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2009.6.21 使徒の働き8:26〜40「主イエスに会うために」

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2009.6.21  使徒の働き8:26〜40

「主イエスに会うために」

序文)人はどのようにして救い主イエス・キリストに出会うのでしょうか?さまざまな出会いがありますが、今朝の聖書箇所には、その一つが教えられています。出会いのために、三つの導きがあることがわかります。これを学ぶことで、特に求道中の方々が信仰の恵みに与かる確かな道の一つを発見していただきたいと願います。同時に信徒がそのために果たす役割の重要さに目をとめていただきたいと願っています。

それらは、聖霊の導き、みことばによる導き、ときあかす者による導きです。

Ⅰ 聖霊の導き

1 信徒伝道者ピリポは、ユダヤ人から異邦人の地と差別されていたサマリヤの町で、主イエスを救い主として伝え、多くの人を救いに導いていました。神様は、彼に、み使いを遣わして指示を与えました。私たちが救い主イエスに出会うために、福音を伝える者への導きが,先ずあることがわかります。

み使いはピリポに「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい」(26節)といいました。サマリヤの都会で、広く豊かに伝道のために用いられ教会の基礎をつくるまでに働いていたピリポは、もともと聖霊の導きに敏感かつ従順でした。「南へ行き」といわれたのです。「南へ」と訳しているギリシャ語の古い形は「正午・真昼」とも訳できるのです(A.T.ロバートソン)。これは太陽が正午に南に位置することになるので、後に、この言葉が「南」の方向を意味するようになった(H.マーシャル)と説明があります。実は真昼の暑い時に、荒れ果てている荒野のガザのほうに出かける人はほとんどいなかった。エルサレムからガザに下る道、そこは、人が住んでいるようには思えなかった。使徒の働きの著者ルカがわざわざ「今は荒れ果てている」と解説している。だからみ使いの指示は奇妙であった。それでもピリポはすぐに出かけました。

ピリポが、日頃、信仰を自分の救いのためにだけはたらかせていた状態から、他の人を救いに導く事のためにも働かせている状態にまで成長しているからでした。わたしたちは、最初は自分の救いに与るために主イエス様を信じたのですが、それはイエス様が救ってくださる第一歩であって、次にはそこから進んで行くべき先があるのです。ペテロはそのことを「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それはあなたがたが、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなた方が宣べ伝えるためなのです。」(ペテロ第一2:9)と言っています。自分のために信じたという、心の位置から神様の栄光のために信じたという所まで進むのです。いつでも主イエス様にしもべを用いてくださいと言う心構えがある人は、聖霊が豊かに導かれるとき、即座に従う敏感な心を備えているといえましょう。神はそのような者を栄光ある救いのみわざのためにおもちいになるのです。

2 聖霊はさらに福音を必要としている者に導きを与えられます。それは当人が聖霊の働きとは気づかないままに、その思いの中に働きかけて、摂理的に導かれます。「すると、そこに」(27節)まるで、出会うように、時と所を聖霊がはかられました。丁度エチオピアからエルサレムの神殿に礼拝のためにきて、その帰り道であった宦官にピリポは出会いました。宦官はユダヤ教への改宗者であったと考えられています。エチオピアからエルサレムまで千数百㎞も馬車に揺られて、エルサレムの神殿に詣でたほど熱心な求道者でした。古代エチオピア王国は、現在のヌビアに相当し、アスワンにあるナイル川の第一瀑布から、南はカルトウムの近くにまでおよび、主要都市はメロエとナパタであった。メロエはカンダケ王国の首都であった。女王はカンダケと代々言われていました。この女王の高官であった彼は、近くに住むユダヤ人集団から聖書の神について学び改宗者となったのでしょう。

この出会いへの導きは、さらにおおいなる救い主との出会いを備えました。

聖霊はピリポに「近寄ってあの馬車と一緒に行きなさい。」と言われました。ここに個人伝道の機会が用意されたのです。わたしたちは、自分が救いに導かれ時、福音を語ってくださった伝道者もまた、聖霊に導かれて、備えられていた事を後になって知ったのでした。全く見ず知らずの人であったり、自分の友人であったり、初めて会った伝道者であったり、外国から極東の辺境の地に異教に満ちた、信じる者がなかなか起こらないと聞かされて、それでも導かれたのでと、やってきてくださった宣教師たち、どのような伝道者によってであれ、確かに神は、私たちが救い主と出会うために、まずあかしし、伝える信徒と出会うように時と所とを備えられるのです。

聖霊の導きはこのようにして、さらに進みます。

Ⅱ みことばによる導き

ピリポは宦官を導くのに、丁度彼が読んでいた聖書のことばから入った。聖書によって導くのは、まことの救いが与えられるための普遍的な方法であります。彼が読んでいたのが旧約聖書の中でも最大のメシア預言といわれているイザヤ書53章であったのです。彼の先生たちであるユダヤ教の学者たちは日頃から「旅行者は友人がいないときは律法を読め」といっていました。長い旅も帰り道となり、エルサレム詣でも終わり、喜び満足しながらの旅ではありました。イザヤ書を、大声を上げて読んでいたので、ピリポに聞こえたのです。古代の読書は声を出してしたのです。それは写本の文字を一字一字拾い読みしなければならなかったからです。現代の読書とはちがうのです。エチオピア語ならスムースに読めたでしょう。しかし当時は聖書の翻訳はヘブル語からギリシャ語で、精一杯だったのです。少し後にはシリア語訳ができました。

私たちは聖書を母国語で読める幸いに気づいているでしょうか。

もしこれがヘブル語やギリシャ語だけしか読む道がなかったら、このように早く信仰に導かれたかは疑問です。さっぱり分からなかったでしょう。たとえギリシャ語でも聖書を読もうとしたこのエチオピアの宦官は、まことの求道者であったとおもいます。

聖書を自分の国のことばで読む、自分たちが日常使用としていることばで読めることは、救いに導かれる確実な道であり、信仰が成長するために不可欠であります。求道者の皆様が続けて聖書を読まれるように。それは主イエス・キリストが救い主である事を明白に語っている書物だからです。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」(第二テモテ3:15)。

 

Ⅲ ときあかす者による導き

イザヤ書を読んでいた宦官は、自分で読んでいた箇所を理解することができませんでした。彼が旧約聖書を知らなかったからではありません。彼は学者たちから聖書について指導を受けていたと考えられるからです。しかし学者たちは栄光に満ちた地上的なメシアを強調していたので、イザヤ書53章の受難のメシア預言を読みとろうとしなかったのです。教えることがなかったのでしょう。

旧約聖書は、全巻主イエスについてあかししていることを、復活された主イエス様が、エマオの途上で二人の弟子たちに解き明かされたことでわかります。しかし、ときあかしを受けなければ、旧約聖書が預言している救い主について正しく理解することは難しいのです。しかし新約聖書の場合は預言ではなくてズバリ救い主イエスさまご自身の言動と、救い主としての言葉と歴史的な十字架と死と、復活について、はっきりと書いてあるので、通常の手段を持って読むなら、理解することはできます。信じるまでにいたるためには、自分に当てはめて読み、祈ることが必要です。それはあなたの傍らにいてピリポのように説明してくれる信徒がいるならなおさら、たやすいこととなります。その場合、傍らにいる信徒、ときあかす人は救い主を知って信じていなければなりません。そして信じて自分も福音の力と恵みにあずかっていれば、その解き明かしは有効に働きます。神は福音を一人の宦官に解き明かすためにピリポを遣わされました。宦官は旧約聖書を読んでいて勝手に理解して正確に救い主を知ったのではありません。信仰は始まりにおいてさらに成長するために、みことばを正しく解き明かす人が必要です。救いの真理だけではなく、真理の全体系を解き明かすために神様は教会に教師、伝道者、牧師を立てられました。また学びつつある信徒ももちいられます。また救いの恵みについては、すでに信じている一人一人をおもちいになります。

宦官が「導く人がいなければ、どうして分かるでしょう。」と謙虚に自分の非力を告白して、ピリポに馬車に乗って一緒に座るように頼みました。みことばを解き明かしてもらうために謙虚さがいります。牧師の言うことは、もう分かっているという人は、聖書の真理をさらに知る道を自分で塞いでいるのです。宦官は「預言者は誰のことを言っているのですか?自分の事ですか?それとも、だれか他の人についてですか?」と尋ねました。ピリポは主イエスのことを伝えました。苦難と十字架と死と復活のイエス様です。福音の核心を伝えました。私たちの罪をあがなうために、主イエスは身代わりとして死んでくださった。よみがえって今も生きておられる。ピリポは単なる解説をしたのではありません。その人を信仰に導きました。宦官にとっての救いである事を体験させるべくお勧めしました。宦官は信仰の決心に至ったのです。ピリポはここにかかれてあることがら以上の事も、キリストに関する信仰のいろいろを話したことでしょう。それで、宦官は、水のあるところに来たので、洗礼を受けることを申し出て、ピリポも同意して受けさせました。

結び)ピリポが役割を終わったとき、神様は彼を取り去った。宦官は救いの喜びに満たされて帰国の途につきました。聖霊に導かれ、みことばにとらえられ、ときあかしを受けて信仰をえたとき、その告白として洗礼をうけ、恵みをうけ、主イエス様に深く結びつきました。それは喜びで彼を包みました。宦官がエチオピアに帰って福音を伝える者になったどうかまでは、ルカは書いていません。

あなたが、この教会の礼拝にまでお出かけになっている背後に、聖霊によるみちびきと、みことばによるみちびきと、信徒や牧師、宣教師による救い主イエス様についてのあかしや、聖書の言葉の解き明かしによる導きを受けておられるのなら、あと一歩で救い主に出会えます。それは「主のみ名を呼び求める者は誰でも救われる」と書いているのですから、「主よ、罪人の私をお救いください」と心からの期待と信頼を込めて祈るだけでよいのです。

私たちが受けた福音は、宦官が受けた福音と同じ主イエス様の福音です。感謝と喜びをもって、洗礼にあずかり聖晩餐式にあずかりましょう。それらは主イエスにいのちの結びつきがあることの証明であり保証なのです。

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