2009.6.7 使徒の働き8:14〜17「主の教会の統一性」
序文)神様の摂理は、イエス・キリストの福音をステパノの殉教とエルサレムにいるキリスト教徒達へのユダヤ教徒たちの迫害を用いて、エルサレムからユダヤ、サマリヤへと広げられました。その中で、信徒であるピリポによるサマリヤ伝道は、大いに祝福されました。神のみわざが豊かに現されました。エルサレムにいた使徒たちは、サマリヤを巡る新しい主の出来事を受け入れようとしました。組織的な援助と霊的な援助を彼らはサマリヤの新しい教会誕生のためにしました。それは主の教会の統一性を示しています。
Ⅰ サマリヤ伝道を巡る使徒たちの組織的援助
サマリヤ伝道についてかつて主イエス様は「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。」(マタイ10:5)と命じられました。サマリヤ伝道は禁じられたのです。それは何よりも先ず、神の民イスラエルの救いのための伝道を優先されたからでした。しかし、主が十字架のあがないを成し遂げ、復活され、天に帰られるにあたって、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土,および地のはてにまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)と言われた世界宣教命令によって廃止されたのです。ところで実際にはどのようにサマリヤ伝道が始められるのか使徒たちは分かりませんでした。
それが助け主聖霊がペンテコステのときに豊かに下られて、さらに今回のステパノの殉教という出来事がきっかけとなって思いがけずはじまったのでした。そればかりか、主はピリポを働きに用いて,教会が建てられる可能性が一気に広がってきたのです。
サマリヤ伝道が広がっていくのを伝え聞いて、エルサレムの使徒たちはペテロとヨハネをサマリヤに遣わしました。このところの事情は,今日においても、教会が設立されるとき配慮すべきもろもろの点を気づかせてくれます。
それは使徒たちが信徒による伝道の広がりにも、キリストの教会としての一致を保ち,教会設立へと全般的な指導と責任を主イエス様から託された者として果たそうとしていたからです。
特に、サマリヤとユダヤのこれまでの関係からいっても、気質や習慣の違いも大きく、そのままで放置しておくと、主イエス・キリストが引き裂かれて,別の新しい形の教会を建て上げてしまう危険性もあると考えられるのです。それで、信徒であるピリポにだけ,委ねたままにせず、使徒達はペテロとヨハネを遣わして,指導協力して、新しい教会の根をエルサレム教会と結びつけ,主にあって同じ信仰による兄弟姉妹である事を示そうとしました。このことはピリポがしてきた事が不十分だったからではなくて、むしろピリポが行ってきた事を認めるために使徒達がやってきたのでした。その上でさらに発展させるために援助をしようとしていたのです。それぞれの賜物によって教会のために相互に助け合って協調しているのです。主の教会の統一性がこのことから教えられます。
Ⅱ 霊的な援助
サマリヤの新しい信徒になった人々は、ピリポから「主イエスの御名によって洗礼を受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかった。」「二人が手をおくと、彼らは聖霊を受けた。」この節の説明として、旧日本基督長老教会・大会が出した「カリスマ問題検討臨時委員会」の解説があります。「サマリヤの改宗者たちは、ピリポによってバプテスマを授けられたが、彼らが聖霊を受けるには、使徒たちが来るのを待たなければならなかった。しかし、これは、決して決心と聖霊のバブテスマという二段階の体験が必要であるという事を意味していない。このサマリヤ教会は初めてエルサレム以外の教会の誕生を意味していた。そしてペテロとヨハネが行って手をおくまで聖霊が下らなかったのは、エルサレム教会とその他の地域の教会が主にあって一つである事を示すためだったのである。ここに「使徒職と教会の統一の優越」という原理がある。中略。従って、ピリポの伝道によって水のバブテスマを受けたことと、使徒たちによって聖霊が与えられたこととは、全行程をワンセットに考えるべきである。」聖霊が主権的にサマリヤ伝道に関して,エルサレム教会とのつながりを大切にされた。また、主イエスが教会のために建てられた使徒職の特別な権威を示して,新しい教会を励ますためであったと考えられます。
この場合、聖霊がくだされた様子は,ペンテコステの時のように,人々にはっきりと知られる形においてであった。しるしが伴ったと考えられます。このことがらによって、サマリヤの新しい信者になった兄弟姉妹たちは、信仰をもつ前には自分たちが日頃つきあえない人々として軽蔑されていたエルサレムの教会から、まちがいなく同じ経験と聖霊の取り扱いを受けた事を知って,神からの保証と安心を得たと考えることができる。
今日,一般的に私たちの信仰は信じるときに水と聖霊による洗礼を同時に受けるのであって、それも、神が恵みにより、私たちに信仰をもたらしてくださった時に聖霊が内に働いてくださった事を受け入れているのです。
Ⅲ 今回遣わされたヨハネのこと
ヨハネがかつて、主イエス様とともにサマリヤ伝道に来た事がありました。ルカ福音書9:51~56。「サマリヤ人がイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見ていった。主よ,私たちが天から火を呼び下して,彼らを焼き滅ぼしましょうか。しかしイエスは振り向いて,彼らを戒められた。」このヨハネが,今は全く違う使命を帯びてサマリヤに来ているのです。その心構えも違ったと思えます。エルサレムで使徒達とともにサマリヤ行きを話し合っていたときにはたしてヨハネはどのようにおもったことでしょう?今は、信じた彼らのために聖霊が降るために手を置こうとしているのですから。
わたしたちは、信仰の全体像がよく分からないときには見当はずれな熱心を示してしまいます。しかし、主はこのヨハネの例のように、成長させて本当に主に有る真実を持ってすべき奉仕を用意しておられるのだと分かります。あのときは主にしかられた。しかしそれで終わるのではない。この失敗を覆ってあまりある導きが備えられている。これをもって慰めとしましょう。
結び)聖霊の働きは、いつでも、どこでも、だれにでも、主権的であります。それは主のみからだである教会を建て上げるために、無秩序に混乱をもたらすように働かれるのでは決してありません。聖霊の働きは、神のみこころに適っており、それは秩序と平和をもたらすのです。
教会の進展が、人の目に意外な発展と思えても、神はそのご計画の内に人を備え,主イエス・キリストと福音の恵みと真理を守りささえ前進させられるのです。私たちも主の手足と成ってピリポのように励み,使徒たちの配慮から学び実践してまいりましょう。決して、自己流の教会を目指すのではなく、主イエス・キリストの教会とは、と問いかけつつ、日々に改革されて、聖められて進みたく存じます。