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2009.7.5 使徒の働き9:1〜9 「サウロの回心」

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2009.7.5 使徒の働き9:1〜9 「サウロの回心」

序文キリスト教の始まりにおいて、偉大な歴史的出来事として、三つをあげる事ができます。先ず、私たちが受け止めなければならないことは、主イエス・キリストの誕生と、十字架と、死と復活と昇天の一連の出来事です。次に、聖霊が降臨されたペンテコステの出来事です。そして、最後は今朝の聖書箇所にある、迫害者サウロの回心です。私たちはサウロの回心において、キリストが一人の人間のために何をなさることができるかのはっきりとした証明をみるのです。サウロ・のちのパウロは、自分のことを大変謙遜に次のようにいっております。第一テモテ1:15〜16

先回のエチオピアの宦官の回心の例は、私たちがどのように求道したらよいかの模範例ですが、今朝のサウロは、神が一方的にご自身の目的のために突然に敵対者に臨み導かれた例としてしるされています。神様の側の配慮に焦点が合っています。1〜9節と10〜19節の二回に分けて回心の出来事を受け止めましょう。1〜9では、サウロの徹底的なクリスチャン迫害と、主イエスの挑戦と、サウロ降伏の順で見ましょう。

Ⅰ サウロの徹底的なクリスチャン迫害

「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意(い)に燃えて」(9:1)とあります。「なおも」です。彼はキリスト教徒に対して甚(はなは)だしく狂っていました。ステパノを殺害しただけではありませんでした。後になって彼は自分の言葉でそのときの事を次のように言っています。「すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには外国のまちまちにまで彼らを追跡してゆきました。」(使徒26:11)迫害者のあまりの激しさに、逃げる者たちは、遠く、徒歩で一週間はかかるダマスコの街にまで落ち延び、さらにはキプロスの島に渡ったりしました。

サウロはエルサレムでのクリスチャン掃討をほぼ完了して、立ち止まって周辺諸国に目を向けました。クリスチャンがダマスコに集結しているとの情報は、彼を直ちに行動に駆り立てました。大祭司の所に行って、ダマスコのユダヤ教諸会堂への添え文をもらいました。それはクリスチャン勾引状でした。パレスチナ以外の外国で、ユダヤ人への権限を持っていたのは大祭司だった。ダマスコはシリヤの首都であった。自分に神から科せられた使命は、この道の者たちをこの世から一刻も早く一掃することでした。草の根を分けても探しだし引き抜いてしまわなければならないと憤然と決意していた。彼が敵対していた相手は明らかにナザレのイエスでした。たとえその者が死んだとしても、なお、その弟子たちが生きているのだ。ダマスコでの撲滅の手順を練りながら、彼は道を進みました。不意打ちです。向かうところ敵なしでした。イエスの弟子たちは一人として彼の前面に立ってその進軍を阻止できる者はいませんでした。たとえ彼の前に出て論戦したとしても、能力において、教育において、経験において、地位において比較にならなかった。彼はこれから自分の身に起こる事など夢(ゆめ)にも思っていませんでした。

唯一彼が劣るとすれば、キリスト者たちは皆が皆、迫害され死に直面しても、サウロ自身の内に決して無い、平安と喜びを持っているという不可解な点でした。サウロが生涯をかけて追い求めている律法による義と、そのもたらす平安を彼は身につけていませんでした。ステパノはどうだ。エルサレムの夫人たちはどうだ。男たちもどうだったか。言うところの不敬虔な輩だったら、どうして彼らはあのような喜びに輝いていたのだろう。堂々としていた。毅然としていた。彼らに言わせると旧約のメシア預言はイザヤ書53章にあるような受難のメシアだという。自分ユダヤ教の律法の大学でガマリエル大先生から習ってきたメシア像とはあまりにも違いすぎる。何の理由があるのか。迫害する相手のために許しを祈るとは!何故なのか。彼はイエスの受難と復活のいのちと教えの価値をよく理解していなかった。キリスト教は、始まりが十字架の上にねたみという迫害に殺されたイエスからであり、次々と迫害される初期の弟子たちの上に立って大発展を遂げた信仰であった。

徒歩によるダマスコへの道は、それにしても遠く暑かった。260KMを超える道程であった。ロバに乗ったとしても6日間は十分かかる。サウロは何を心に思いめぐらしていたことでしょう。

Ⅱ 主イエスの挑戦(ちょうせん)

主イエスの挑戦、それはサウロにとって、まさに不意打ちであった。ダマスコのキリスト者にサウロがしようとしていたことを、先回りして主イエスがした。ダマスコのクリスチャンたちは風前の灯火であった。共におられると約束された主イエスを、今こそ必要としていた。サウロの迫害をとどめ得るとしたら、このお方以外にはいない。主イエスは今まで忍耐に忍耐を重ねて引き絞っておられた弓矢を一気にサウロの心めがけて放たれた。迫害者は倒れた。突然天からの光が彼を巡り照らした。彼は倒(たお)れた。この出来事の重要性のゆえに、ルカとパウロ自身が三回もこの出来事に言及している。「突然、天から光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。という声を聞いた。」

主イエスはサウロが考えていたように死んだままではなかった。主は生きておられる。復活して天に帰られた。今も生きておられる。すべてキリストに敵対する者たちの決定的な弱点は、主イエスが生きておられるという事実を計算に入れていないことである。それゆえにすべての出来事に、決着が着く日が来ると、生きておられる主イエスが決済をくだされるのです。誰も主イエスに勝つことはできない。

サウロは自分が迫害している者たちの頭目、死んだはずのイエスをはっきりと見(み)た。第一コリント15:8で「月足らずに生まれた者と同様な私(わたし)にも、現れてくださいました。」と証言している。サウロは耳に聞き、目に見ることのできる形で、主イエスのご人格に出会った。彼はイエスの言葉を理解した。真昼の太陽をしのぐ輝きの光の中に、彼は栄光の主イエスを見た。その瞬間、彼自身の目は盲目となった。彼は自分に現れてくださった方(かた)が、栄光輝く方でありながら、「あなたが迫害しているイエスである」と言われたことを聞いた。

キリストは主イエスであることを圧倒的な方法でサウロに示された。あれほど残虐な方法で荒れ狂っていた彼、この野獣性が、主の前にへりくだらされるために、本性から打ち砕かれなければならなかった。それは神としての圧倒的な臨在を示すことであった。天の栄光に触れさせることであった。

神は本当に、私(わたし)たちをご自分の者とするために、その栄光ある臨在をしめされます。それはかたくなで自己主張につぐ自己主張によって神ご自身に逆らい、自分の能力や、教育や、地位や財産を誇る者たち、イエスに刃向かい続けるものたちを、様々な摂理によって恐れさせられる。圧倒的に臨まれるのです。その事は人生の最大の転換となります。サウロの場合には、単に彼の転機にとどまらなかった。それはキリストの教会の一大転機となった。

あの自分が迫害していたクリスチャンたちが、言っていたことは本当だった。彼らは目の前に迫害者サウロを見ていたのではなく、生きておられる主イエスを見ていたのだ、と、今、分かった。ステパノの言葉(ことば)の意味はあまりにもはっきりしていた。自分が今まで神のためと思ってしていたことはすべては、全く無駄であったばかりでなく、神への反逆であった。自分は使命を間違って行使していた。その衝撃は彼を打ちのめした。

天の栄光の内に現れた主イエスは、その弟子たちへの迫害が、自分への迫害であるといわれた。それは同じ主イエスのいのちに在って生きるクリスチャンへの無礼きわまりない暴言や、いわれのない偽り、非難、陥れるような言葉と行いが、キリストへの無礼であり、暴言であり、偽りであり、非難であると言われた。サウロはクリスチャンを迫害することによって、主イエスを十字架につけていたのです。その釘を主イエスの身に打ち込み続ていたのです。クリスチャンをののしることによって、その人は十字架のキリストをののしっているのです。サウロはそのことを瞬時に分からせられたのです。

 

Ⅲ サウロの降伏

サウロは瞬間に主イエスに降伏しました。この後、もはや一度も動揺することなく終始一して主イエスを主として歩みを全うしました。新しい変化は地上生涯の終わりまで、そして永遠につづいています。それはサウロ自身に、主イエスがヘブル語で「サウロ、サウロ。なぜ、わたしを迫害するのか。」といわれ、サウロが「主よ、あなたはどなたですか。」と問いかけ「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と答えがあった時からでありました。彼は栄光の中(なか)に現れ、自分が主と呼んだ方が、ナザレのイエスである事を悟った。さらにことばはつづいていた。「立ち上がって町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられるはずです。」

彼が持ってきたクリスチャン勾引状はもはや無用となった。しかし、主イエスは、彼にダマスコに入れと命じられた。サウロはそのとおりにした。

その手を仲間の者に引かれて無力な盲人となったサウロは、苦痛の中にも心に今まで無かった光があった。もやは、迫害の意気ようようと、勝利を目前にした征服者としてではなかったが、これからは主イエスに手を引かれて歩むために、ダマスコに入った。外界は見えない中に、三日間何も食べる事も飲むこともできないまま、彼は現れてくださった主イエス・キリストを目の前に覚えつつ、これまでの自分について精神的な再整理をしなければならなかった。それまでの反キリスト教的な前提や結論は瞬間に消え去ってしまった。

三日間、迫害者の仲間たちと、サウロ到着を知って怯えていたクリスチャンたちは、彼が何もできない状態であることを知った。手を引かれながら町に入り、ひたすら沈黙を守っているサウロを、人々は固唾をのんで見守っていた。

結び)あなたは、このような主イエスに出会いましたか。今日のみことばにおいてサウロと共に生きておられる主イエスはあなたに語りかけておられます。なぜ、あなたは信じないのですか?なぜ、あなたは私を迫害するのですか?自分の生き方が正しくて、主イエスが勧めておられる罪の赦しと復活のいのちによって生きる事を、どうして受け入れられないのですか。あなたの確信はダマスコ門前までしか通用しないものではありませんか。永遠と勝負して生きておられる主イエスに打ち勝てるでしょうか。

そうでないとすれば、今、このお方の足下にひれ伏すべきではないでしょうか。主は心のへりくだっている者を救われるのです。

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