい落とすことが出来るならば、なんと自由で全く贖われたと思うことでしょうか。しかしわたしたちにはそれはできないのです。過去は重い足の枷となってわたしたちをとりこんでいるのです。
しかしベツレヘムのみどりごは、永遠の父で時間は何の力も持っていないのです。否むしろ永遠を帯びる神たるものの威厳をもって、時を支配しておられるのです。彼は時を遡って調べ、土の塵の起源にまで及び、また時がやがてつき果て、刻むのを止めるときになってもなお、以前として、とこしえにいますみどりごなのです。彼は「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者」黙示録1:8です。「わたしはアルファであり、オメガである。」
救い主イエス・キリストは、悪しき時の力と、のしかかる過去の恐るべき罪の圧力と、さらに未来への不安にたいする助けがあるのです。「永遠の父」としてみどりごは、時を初めから終わりまで、手中に収めておられます。それゆえに、このみどりごを信じる者は罪にまみれた時の一切の縛りから解き放たれて贖われるのです。
4 平和の君
平和の君、ダビデのような戦いの君でなく、ソロモンのような平和の君。インマヌエルであるみどりごは確かに戦いをするが、それは民を駆り立てて戦わせるダビデのような方でなく、みどりごがご自分の民の救いのために戦ってくださるのです。血を注いでくださるのです。またみどりごはその戦利品をソロモンのように収めるのです。多くの苦難によって宝を獲得されるみどりごは、サタンから奪い返した分捕り物によって、その民を祝福してくださるのです。主はわたしたちの一切を与えてくださるのです。わたしたちが主に何かを与えるのではありません。全世界の所有者である平和の君が、わたしたちに神の子として共なる資産を受け継がせてくださるのです。
結び) このみどりごにあなたのすべてをゆだねましょう。
インマヌエルのみどりごは不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君です。完全な救いを成就する方です。わたしたちがクリスマスにこの方の名前を知り、この方に自分をゆだねる。すべての重荷をゆだねるとき、この方の光があなたの上に輝き、わたしたちは「刈り入れ時を楽しむように、あなたの前に喜んだ」という喜びにいれていただけるのです。この称号を知ることは、キリストとその復活の力とを知ることと同じなのです。
救いに与った者として賛美を献げ感謝を献げるとき、ますます、キリストとその復活の力を経験させられるのです。みどりごの豊富な救いと輝く光は、わたしたちの理解と経験を越えているのであって、クリスマスこそ、更に主を知る素晴らしい機会なのです。