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2009.5.17 使徒の働き7:54〜8:1「ステパノの殉教」 

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2009.5.17 使徒の働き7:54〜8:1「 ステパノの殉教 」

序) ステパノの弁明が最高潮に達し、彼を訴えたもの達への、最後の矢が「あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」と放たれたとき、ステパノは死を覚悟していたと思われます。

人々は、ステパノの死後の弁明を聞いたときに「はらわたが煮え返る思いで、彼に向かって歯ぎしりした。」みことばの敵対者は、サタンに支配され、紙に見放された者は、すべて神のみことばを聞くと,かき立てられます。神のみことばがあるがままに語られたときに、聖霊に導かれているものたちは悔い改めに進みますが、サタンに心を占領されている者たちは怒り狂うのです。神のみことばに立つ使命を与えられている者たちは、大胆にかたり続ける責任があるのです。たとえばそれが悪人たちのいっそうの激怒と不敬を駆り立ててもです。それが主イエス/キリストのまことの福音を堅く守るための忍耐なのです。

使徒の働きの著者ルカは、ここにキリスト教会最初の殉教者として、ステパノの事を詳しく記し、のちに続く殉教者たちの姿を示しているのです。

 

Ⅰ ステパノの信仰宣言

さて ステパノはと見れば、この間平静で立ったままで、聖霊に満たされ,静かに唯一のたよることnできる天の神を見上げていました。彼がそこに見たのは「神の栄光と,神の右に立っておられるイエスとを見た」のです。イエスは立っておられる。たしかに天に帰られたイエスは父の右の座に座られました。それが聖書の主張です。しかし、今,イエスは立っておられるのです。それは訴える者たちの前で,忠実に自分をあかし続けるステパノのために、父の前で弁護する証人としてあかししてくだっているようにです。

またイエスはこのとき ステパノとともに受難にあずかってくださった。あおとになってサウロに向かって「なぜわたしを迫害するのか」と問いかけられたおこころからすれば、このとき、まさに ステパノとともに殉教を分けあっておられた。

ステパノのことば「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」は彼の信仰宣言であります。神はこの地上のいっさいのものを捨てて、ただ神にのみ頼る彼に天を見る視力を与えられた。この肉の目でみるのではなく、神の臨在をあざやかに深く知ることができた。このように神は私たちの心の中にお現れになり、ともにいます主である事を見せてくださるのです。

また、このことばは、実は主イエスさまが、十字架にかかられる前に,今ステパノを訴えている者たちから、「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」と尋問されたときに、あかしされたことばでありました。ルカ22:69[しかし、今から後,人の子は,神の大能の右の座に着きます。] ステパノは、あのことばが実現した事を証明したのです。イエス様だけが,神として右の座についているのです。そして、あのイエスのことばは大祭司によって死刑宣言を引き起こしたように、今、ステパノのことばは、彼の死を決定ずけました。それはサンヒドリンの議員たちの罪が明白になったからです。それまでは歯ぎしりするだけでありましたが、「大声で叫びながら,耳をおおい、いっせいに ステパノに殺到した。」 ステパノにとっては、主イエスのこの姿は慰め保証を与えるものでした。しかし人々にとっては冒涜と考えられ即座に石で打ち殺す挙に出たのでした。

Ⅱ 石打ちおけるサウロ

人々は ステパノを町の外に追い出して,石で打ち殺した。ローマの官憲による裁判もしないで、群衆の憤激にまかせて、サンヒドリンには好都合に思い、即座に執行しました。執行は冒涜罪にたいする石打刑の手順で行われました。「証人が先ず手をくだし、それから民が皆手をくださなければならない。」申命記17:7。証人たちはその衣を脱いで、サウロという青年の足下に置いた。青年サウロの熱狂は誰にもひけをとらないほどであった。後日、サウロはパウロとなってから、「彼が殺されるときには、それに賛成票を投じました。」使徒26:10。「わたしはこの道を迫害し,男も女も縛って牢に投じました。死にまでも至らせたんのです。」22:4.

と認めて多いに恥辱を感じていました。「罪人の頭です。」とまで言っている。

迫害者サウロの最初の血の経験が、ここに記されているのです。サウロは衣の番をすることで満足していました。パリサイ主義を冒涜し、神殿を軽んじもの、あのイエスと同じ不敬虔な言葉を吐く ステパノは、イエスと同じ刑罰をもって罪を償うべきである。8:1「サウロは ステパノを殺す事を賛成していた。」の「賛成して」とは、「子を愛しむ父の喜び」に用いられることばです。それは全く満足し全面的な是認を示すのです。

しかし迫害者としてこのようなスタートを切った彼が、そのまま最後を全うすることができなかった。なぜか?それは、これから「使徒の働き」を学び進むに従ってさらに判明しますが、少なくともこの場面における ステパノの祈りは、サウロの心に打ちあたったのです。

 

Ⅲ  ステパノの最後のいのり

「主イエスよ。わたしの霊をお受けください。」「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」死の寸前のいのりとして、十字架上の主イエス様のことばとほとんど同じ祈りがささげられました。主イエス様の模範に ステパノは従っています。しかし彼はイエス様のように「父よ」と言わずに「主イエスよ」といっているのです。このことは、主イエスは神、死んで復活し,今は生きておられ、死者の霊を受け取り、私たちの死後の運命を支配したもう神であられるとの告白です。さらに「霊を委ねます。」でなく、「お受けください。」と祈っているのです。自分が信頼し愛しまつる主イエスに、自分のすべてを全面的に渡そうとしています。愛する主のもとに行ける。私の霊をお受け取りください。

この祈りから、わたしたちは彼がその信仰の不動で堅固であることをしている。また、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」との祈りによって、敵対し自分を殺す者たちへの、まことの愛と思いやりを沿い得られる。主イエス様が十字架の上で祈られたように祈るのは、死を目前にして芝居や演技でできることでは決してない。 ステパノはそのように生きることをして身についていたからこそであります。

さらに、 ステパノは、彼らはなにをしているのか、わからないでいるのです、とは祈っていません。自分勝手な観測ではなく、主イエスさまがすべてを知っておられて、裁かれるのだから、しかもその主には、十字架にしめされた赦しの愛があるのだからと信じて祈っているのです。

だからこそ、寸前に語られた,壮烈な説教は、実はかれらへの深い愛、悔い改めてもらいたいとの思いの秘められたことであった。彼が人々を厳しく弾劾しながら、しかし深い悲しみを込めた説教だった。

結び)このむごたらしい死にもかかわらず、ここは思いもよらないほどの美しく平和な描写がされている。

ステパノはとっくの昔に,自分の死については、主イエスにおいて解決と確信を持っていたのです。死を目前にしておたおたしていません。そして、この祈りがサウロをついに捕らえて救いに導いたのです。アウグスチヌスは「彼はいまだに猛威をふるいつつあったが、 ステパノの祈りは最早聞き入れられていた。」といっています。

最後に黙示録2:10後半「死に至まで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」

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