使徒の働き10:44~11:18 「神は事実で立証された」
序文)コルネリオの家での出来事が、ユダヤ人クリスチャンによっても、異邦人クリスチャンにとっても、どんなに重要な意味をもっていたかを、著者ルカは使徒の働きを読む読者になんとか気づかせようと、今朝の段落でも、大変丁寧に書きつづけています。いわば、神が立証しようとされたのは何であるかを、読者に知らせたいのです。それはユダヤ人ばかりでなく異邦人にも、神は「いのちにいたる悔い改め」をお与えになるという事実です。
Ⅰ 聖霊の賜物が注がれた事
新約聖書の時代の教会が、誕生するきっかけは、主イエス様が十字架にかかられる前に、弟子達に約束された聖霊が、天から降ってこられ、ユダヤ人であった弟子達の上に留まり、神が福音の担い手として、彼らに確かな力と賜物を注がれたことにありました。このペンテコステの出来事は厳密にはユダヤ人クリスチャン世界のペンテコステでありました。
さて、主の導きをえてペテロが異邦人コルネリオの所に招かれ、皆に主イエスの福音を伝えたところ、コルネリオを始めとして説教を聞いていた者たちは信仰を持つにいたりました。そして聖霊の賜物が注がれたのでした。異邦人世界のペンテコステが起こったのです。神の主権的な判断によって聖霊の賜物は注がれました。このときのことを、後に成ってペテロはエルサレム会議において証言し「異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。そして、人の心を知っておられる神は、わたしたちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によって清めてくださったのです。」(15:7~9)と言っております。彼らが異言を話し、神を讃美しました。この出来事は事実として起こりました。それは外から分かるような聖霊の注ぎでありました。異邦人コルネリオたちが主イエス様を信じたのですが、丁度、私たちの場合と同じように聖霊が心のうちに、まず働いて信仰を持つ事ができるようにされただけであったなら、神が異邦人をも信仰に導き、救われることを、ユダヤ人である弟子達がどのように確認できたでしょうか。神は、ペテロ達がそして彼についてきた6人の者たちが、はっきりと起こった聖霊の注ぎを、外から見て確認できるようにされたのです。
神は、福音を語ると何が起こったのか、議論によってではなくて、事実によって立証されたのです。それまでは、兎角すると、キリストの福音によって立つ教会が、ユダヤ教の一派としてしか考えられていなかったのです。しかし、この出来事はキリストが世界を相手に福音を伝えさせ、異邦人にまでも神の子と成る特権をお与えに成るお心であったことが立証されたのです。世界宗教としての主イエス・キリストの福音であり、教会の存在であることがしめされたのです。「神の選びの民でない異邦人、律法をもたない異邦人、神を恐れ敬うことからは遠い存在であった」にとものたちに、ユダヤ人と同じように豊かに聖霊が注がれた。ペテロは「この人たちは、私たちを同じように、聖霊を受けたのですから、一体だれが、水を差し止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」(47節)と言って、コルネリオたちに洗礼をさずけたのです。もはやペテロは受け入れる事を拒否すべき理由が見当たらなかったのです。もし、聖霊の働きが内面だけで、ペテロたちに分からなかったならば、この歴史的な局面でペテロがあれほど素直に彼らに洗礼を授けたかどうかわかりませんね。「私のような者が、どうして神を妨げることができましょう。」とペテロは言っています。
また、注意すべきですが、聖霊の注ぎがあっても、水の洗礼がごく自然に行なわれた事です。聖霊が注がれたのだから水の洗礼は形式にすぎないから、そのことはいらないとなどという者は誰もいなかったのです。当然のように水の洗礼が実施されたのです。このこと以後、異邦人が信仰に導かれても、このときのように外から見えるような聖霊の注ぎはありませんでした。聖霊は私たちの内側に働いて、信仰をおこさせ、主イエスを救い主として受け入れさせ、告白させ、水の洗礼を受けるように導かれるのです。現代でもある人々は、洗礼を受けただけではだめで、聖霊の注ぎをうけ、異言を話すのでなければ救われた事にならないと、間違って主張する人々がいますが、それは、ここで神様が立証しようとされたことを覆しているのです。
コルネリオたちは、その後、なお、数日間ペテロたちに滞在するようにと願った。もっと教えられ学ぼうとしたのだと考えられます。聖霊がすすがれても、水の洗礼を受けても、それらはスタートにしか過ぎない。さらに、日々より深く神様について、聖霊について、主イエス様について学び従いつづけなければなりません。
Ⅱ ペテロの弁証
コルネリオの所に起こった出来事は、ペテロがエルサレムに帰る前にニュースとしてエルサレム教会に伝わりました。エルサレム教会の人々や、特に割礼を重んじるクリスチャンたちはペテロの行為に革命的な驚きを覚えただけではなく、神が異邦人を自分達と同じように扱われたことが、どうしても理解できませんでした。ペテロがエルサレムに帰ってくるやいなや、すぐに「あなたは割礼のない人々の所にいって、彼らと食事をした。」と非難しました。父祖伝来の律法を破り、民族の伝統を汚した。というわけです。また、ユダヤ人にとって宗教的な生命線ともいうべき割礼のある無しが無視された。というわけです。議論が起こりました。本当の事柄が明らかにされるために教会では議論があるのです。ここで問われたことは、異邦人が信仰を持った事ではなくて、それにいたることにユダヤ人ペテロが関わったことにありました。「あなたは割礼のない人々の所にいって、彼らと食事をした。」伝道方法に問題がある。というわけです。
ペテロは冷静に率直に経験を語る事によって、自分の行動を弁明しました。11:5~17を読みましょう。神のみこころを理解したペテロは、ことがらを順序だてて、事実を追って説明しました。それらは七人の証人によって確証されました。
神が割礼のあるユダヤ人にかつて聖霊を注がれたように、割礼のない異邦人にも聖霊を注がれた。神が割礼のあるなしに関係なく、みことばが語られている間に、救いのめぐみを与え、信仰が与えられ、聖霊の賜物が注がれた。割礼を受けて準備をしたので、聖霊がそそがれたのではない。この事実によってペテロは、神が求めておられない差別を、どうしていつまでも固執できるだろうか、それは神に逆らう事である、と弁明を結びました。
Ⅲ 人々の反応
非難した人々も、神がなされた業を聞いて沈黙を守った。反論する余地は無かった。神は、すでに旧約聖書に現された救いの恵みを、異邦人に与えて、全世界に広げるおつもりであったことを、事実を持って示し、確かにお働きになったのです。そのためにペテロを用い、コルネリオに指示を与え、導きを増し加え、明白に異邦人への救いを意図されました。エルサレムの割礼を重んじるクリスチャン達の意図を超えておられる。神が用意された救いの恵みであるから、その事実は受け入れなければならない。非難していた人々は神に異議を唱える事を止めた。それは彼らが神を恐れ敬っていたからできたことでした。
神を敬わない人々なら、このようにペテロが弁明した後でも、いろいろと難癖をつけて、さらに非難を繰り返したことでしょう。神のみこころが分かったときに、議論や非難は終わりに成ります。沈黙を守る事がなすべきことです。
その上で、神のなさったことを「それでは、神は、いのちにいたる悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」といって神をほめたたえた。議論の後に立証があり、そこに神の御手を認めた一同は、さんびによって神を礼拝しました。沈黙だけではなく、讃美があふれることはクリスチャンの交わりにとって重要です。
この姿の中に聖霊のお働きの結末をみる思いがします。ただ、非難するだけで終わらなかったのです。主をほめたたえた。そこに新しい信仰の理解が与えられ前進が備えられました。
結び)悔い改めて福音を信じた者は、神が働かれた証拠であり、その福音的な事実によって互いに受け入れ合い、さらに、また、主をほめたたえて行動しつづけましょう。