序文)使徒の働きの中でも一番長いステパノの説教を学び続けています。今朝の部分は訴える者達が、聖なるところをステパノがけがした罪について云々していることに対して「まことに聖なる神の家とは何か?」を論証します。その上で、攻勢に転じています。
Ⅰ 荒野の幕屋があった ステパノは41節で先祖たちが「子牛を作り、この偶像に供え物ささげ、彼らの手で造った者を楽しんでいました。」と語った上で、預言者のことばを引用して「あなたがたはモロクの幕屋とロンパの神の星をかついでいた。」と罪を指摘します。 実は、彼らのために「荒野にあかしの幕屋がありました。」のに、です。荒野の幕屋は、神が見た通りの形に造れとモーセに言われた通りに、造られていました。シナイ山で神礼拝の為に建てた家です。それは幕屋で旅をつづけている間中、持ち運びできるように折りたたみ式で分解できるテントでありました。その中には「十戒の石の板二枚」が納められていました。 神が彼らとともにおられ、みこころを示されることを保証しました。また、この幕屋は「会見の幕屋とも呼ばれており、そこから神が語りかけると約束されていました。出エジプト25:22. 先祖たちは荒野の幕屋で38節にあったように、モーセから生けるみことばを受け、神と会見したのです。その意味で、それはまさに荒野の教会でありました。 さらに、それは勝手に造ったのではなく、神の指図どおりです。神殿も内容的に、この荒野の幕屋と全く同じ配置を持っており、それも、神の指図通りでした。それらは天にある聖所のひな形でした。幕屋であろうと神殿であろうと、それらは本来のもののシンボルであります。黙示録21:22. しかも「幕屋は先祖たちによって次々と受け継がれ、ヨシュアの時代からついにはダビデの時代まで」数百年間もつづいたのです。ユダヤ人たちが、神殿が恒久的で堅固だと考えているが、それはソロモンによって造られてから神の裁きにより外敵パビロンによって破壊されるまでの寿命は、幕屋にくらべて遥かに短いものでした。
Ⅱ 礼拝の神髄は、神が目をとめてくださること! また、ダビデは神殿を建てようと神に願ったけれども、実際はソロモンが建てました。荒野の幕屋はなお、継続して用いられたのです。ソロモンが建てましたが、しかし「いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。」ソロモンは神殿奉献のときに祈った祈りでもあります。それは幕屋や、神殿でさえも、そこで神を見て礼拝するのはないということです。神は天からその神殿の上に目を向けてごらんくださる。人々は、その中で、神の名を聞いて、そのあかしを聞いて、みことばに触れて、神を知り礼拝するのです。本当の意味で、神に会うのは、天においてなのです。 このようなステパノの弁明は、当時の人々が神殿は最高の聖所、恒久的な完成された聖所、また神がおられるところ、という間違った考えを、旧約聖書からはっきりと指摘し訂正するところとなりました。それだけではないのです。 預言者もいっている。49〜50節。「イザヤ66:1〜2」神は、全世界におられる。エルサレムにだけ、神殿にだけおられると主張することは間違っている。しかも、神が目をとめられるのは、「へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののくものだ。」 その者たちは、神をまことに礼拝する者たちである。その人に神は目をとめられる。神は直接に交わってくださる。 そうではなく、イザヤ66:4[わたしが呼んでも答えない者。わたしが語りかけても聞かない者、わたいの目の前に悪をおこない、わたしの喜ばない事を彼らが選んだ]そのような者たちは、実は「牛をほふり、羊をいけにえにし、穀物をささげものにし、乳香をささげる者だが、それは自分勝手な満ちを選び、心は忌むべきものを喜ぶので、まさにそれは、人を撃ち殺し、犬をくびり殺し、豚の血をささげる者と同じであって、偶像崇拝者と変わらない。」
Ⅲ ステパノの反転攻勢 そのような預言者イザヤのことばは、どのように成就しているでしょうか。今まさにあなたがたの姿そのものではないか!とステパノは訴えたものたちのことを示します。 先ず、彼らは先祖達と同様に聖霊に逆らっている。かたくなさによって武装し、神の礼拝が、主イエス/キリストによって、「わたしを見た者は、父を見たのです」とおっしゃった方の、心を無にして、また神殿!神殿!といって儀式と影を追いかけている。聖霊はみ子イエス・キリストをあかしし、みことばの真理である事を証明しておられるのに、逆い続け、聖書はいいとして、実際はなどといいつつ、主のことばにへりくだって従うものたちの敬虔さを、あざける者となっている。それは実に忌むべきことで、神に答えようとしない、聞こうとしない偶像教徒と同じである。 なによりも、あなたがたは、モーセを拒み、預言者を殺し、その預言者たちが指し示した救い主として来られた、正しい方、御子主イエスを裏切り、殺した。それは聖霊に逆らった結果である。それは不従順の罪である。しらないでしたのはなく、知っていてもなお、逆らい続けた。神殿の幕が十字架の時に二つに裂けたのはなぜか、何を意味するか、あなたがたは理由を説明できる。しかし信じようとしない。このかたくなさによって、今あなたがたはキリストの弟子達を迫害し、告訴し、破門しようとしている。
結び)ステパノのいのちがけの説教は、彼らへの厳しい断罪でしめくくられています。聞いていた聴衆は律法学者たちです。その道の専門家です。しかし彼らはへりくだって、みことばに聞き従うことをせず、かたくなさと聖霊に逆らい続けました。語っているステパノの心にある同胞にたいする深い悲しみを汲み取らなければなりません。 クリスチャンは「へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおそれおののく者」なのです。どのような場合でも、この心を主イエス様の御前で失わないように祈りつつ、御顔を仰ぎ見ましょう。