序文)「使徒の働き」の中で著者ルカはコルネリオの回心記事について、類例を見ないほどに丁寧に事柄の全貌を記録しています。新約聖書の時代の教会にとって、救いのわざがユダヤ人から異邦人へと飛躍的に進展してゆくにあたり聖霊の確かな導きがどのようにあったかを理解できるように配慮しています。この箇所からユダヤ人のキリスト教徒たちが、福音が異邦人に広がりつづけるにあたり、乗り越えなければならなかった様々な障壁を、聖霊がどのようにして越えさせられたかを充分に知る事が出来ます。また、神様がコルネリオの救いのために,摂理的に背後でどれほどの確かな導きをしておられるかを、わたしたちが知らされます。そして、一人の人を救うための神の熱心と真実を汲む事ができます。
私たちが今,信じることに与っていることへの驚きと感謝を改めて神様にささげなければなりません。普段、信じている事が当たり前のように思って、あまりにも忘恩に過ぎないかを反省しましょう。
Ⅰ コルネリオへの導き 1~8節
地中海に面した軍港カイザリヤには、イタリヤから募集されたローマ歩兵軍団が、突発的騒動を鎮圧するために駐屯していた。ローマ帝国の百隊長ももちろんローマ人であった。その一人コルネリオという神を敬う人がいた。全家族をあげて神をおそれかしこむ敬虔な人々であった。神を敬うとはユダヤ人の側からの判断であった。通常異邦人はユダヤ人の側から見ると罪人であって、交わりや家に行き来することが禁じられていた。しかし、コルネリオとその家族は旧約聖書に親しみ、いのりや礼拝を捧げて,ユダヤ教に帰依していた。また、多くのユダヤ人に施しをしていた。割礼こそ受けていなかっただろうが、ユダヤ教徒らしい生き方において、ユダヤ人からみれば満足すべき歩みであった。
神は彼らにそれでもなお、欠けている重要な点を示して,主イエス・キリストによる救いの恵みを与えようと導かれた。
私たち異邦人の中にも時として、クリスチャンよりもクリスチャンらしい生き方を示す人々がおられます。人間として、尊敬に価すると言われるような歩みをしている方々がおられるでしょう。しかし、そのような方にして、なお、重大な欠け目があって、天の神はそれを示され,与えられるべくお導きになるのです。それは,主イエス・キリストが、その人とその人生に必要であるということです。主イエスを地上に遣わして、罪の身代わりの十字架の死を遂げさせてまでして、私たちを救おうとされた天の父なる神様の判断であり、お心なのです。
コルネリオは、神の御使いが幻の中で,彼に呼びかけるのをはっきりと聞いたのです。その時間は午後3時頃であったとルカは記しています。御使いは白昼にあらわれたのです。夢じゃないかとか、夜の精神不安定なときに惑わされているのではないかと、コルネリオが誤解しないように、疑わないように白昼に明白に現れました。「コルネリオよ」と呼びました。神が御使いをとおして現れたので、その尊厳に触れて,彼は恐ろしくなりました。「主よ。何でしょうか」と応じました。御使いは「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」といいました。コルネリオはこのことばを聞いて安心したと思います。御使いが惑わす霊ではなく、まちがいなく自分が日頃祈り仕えている神様から遣わされてきたことが、このことばで分かったからです。御使いはコルネリオにこれからしなければならない事を指示しました。「さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていまが、その家は海べにあります。」
コルネリオは、すぐに言われた通りにしました。しもべたち二人と,コルネリオの説明が受け入れられる多分同じ敬虔さを持った兵士一人をヨッパに遣わしました。
神様は主イエス・キリストの福音を伝えるために、コルネリオに現れた御遣いに語らせないで、わざわざヨッパにペテロを呼びにゆかせて、招きなさいといわれました。そういえば、サウロの回心のときにもアナニヤが遣わされたのでした。人に語らせる事を神様は望んでおられるのです。このことについて宗教改革者カルバンは、次のように説明しています。「主の弟子となって福音の恵みに与り、天からの知恵の光に照らされルコトを求める人々は、だれでも、外なる人の声に耳を傾け、それに素直になる事をいとうてはならない。キリストは外なる人の声を器としてお用いになるのであり、また、わたしたちの信仰がその声に結ばれるようにお望みになるのである。宣教を侮ったり、はねつけたりしながら、天からの啓示を求めた者たちの激しい思い上がりをば、いかに恐るべき仕方で神がお罰しになったか、わたしたちは知っている。」信仰は聞く事からはじまるので、みことばの宣教を軽んじて、なお、信仰に進もうと願う事は出来ない相談であります。」
Ⅱ ペテロへの備え 9〜23節
神は福音を伝える側にも備えを与えられました。コルネリオよりはペテロの方にこそ準備が必要でした。彼の心の中に越えなければならない障壁が高くそびえていたからです。異邦人の家に行く事の罪意識を神は越えさせようとされました。ペテロは泊まっている家の屋上に祈りのためにのぼりました。昼の12時頃でした。
神は彼に幻の中で「神がきよめた物をきよくないといってはならない」という事を教えようとしました。空腹になっていたペテロの目の前に天から降ってきた敷布があり,その中に四つ足の動物や,はうものや,また,空の鳥などがいました。先祖伝来、ペテロの良心にとり、きよくない物や、汚れた物を食べることは、全く間違っているとの確信がありました。「ペテロ、さあ、ほふって食べなさい」という声がきこえました。「主よ。それはできません。わたしはまだ一度も、きよくない物や,汚れた物をたべたことがありません。」神のおきてと、今、見せられている幻とのギャップに挟まれて、ペテロは神の掟の方を判断基準にして拒みました。何人もその良心にしたがって良いのです。しかし、良心の主は神様です。神様こそが万物の審判者であり、掟を定められ方でした。そのお方が直接命じられている事柄になかには、私たちが理解を超えた、より広く、深いおこころを反映する事柄があるのです。それに反してしまわないために聖霊はペテロに働きかけられました。それは旧約聖書の儀式律法の廃棄を示すことでしたし、それとともに、主イエス・キリストの福音のもつ、神がきよめた物はすべてきよいという、福音の自由な広がりを示していました。すると再び声があって「神がきよめた物をきよくないといってはならない。」このような事が三回もあって後にその入れ物はすぐに天に引き上げられた。ペテロの心に何の疑いも挟ませないための確認行為として三度も同じ事が繰り返されたのです。
わたしたちは、ペテロの場合のように,旧約聖書のみことばによって形成されたことがらだけではなく、自分達の生まれながらの感情や,偶像崇拝の習慣から知らないうちに培われてきた偏見や障壁を様々な人々に対して持ちやすいのです。その場合、新約聖書に示された,救い主としての主イエスの求めを自分の良心が許さないからといって拒否してしまう危険があります。それは明白なみことばを優先させないで、自分の感情や間違った異教的習慣からくる抵抗にすぎません。良心の主は,天においても地においても一切の権威をもちたもうお方として発言されます。行動されます。求めます。裁かれるのです。もちろん、深い配慮の中から福音の神髄に、私たちが到達できるようにと導かれるのです。
Ⅲ コルネリオとペテロの会見 23~33節
ペテロは幻の意味を受け止めかねていました。惑っていました。ちょうど、そのとき、コルネリオが遣わした者たちが到着しました。聖霊はその事を示しました。「彼らを遣わしたのはわたしです。」ペテロが三人に会ってみると、彼らもまた、ご主人が聖なる御使いの示しによって、ペテロを迎えるために自分達を遣わしたのだと語ったのです。しかも、コルネリオの人となりまでも紹介してペテロの警戒心を解きました。クリスチャン・シモンの家にその夜は、使徒ペテロと異邦人でしもべたち、ローマの兵士がいっしょに泊まり一夜を語り明かしたでしょう。それは将来の世界の教会のひな形でありました。
明くる日,彼らはカイザリヤに向けて出発しました。ヨッパのクリスチャンたちも6人(11:12)が同行しました。コルネリオはペテロが来てくれる事を疑う事なく、親族や親しい人々を呼び集めて、みことばをペテロが語ってくれることを待っていました。
ペテロとコルネリオの間に互いに経過報告があり、まさしく、主イエスからの豊かなお計らいがあったこと、そのお導きの確かさを一同は深く覚えたことでした。
理想的な家庭集会でありました。「私たちは主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」とのコルネリオの心とことばの立派さ思います。このようにして待たれた福音の説教者は、たしかに主イエスの福音を豊かに大胆に語り得たことと思います。聞く耳ある者たちが、今、目の前にいるのです。ペテロに聞こうとしているというよりも、神の御前に出ております。というこの自覚が みことばを聞く者を祝福するのです。コルネリオの家は一家をあげて神を敬う心を養われていました。それは家の長としての彼の信仰によっていました。そして今や、主イエス・キリストのめぐみの福音を受けて、クリスチャンホームに生まれ変わり、カイザリヤの教会誕生のために用いられる家庭として備えられました。わたしたちも、コルネリオの模範に倣って一家そろってみことばを神の御前にきくために、主の確かな導きに従ってゆく備えをさせていただきましょう。まだ遅くはありません。
結び)宣教の主イエス様は、クリスチャンをもちいて、みことばを語らせて、それぞれに福音が届くように確かな導きを,聖霊によってお与えになります。その志をもって祈り続けるときに,主はあなたの祈りは御前に聞き届いていると、きっと示しになり、更なる導きをもって福音の真理に家族を招き入れてくださることです。