2009.11.1 使徒の働き13:13~41 [神は救い主を送られた]
序文)使徒の働きの中で、パウロの説教は八カ所に記録されています。今朝は、最初の説教を学びます。
ピシデヤのアンテオケは、海岸の町パンフリヤのベルガから、タウロス山脈の高い山を登って約160KM離れたところにある町で、海抜1,200Mにあります。そこにいたる山道は、九十九折れ(つづらおれ)の連続で、徒歩でゆくしかなく、杜佑の川の流れは急で生命の危険を犯して渡らなければならず、細い山道は山賊が出没しました。河の難、盗賊の難にあったと、後になってパウロが回想しています。このピシデヤのアンテオケで、パウロはユダヤ人とともに異邦人で神を敬う人々にもキリストの福音を述べ伝えました。
Ⅰ イスラエルの歴史に示された神の恵み
その最上の恵みは、イエスが送られてきたことです。パウロは安息日にユダヤ今日の会堂にゆき、会衆の籍に座りました。祈祷が行われ、二つの聖書日課が朗読されました。一つはモーセ五書(律法)から、もうひとつは預言書からでした。その後、会堂司は、会衆の中の人々に、「どなたか奨励のことばをお話しください」と依頼をしました。これは会堂司の仕事でした。そこで、パウロは立ち上がり、手を振りながら、奨励をしました。
ユダヤ教のラビ(律法学者)たちは、話をする時は座って静かに行うのが常でした。パウロはタルソの大学で習ったギリシャ式の雄弁術にしたがって立ち上がって手を振って行いました。あの殉教したステパノと違い、パウロは話しのプロフェショナルでありました。
さて、どのような奨励をしたのでしょうか?大変興味深いものがあります。彼はイスラエルの人々よ、とか、兄弟たちよ、と呼びかけを三回も行っています。全体を三区分にして、結論で、聞いている人々に信仰の決断を促しています。ここに記されているのは、説教のアウトラインで実際は、そうとう詳しく話したと考えられます。
第一に、まことの神がイスラエルの歴史に示された、神の恵みを数え上げ、その最上の恵みは、神が救い主を送ってくださった事だと告げています。パウロは2000年にも渡る、歴史における神の恵みを一筆書きのように、ここにまとめています。しかも、ステパノのように恵みと忘恩を対立的に話すのではなく、恵みのみをひたすら数えています。
その愛の自由な選びに酔って、イスラエルを選びの民としエジプトから救い出し、砂漠の40年間も、母のような慈愛をもって保護し、約束の地を与え、裁き司達と、王様達を賜った。サウロ王を退けた後に、みこころに適うダビデを与えられた。アブラハムとその先祖に示された契約は、ダビデを通して明らかにされ、その血族に与えられるという約束の王様メシアは来られた。その名前はイエスである。彼はイスラエルの救い主である。その救い主の先駆者としてバブテスマのヨハネがおり、その救い主をあかしする働きを彼は確かにおこなた。
パウロは歴史を調べ、イエス・キリストの救いの事実を受け止め、救いのことばは私たちの送られたのだと知らせている。
神は歴史を救い主の出現に焦点を絞って支配しておられる。その第一の出現は、選民イスラエルとの関係で現れたが、第二の出現(再臨)は、全世界のイエス・キリストを信じる民たちとの関係で現される。
その日に向かって、神は、数々の恵みを与え、人々が振り返りさえするならば、歴史の中に溢れる恵みを発見することができる。それは、私たち自身への神の救いの恵みにおいても、その通りであって、第一の出現にもとづくイエス・キリストとの出会いは、その人の人生への恵みの積み重なりから導かれてゆくのである。
それ故に、私たちの自分史における、神の恵みを次々と数えてゆくことを、パウロのように一筆書きで思い出す事は救いに至るために重要なことであります。
神は、気まぐれに貴方と突然出会うのではなく、きちっと恵みを注いで、導きつづけ、ついに、イエスへと到達させられるのです。
Ⅱ イエスのメシアである事を証明する 26~37節
正義にそむいてユダヤ人によってイエスは死刑に処せられたが、神は彼を復活させ、イスラエルにした約束を実現された。救いのことばメシア・イエスは、私たちに送られました。しかし、当のイスラエルは、彼をメシアと認めないで、十字架にかけて、殺してしまいました。墓に葬ったのです。
しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせました。30節。それを目撃した証人が大勢現在もいます。
イエスは、ご自分を31節、幾日もお現れになりました。ガリラヤからずーっと一緒だった人々は、彼を見間違えるはずはありません。今も彼らは証人です。
人間の愚かさは、自分は見えるといいながら、神の業を破壊しようとしていることです。しかし神の愚かさは、人間よりも賢く、決して人間の十字架によって打ち負かされたりはしないのです。
復活は神のご計画と力との証拠です。また、復活は旧約聖書に預言されていた事の成就であります。ここに三つの預言と成就が記されています。
Ⅲ イエスへの信頼以外に救いはない 38~41節
福音を聞いた者は決断をしなければなりません。福音と自分を結びつけなければ役にたちません。罪の赦しが述べられているが、この方を信じる事で解放されているのです。義と認められるのです。信じる事で義と認められるのです。
救いにまだ与っていない方は、罪の縄目に縛られたままであるのです。聖書では罪とは何をさすかというと、「罪は不法である」第一ヨハネ3:4と書かれています。罪は神の律法に少しも適わないこと、これを犯すことをいいます。
神の律法の侵犯が罪です。これとくらべて犯罪とは、国家の律法を侵犯することです。たとえば、バビロニア帝国の命令に従わないで、金の像を拝まなかったシャデラク、メシャク、アベデネゴたちは犯罪を犯したのですが、罪は犯さなかったのです。かえって神の律法に従ったのです。私たちが親兄弟を憎むなら、それは神に対する罪です。「あなたの父母を敬え」とあるからです。しかし国の法律を犯すことではありません。国の法律は人間の心の思いに対する拘束力をもたないのです。夫を憎む者は罰金とは書いていないのです。もちろん憎んだ結果、傷つけたりしたら、これは犯罪です。神を愛することと、隣人を愛することと、これに背くことは罪です。背いた人は罪人です。例外があります。福音のために、神のために、父母が罪を犯させようとする時、これを拒否する事は罪ではありません。イエスを捨てて偶像を拝めと迫られて拒否するなら、罪ではないのです。
このようにして、普通の出生によってアダムの子孫である全人類は罪人です。わたしも、あなたも例外無くです。
罪は当然裁かれます。国の律法に対する犯罪は、裁判するものによって裁かれ刑罰が科せられます。神に対する罪は神によって裁かれるのです。罪はその刑罰として死をもたらすのです。それは永遠に神の目に定められているのです。しかし神はその縄目から解放するために、イエス・キリストによる解放を用意されたのです。
イエスの復活は、罪の力である死にとどめる力からの解放を証明しているのです。さらに信じる者には、永遠のいのちを与えることを神は約束しておられるのです。
これが福音です。この福音が宣べ伝えられて以来、もう2000年が杉ました。この福音は現在もなおも、信じる者達を救い続けているのです。イエスの力が、その人の中に働いているからです。
結び)あなたも信じて、この恵みに豊かに与ってください。