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2010年 元旦 礼拝 ヨシュア記1:1〜9 招詞 詩篇27:14「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。」

2010年 元旦 礼拝 ヨシュア記1:1〜9 招詞 詩篇27:14

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「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。」

序)2010年をむかえました。元旦にあたり、今年初めてチャレンジすることがらや、昨年から継続している事柄を受け継いでゆくにあたり、神様から受けるべきことばをお分かちしたいとぞんじます。

イスラエルが400年間のエジプトの奴隷生活から解放されて、約束の乳と蜜の流れるカナンに向かって流浪の生活を続けているとき、大指導者モーセが死にました。神様はモーセの従者であったヨシュアを後継者として立てました。新しい使命を神様から受けて、ヨシュアは壮大な神の働きに就任して、民を前進させなければなりません。

1 9節 このとき、神様がヨシュアにいわれた第一のことは、「ただ強く、雄々しくあれ、恐れてはならない、おののいてはならない。あなたの神、主があなたの行くところどこにでも、あなたとともにあるからである。」という励ましでした。

神様から、このような励ましを為さるときは、たいてい、それを受ける者が、神様からの召命に応じようとしても、自分が弱いことを感じており、為すはずのことがらに恐れており、本当の所いったいどうなることかとおののいている場合がおおいのです。自分に神様から負わされた使命を成し遂げるには不合格であると思っているのです。ヨシュアは、事柄の全体を示されていましたが、実際には、すべてはこれからだったのです。神の約束は彼の地は「乳と蜜が流れる地」であるということで、以前に カレブとともにヨシュアも探りに行ったことでそれはよく分かっていました。あのときはモーセという偉大な指導者がいたのです。しかし今、彼は天に召されており、地には巨人たちがいたのです。いよいよその地に進む指導者として自分が責任を負うこととなったときに、ヨシュアは弱さを覚え、怯え、恐れていました。せっかく始める働きを途中で投げ出してしまうのではないかとおののいていました。それは、今までモーセの従者として成し遂げる事柄を一緒に見せて頂いて来たから、なおさらだったのです。何もしらないでいたのではないのですから。自分がモーセの立場にたてるでしょうか?

神様は、わたしたちクリスチャンをご自身の栄光のご用にお用いになるとき自分に弱さを覚えている者を選びます。それは神に絶対に信頼を寄せる者でなければ、用いることができないからです。へりくだらせ、何もないと気づかせ、そのうえで、神からの力と知恵と神の方法で、神ご自身が、なお働きになることを知らせようとなさるのです。ヨシュアが選ばれたのは、モーセとともに出エジプト以来神に対して忠実だったことと、このへりくだりの故だったのです。はっきりとした召命がありました。2節。

 

2 「5節」ヨシュアにたいする、神様の約束は、「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。私はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」これほどヨシュアにとって勇気の出る約束はありません。どれほどの激しい戦いが、待っていることでしょうか。主が右の手を支えて、わたしがともにいるといってくださるとき、どれほどの予想不可能と思われる困難をも乗り越え、勝利を受けることができるのです。私は、18才の時に生涯を主の働きにささげるようにと召命をうけました。そのときすでに、霊的な戦いは激烈でした。しかし主はイザヤ41:8〜13のみことばをもって、励まし続けてくださいました。それは今もつづいています。捨てない。ともにいる。たじろぐな。といわれているのです。

私たちの主は、インマヌ工ルの主です。「神が共におられる」のです。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたとともにいるのである。」(マタイ28:20)といわれた。わたしたちが礼拝するとき、学ぶとき喜びのとき、悲しみのとき、健やかなとき、病めるとき、手術の床にも、回復の日々もともにいますのである。ご自身の血を流して痛み、苦しみを味わわれた主、誤解にも、あざけりにもともにいます主、十字架を負って歩まれた主は、わたしたちのどんな状態にも対応してくださる、ともにいます主であります。もちろん勝利にもともにおられる。一度死なれた主、墓に葬られた主は、わたしたちの死と葬りにもともにおられる。そして、復活の主はわたしたちを栄光の御国にともなってくださるのです。インヌエルの主こそ、すべてのすべて!

ヨハネの黙示録21章3−4節

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

3 8節 主のみことばをこころに宿して戦うのです。みことばを口から離さず、昼も夜もそれを口ずさみ、その内に記されていることを行う。「そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」みことばを離れて自分勝手な道に進み迷ったのは、罪深い以前の道であって、今は聖書に従い真理の道を歩んでいるのです。聖書の教えるところ(教理)を大切に学び、その中に記されている教会を秩序立てられている神の治め方を無視しないようにしましょう。無頓着で自由勝手な教会というのは聖書には存在しません。みことばを乗り越えてはいけません。無視してはいけません。みことばにない体験を霊的であるといって、みことばをさげすんではいけません。体験は聖書のことばを上回るのではないのです。みことばと共に働かれる聖霊であって、みことばを無視するように働く聖霊ではないのです。無批判に体験を強調しないようにしましょう。それが聖書の裏付けがあるかを見極めましょう。そうしましょう。神の繁栄と栄光を見せていただきたいのなら、そうするはずです。又、同時に、聖書に約束されている臨在のたしかさを経験することを軽んじてはいけません。

「そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」

結び)この一年、主がわたしたちの行く道をみことばにより、みちびき、強く、雄々しくあるために、どこにでも、ともにいてくださいますようにと祈りもとめてまいりましょう。

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