2009.6.14 使徒の働き8:18〜25
序文)信徒伝道者ピリポのサマリヤ伝道にきっかけを得て、エルサレムの教会はサマリヤ教会との霊的な交流と一致を確認しました。宣教の聖霊はくすしい働きをつづけておられました。ピリポの伝道の様子を見ていた魔術師シモンは「信じてバプテスマを受け、いつもピリポについていた。」とありますが、彼の信仰は本物であったのでしょうか。彼の本心はどこにあったのでしょうか。
Ⅰ シモンの隠れた本心が現れました。
シモンが信じバブテスマを受けた事はどのようにうけとめることができるでしょうか?実は、シモンは「使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見て」お金を持ってきて使徒達に「手を置いたら聖霊を誰にでも受けられるように、その権威を私にもください」と言いました。
シモンはイエス様を信じたとき、それは信じたふりをしていたのではなく、本気だったのです。しかし、それは魔術によって汚してきた思い,意志を放棄して、まことの悔い改めによって心の奥深くまで、主の前に従うことを徹底するふうではなかった。そのことが、ここに、はしなくもあらわれたのです。迷信と魔術ヘの愛着を捨てきれないままに、信じたといっているのです。
主イエスの福音の教えが表面的に受け止められたけれども、キリストへの信仰がもたらす霊的いのち、聖霊の働きについて無理解なままであった。本当に自分のこころを聖霊に明け渡していいなかったのです。そこには古いままの魔術を慕い迷信を愛する心のままの彼がいたのです。ですから、彼はエルサレム教会から来たピリポの先生たちともいうべき使徒たちペテロやヨハネが手を置くと聖霊が顕著なしるしを伴って降だられるのを見ました。さすが大先生たち、とでもおもったのでしょうか?彼は以前からの習慣で、魔術的な興味を働かせて、この一見して思いのままに手を置くと注がれる霊的な力が欲しくなりました。このような出来事の背後にきっと秘密の力に与る権利のようなことがある、ピリポはまだそれを手に入れていないが,大先生である使徒たちは持っている。それなら買いとりたい、と考えたのではないでしょうか。
皆様が既にご存知のように、今日において、聖霊が働かれるのは、その者が大先生かその弟子かで違うというのではなく、全く聖霊の主権的な働きです。信徒であろうと、教師であろうと、かかわりなく、信じて祈りつつ、神様の働かれることを求めて伝道するならば、聖霊はみことばを用いて働かれるのです。
ですから人が信じたり、みことばに示されて教えを受けて悔い改めたりするのは、値なしに働かれる聖霊の一方的恵みによるのです。このことを知っていれば、わたしたちもシモンのような誤りに陥らないですみます。
受洗・転入クラスでウェストミンスター小教理問答を学ぶとき、有効召命を受けた者のうちに働かれる聖霊の恵み深い祝福について学びます。その際に,聖霊の祝福は、すべて「価なしにあたえられる神の恵みの行為であって」という点で共通した答えを発見します。霊的な恵みと祝福は、主イエス・キリストから聖霊によってすべて信じる者に価なしに与えられるのです。他にも,聖霊は、わたしたちが信じる者へと召されるときに「キリストを知ることにおいて私たちの心を照らし意志を新たにして」くださるということも学びます。表面的な信仰と本当の信仰の違いは,聖霊による私たちの意志の更新があるかどうかにあります。神を真に恐れる心が植え付けられるのです。神をあなどらない心です。敬虔な心です。主イエスに従おうとする意志です。
ところがシモンは意志を新しくしていただくことがなかった事が分かります。
ただピリポの行ったしるしにおどろいて信じたにすぎなかったのです。ですから信じる前のままで、バブテスマをうけた後も、前のままで、すこしも変わった様子が見られません。霊的な賜物についても、それを手にいれるために価をはらおうとしました。そのような信仰態度は、所詮行き詰まってしまいます。それまでの偶像崇拝の習慣を新しいキリスト信仰に持ち込んで,間違った求め方をすることによっては、神の国の霊的な資産は与えられないのです。新しいぶどう酒は、新しい革袋にいれなければならないのです。
また、シモンのように、何か他のクリスチャンたちと自分は違うのだと言えるように成ろうとして、お金に物を言わせて霊的な権威を買い取ろうと懸命になるのも、その動機において全く間違っています。神が他の人と違う賜物を与えられるのは、全く主イエス様の計りによっているのですから、それを自分で左右しようとする、しかもお金の力によってしようというのは、主イエス様の主権を犯そうとする傲慢の罪なのです。
神は、その目的に合わせて、いつでも,どこでも、誰にでも、また、必要なときに,必要な人に聖霊を働かせて栄光ある、みわざを果たさせられるのです。使徒たちが聖霊の働きを現したのは、教会の徳を高め、主イエス・キリストの栄光を明らかにするためでありましたが、シモンはそのような根本的な祈りと心配りさえも気づきませんでした。権威を手に入れて、以前のように、自分がサマリヤの地域を支配下に置こうとしたのかもしれません。以前は魔術によって、今回は聖霊の不思議によってというわけです。中心は自分がどのように人々に見られるか、驚かせるかにあったと断じて間違いないでしょう。これは本物の信仰とは決していえません。
Ⅱ 使徒ペテロの警告
ペテロはシモンに警告をしました。「あなたの金は、あなたとともに滅びるが良い。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。」厳しい答えがペテロからシモンに投げ返されました。シモンは叱りつけられました。拒絶されただけではありません。恐ろしい、のろいのことばを伴った警告をうけたのです。「おまえは神の聖霊を、まるで店で売っている商品のように扱った。そのような聖霊様への侮辱は、金もろともお前も消え失せるに価する」と言われたのです。これは決定的な滅びへの宣告ではありません(カルバンの注釈)。
悔い改めなければそうなるという罪の刑罰を伝える威嚇でありました。「だから、この悪事を悔い改めて,主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。」ペテロはシモンに警告して本当に救われるようにと厳しく戒めたのです。ペテロはシモンの行為について激しく糾弾していますが、本人自身へは、憐れみを受けて救われるようにとねがっているのです。そのために、シモンは現状を変えなければならない。果たして彼は変えられたでしょうか。
ペテロはこのように言いつつも、さらに、あなたは、まだまだ「苦い胆汁と不義のきずなの中にいる」とも言って,迷信と魔術の愛着を捨てきれないで,まだ持っている彼に、どうも絶望しているようでもありますね。
シモンが表面的な信仰しか持たなかったのは、自分が主イエス様を信じたときに,一般的に罪の全般をお赦しくださいとは祈ったけれども,魔術を行って実は悪魔や悪霊と交わりを続けていたこと、自分を大能の神の力と偽装していた事など、迷信にこりかたまり行ってきた数々の罪、人々を惑わし続けてきた事の罪など、具体的に個別的に悔い改める祈りをしなかったからではないかと考えます。徹底した悔い改めをしなかった。大事な事は、表面的な悔い改めではなく、個別の罪の自覚から入って,全面的に罪深い存在であるとの自覚が生じ、それまでの歩みを変えていただく意志の全面的な更新がなされるように祈るのです。シモンは、そうしなかったので罪の根、苦い胆汁が残ったままであった。
さらに、そのように具体的な罪の悔い改めで祈ろうとするなら、神が自分に対して憐れみ深い事を信じていなければならないのです。神の憐れみを信じることの深さによって、私たちの悔い改めもまた進むのですから。それは十字架の主イエス・キリスト様をどのように知り,信じているかが影響するのです。
「あるいわ,赦されるかもしれません。」というペテロの言い方は、シモンは赦されないかもしれないと思っているから、このように言ったのではなくて、
むしろ、シモンに熱心に悔い改めて祈らせようとするためでありましょう。彼が心から誠実に真剣に具体的に、祈るならばという期待を込めた勧めになっているのです。
Ⅲ シモンの反応
ペテロのシモンに対する真剣な厳しい警告と脅かしが、どのように受け取られたかについて,学者の中で意見がわかれています。シモンは震え上がり「あなたがたが言われた事が,何も起こらないように,私のために主に祈ってください。」と応答したのです。
これでは不十分であるという者がいます。それは、彼がただ単純に恐怖心からこのように言ったのであって、第一、自分で祈っていないではないか。というのです。その場合、彼の心は最後まで正しくなかったという判断です。この見解は、また、この後の時代に書かれた,初代教会教父の時代に書かれた文書に「シモンという名前の人物が出てきて,ペテロに大いに敵対し、異端の走りになった」とあることにも影響されているように思えます。しかし当時シモンという名前の人物は大変多くいて、異端の走りにこの聖書のシモンがあたると言えるかどうかは疑問が残ります。
他方、シモンはペテロの厳しい警告と脅しを、自分の救いのためであると受け取り、真剣に救われるためにとりなしを願った。それは彼の悔い改めのしるしの一つであると受け取る者もいます。シモンはペテロが彼の信仰の実態を指摘し非難したことについて、何も抗弁していない。弁解もしていない。さらに,ペテロの言葉によって引き起こされた罪意識から、神の前に審判を恐れる心を持った。さらに、主に祈ってほしいと、神の憐れみと恵みに身を委ねている。また、「あなたがたが言われた事」というように、ペテロが言ったことを教会からの権威有ることばとして受け止めている。以上のことがらから、少なからざる悔い改めのしるしが、ここにある。したがって悔い改めたのだと結論している(カルバン)。聖書が示す範囲ではそうとることが一番普通である。
シモンの信仰がこれまで、表面的であった事を考えつつ、そのような状態の中から、ペテロを通して示された神様の警告について、ここまで神の前に正しく反応したことは、彼として示しうる最善だったと考え,悔い改めがさらに後に深められていったと考える。ほんとに重大な罪を犯して悔い改めるときに、今の状態でシモンがすぐさま自分の祈りが出来ただろうか。ペテロ達にとりなしを願って、義人のとりなしの祈りを頼りとしたのではないだろうか。そう
こうしてゆくうちに、自分で祈る力が与えられて,自分の口で赦しを求めるようになるではないか。
わたしたちが、まだ信仰の全体をよく理解し,認められていないときに、たびたび罪を犯し,悔い改めて立ち返らせられてきたのは、「私のために祈ってください」という願いが実行されたからではないか。などと考える。
結び)わたしたちは、聖霊による賜物や,聖霊ご自身の働きかけや、霊的な教会のわざについて、表面的な理解や、外面的な判断や,聖書の信仰と違った習慣的な生活信条で批判してしまう歩みに陥らにようにしましょう。シモンが陥ったような信仰態度、そのような神の主権的な働きを金で買うといったたぐいについて、それに陥らないように注意しましょう。そのためには、神の前に常に正しい心のありようを求めてゆかなければなりません。徹底した悔い改め、聖霊による助け、信仰の友によるとりなしを軽んじないようにしましょう。