2009.10.4 使徒の働き12:20~25 「神に栄光を」
序文)今朝の聖書箇所から、私たちの生活を続けてゆく上で、どのような心構えが祝福となるのかを、その反面教師ヘロデ王を通して学びましょう。
Ⅰ 自分を神としようとする高ぶりは、最悪の罪
主イエス様が弟子たちに教えられたことばの中に「人から出るもの、これが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪は御名、内側か出て、人を汚すのです。」マルコ7:20〜23というがあります。これらの中で「高ぶり」は、最初の人アダムがエデンの園で罪に陥ったときの最初の罠だったのです。悪魔はヘビの姿を借りてアダムに語りかけました。「神のようになる」よと。人はどこまで行っても人です。被造物にすぎません。決して創造者なる神ではないのです。それなのに「神のようになる」と誘惑されて、高慢への道を歩み初めました。これは最悪なのです。神と自分が同列になり、さらには神を引き下げ手、自分が上に立とうとするのですから。
誘惑した悪魔の実態はイザヤ14:13〜15「あなたは心の中でいった{私は天にのぼろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。}しかし、あなたは黄泉に落とされ、穴の底に落とされる」とかかれている。悪魔の本質は、神にとってかわろうとする心です。それは神の裁きに会って、黄泉に落とされ、穴の底に落とされるのです。永遠の滅びの裁きが決定しているのです。悪魔は今執行猶予中です。最後の審判の日に最終の執行があるのです。
それで、聖書はいたるところで、「高ぶり」のもたらす結末のおそろしさを計画しているのです。人間が悪魔と同じような裁きに陥らないように徒教えます。箴言16:18「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」
ペテロ第一5:15「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからである。」
Ⅱ ヘロデの罪
ヘロデはツロとシドンの人々に対して敵意をだいていました。ツロとシドンはカイザリヤの北にある地中海岸の古い港町で、自由貿易都市として、栄えており、裕福な町であった。ユダ・イスラエルとの間の、貿易では穀物を輸入していましたが、ヘロデが何かの理由で敵意を抱いているために、食料の輸入がままならなくなっていました。元々、自由で裕福な自由貿易都市が、時の権力者の思いのままにならない例は、ふるい時代の日本でもありました。私が小学生から高校生まで長く生活した大阪の堺市は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の時代、自由貿易都市として栄えに栄えました。その時の権力者たちに抗して、自由都市としての権威を打ち立て、支配者の権威に盲従することを拒否し、町人衆の代表者による自治のよって収めていたという歴史的事実を、私しは、通っていた小学校で「堺の歴史」と言う教科書を使って特別に学んだほどでした。このことは町の誇りだったのです。基本的に大阪人は、だいたいいつでも時の権力者に自由に物言い、振る舞い、ときには逆らう気風だと言われています。
それで、ツロとシドンのためにヘロデは様々な政策を弄して自由都市が行くことを聴くようにし向けます。都市の側も、また、王様たちにといいって一儲けしようとしました。結局の所裕福な都市は、その商人自身が王様なのであって、富は尊大さを思い上がりを育てるために、ヘロデといえども思いの通りに動かすことはできなかったのです。それでとても陰湿な方法でツロとシドンを従わせようと腐心したのでしょう。ヘロデの国から食料を運ぶのを禁止した。軍隊も武器も用いないで効果ある支配をしようと策したのです。都市は都市で腰を低くして、しかも無償ではありえない和解を要請することとなった。
王の侍従官プラストに取り入って和解を申し入れるには、プラストにも多大な貢ぎ物を送ったことでしょう。
ついにヘロデ王様は謁見をする事となり、ツロとシドンは和解への道が開かれました。「定められた日」とは、ヘロデ・アグリッパがカイザリヤで始めた「ローマ皇帝をあがめる祭り」の日のことで、8月1日の皇帝の誕生日のことであろうと言われていいます。
これらについて、私の調べた注解者の全員が引用して紹介している記事を読んでみなしょう。それはユダヤの歴史家ヨセファスのことばです。「ヘロデ・アグリッパは王様になる前に、ローマで皇帝テベリオの怒りを買って投獄された。その時、同じように縛られていた囚人の中のゲルマン人が、兵士に、あの鎖につながれ、一本の木に寄りかかっている紫の布を着た囚人は誰かと尋ね、それがヘロデ・アグリッパだと知ると、近づいて着て、一つの予言をした。その木には一羽のふくろうが止まっていた。彼が言うには、ヘロデ・アグリッパはまもなく許されるが「あなたが再びこの鳥を見る時、その時こそ五日と生き延びられぬ徒知りなさい。」といったというのです。その予言通り、ヘロデ・アグリッパはまもなく許され田ばかりか、次の皇帝の時代にユダヤの王位に着けられました。「さてユダヤ全土を三年間治めた時、カイザリヤの町にやってきた。そこで彼は皇帝の安泰のために誓願を立てて祝う祭りがあることを知らされたので、皇帝をあがめる催し物を開いた。その祭りには、彼の領土の主立った人々や、身分の高い人々が、おびただしく集まってきた。祭りの二日目に、ヘロデは全体が銀とすばらしい織物徒でできた衣をまとい、朝早く劇場に入ってきた。時に衣の銀は日光のまばゆい反射によって驚くほど輝いたので、彼を見つめていた人々は恐れを感じた。やがて、彼にへつらう人々が一人又一人とあちらこちらにから、彼は神様だと叫びはじめて言った。「われわれをあわれんでください。今まであなたをただの人間として敬ってきましたが、今後は、朽ちるべき者にまさるかたとして、あがめます。王はこれを聴いて、彼らをしかりもせず、へつらいを退けようともしなかった。ところが、やがて王様が目を上げると、頭上にある一本のロープも上に一羽のフクロウが止まって鋳るのを見て、直ちに、この鳥こそ、かつて自分に幸いを伝えた使者であったように、悪い音信の使者でもあることを悟って、この上ない悲しみに沈んでしまった。また、腹に激痛が起こり、それも激しい調子で始まった。」こうして王様は急ぎ王宮に運び入れられ、五日目にもだえくるしんだのち死にました。紀元44年、54才で七年の支配を終わりました。
さて、ルカの記事とヨセファスの記録は大事なところで一致しています。違っていたのは「一羽のフクロウ」が、聖書では「主の使いがヘロデを打った」とあること、またその打撃は「腹痛」が、「虫にかまれて意気が絶えた。」とあることです。
神を侮る権力者が腹を虫にかまれて息絶えたという末路は、神の罰としては周知の事だったのです。たとえば、ユダヤの神殿に偶像をまつり、異教の供え物で汚したシリヤの王様アンテオコス・セオス・エピファネスは「エルサレムをユダヤ人の墓場にしてやる」とうそぶいて、車を走らせていたとき、「ひどい腹痛と、内蔵の裂けるような痛みにとりつかれ」走っていた車から振り落とされ、体を強く打ち間接がはずれてしまい、ついには、その体をウジ虫がはいまわり、ひどい苦しみの内に、体が腐り、悪臭が兵士をむせかえらせ、ついに死んだ。
ヘロデ大王は、紀元前4年に死んだが「内蔵は潰瘍が生じ、大腸から主な痛みと苦しみが生じた。最後には彼の隠し所にもウジ虫が生じた」
ローマ皇帝でキリスト教徒を迫害した最後の皇帝ガリウスも同じような症状で、いきながらに体に腐れが生じ、ウジ虫がわき治療に当たった医者が悪臭に絶えられなかったので、それを理由に死刑に処せられてしまった。
聖書が虫にかまれてしまったと言うとき、人々は明らかに体にウジ虫がわき出たと悟り。この死が、主の使いによる審判であったことも明らかに分かった。
ヘロデ・アグリッパが、このように裁かれた理由は、ヤコブの兄弟ヨハネを剣で斬り殺したからでもなく、ペテロを捕らえてキリスト者たちを迫害したからでもない。それもあったかもしれないが、ここでははっきりと「神に栄光を帰さなかったからである」と記されています。自分を神としてへつらう声を打ち消さず、高ぶりの達する最後の高さまで罪を重ねてしまった。王様の演説は神の声とたたえられたが、すぐに死をもって、その声はかき消された。このようなすぐに消あされてしまうような声を互いに掛け合って。自分が唯一だと自負したり、神になってしまうことは、なんと空しいことでしょうか。
Ⅲ 私たちの罪
私たちが、かもの存在とその救いの言葉を第一にして、大切に聴き、心から受け取り、従うならば、それは祝福となります。しかし、ヘロデと同じように自分を神として、主の言葉を退け、妨げつづけるならば、その結末は危険です。 聖書の神様を退ける高慢は、滅びにいたるはやみちをなるのです。神の栄光を帰すことは、自分を神としない、自分を究極の根拠としないという子とだけではなく、天地の創造者であり、救い主イエスを遣わし手救いを成し遂げてくださった神を正しく礼拝する事からくるのです。私たちクリスチャンは時の政府と国家に対して決して神の声だと賛美を投げかけ、神ではない人間にすぎない者を神としてあがめ、へつらいをささげるようなならば、それは恐るべき罪であります。
食料を得るために、王や、政府や、国家や、また、会社や親でさえも、神としてあがめる、献身し、へつらうならば、それは神に帰すべき魂を売り渡す罪となるのです。そのような根本的な態度で日常生活を進めている間は、主のみことばは、あなたを変えて救いの恵みに溢れさせることはあり得ないのです。しかし、へりくだってみ声を求める者は、すぎに近くに応えてくださるのです。
結び)謙虚になって「食べるにも飲むにも何事をするにも、神の栄光をあらわす」ように歩むならば、そのような人生のあり方は祝福をもたらします。また、神のみに、ふさわしい栄光と賛美とほまれを、人間賛美にすり替えようとする一切の企てに向かって、みことばを伝え続ける働きを進めてゆくなら、それは栄光を神に帰す働きとなりましょう。