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2010年6月27日 使徒の働き20:1〜16 「機会を捕らえて」

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2010年6月27日 使徒の働き20:1〜16  招詞

「機会を捕らえて」

序文) 「使徒の働き」の20章は、パウロの第三回伝道旅行の終わりと。エルサレムへの道のりを描いています。著者ルカはここで再びパウロの同行者として登場しています。旅行そのものは実に簡単に触れてから、次から次へと筆を進めているのですが、さて本当のところはどうだったのでしょうか?あらゆる機会を捕らえて伝道し、手紙を書き、励ましと慰めを分け合っているパウロを見せられます。

 

Ⅰ エペソからミレトまで

騒ぎが収まってパウロはマケドニアに向けて出発しました。2節「そして、その地方を通り、多くの勧めをして、兄弟たちを励ましてから、ギリシャに来た。」とあります。ルカはいとも簡単に書いておりますが、実は、この期間は調べますと一年近くかかっているのです。マケドニアに向かう途中、パウロは実はトロアスで、コリント教会の問題が、どのように解決していっているかの報告を、テトスがもたらすのを待っていました。(第二コリント2:12)。ところがテトスが来ないのです。気落ちして、不安になり、失望していました。トロアスで福音を伝えようとかねてから計画していたのですが、彼はこのころからだが病気であったことも加えて「四方八方より苦しみ受け」「途方にくれて」「迫害され」「倒されている」「常にイエスのために絶えず死に渡され」と書いています。

それがマケドニアでテトスに会ってコリント教会の様子を聞くに及んで、とっても喜んだのです。パウロはコリント人への第二の手紙を書き送りました。その手紙を受け取ったコリント人たちへの効果を考えて、彼はすぐにはコリントに行かなかったのです。それでマケドニアからイルリコの地方をあまねくめぐり伝道をしました。ローマ人への手紙で、この伝道を「キリストの福音を満たし」と表現しているのほどに働きました。それからようやく「ギリシャ」つまりはアカヤ州にきてコリントで「三ヶ月間」滞在しました。

さしものコリント教会を荒らしていたユダヤ主義者たちは、パウロが到着する前に姿を消しており、パウロと福音に敵対する勢力は衰えつつありました。平穏の内にパウロは三ヶ月間を過ごしました。コリント滞在の終わりごろ、パウロはローマ人への手紙を書いたと考えられています。ローマ人への手紙16章の終わりにでてくる人名は、コリント教会にそのときいた兄弟姉妹たちであります。コリント教会の家主はガイオで、コリント市役所の会計エラストも信者でした。テモテやこの手紙をパウロに代わって筆記したテルテオがいました。

さて、いよいよパウロはエルサレムに帰る事にしました。予定していた船は、着く港、港でエルサレムの過越しの祭りに向かうユダヤ人たちを乗せてゆくのです。そのときパウロはその船旅の途中で、ユダヤ主義者たちがパウロを殺そうとしている陰謀を知りました。それで帰り道をピリピ経由に急遽変更しました。この計画の変更によって受けた祝福は、パウロがピリピで再び医者ルカを同伴者とする事ができた事でした。ルカはこのとき以後、ローマまでパウロとともにいて彼が獄中で生涯最後の手紙、テモテ第二の手紙を書いたときも一緒にいました。からだの弱いパウロが医者ルカとともに健康と信仰の両面で支えられ励まし合って、福音のために一緒に最後まで戦えたのは、ユダヤ主義者の陰謀が判明したというきっかけだったのです。福音に敵対する勢力の悪しき陰謀を、善に変えてくださった主イエス様の摂理的支配の手を覚えます。

ピリピで一週間を過ごし、トロアスで先発隊の同行者たちと落ち合い、七日間滞在しました。さらに、アソスに船で向かう組と、歩いてゆく組とが出会い、船でミテレネに着きました。翌日ミレトに着き、エルサレムへの旅が急がれました。

Ⅱ トロアスでのエピソード

さてここで、トロアスでのエピソードに目を向けましょう。七日間の滞在中、いよいよ明日出発という、週の初めの日、彼らはパンを裂くために集まりました。これは最初の教会が行った日曜日礼拝と愛餐会と、その席上行われる聖晩餐式の混じった集まりです

この時パウロは、人々と語り合い、長く延々と語り続けたので、夜中になりました。単なる話しではなくて、原語では「説教」ということばが出てきた「ホミリヤ」と書かれているのです。これは説教や奨励の公式の話しということでしょう。

これを窓のところで腰をかけて聞いていた青年ユテコは、ほどよく眠気がさして三階から下に墜ちてしまいました。死んでいたと同行していた医者ルカが診断しました。ところが、パウロは下に降りてきて「彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえ、心配する事はない。まだいのちがあります。」と言ったのです。つまりルカが診断したときは死んでいたのですが、パウロが生きかえらせたのです。人々はひとかたならず慰めされました。そして、すごいことに、また何事もなかったかのように、礼拝と聖晩餐式を続けたのでした。

それにしてもなぜ、ユテコは窓から墜ちたのでしょう。状況を考えなおしてみましょう。パウロが旅行中、これだけは言っておかなければという熱心で説教を続けたのです。それは、聞く人々をも引きつけつづけたのです。でも、パウロの「話し振りはなっていない」とコリント教会のある人々が言っているのを、彼は自分の手紙の中で書いていますので、聞く方に忍耐がいった事も考えられます。ユテコはユテコで、朝から働いて、疲れたからだを日曜日の夜の集会に特別講師のパウロ先生の説教を聞きにきたのです。満員で、座るところが窓際しか空いていなかったのです。最初から眠らないように、外の風が吹いてくる、窓際にあえて座ったのかもしれません。熱心に聞き続けた事は確かでしょうが、不覚にも眠りに落ち窓からも墜ちたのでした。パウロの祈りで彼は生き返りました。集会は続きました。一回、一回の出会い、礼拝が勝負でした。皆が驚いて集会が中止になったと書いてありません。それぐらいに、主の臨在に溢れた生き生きとした集まりは、なんとすばらしいことでしょう。また、互いに弱さを包み込み、乗り越えてゆく信仰は、主のさらなる鮮やかなお働きを見せていただけると信じます。

皆様が眠らないために、ここで、わたしが、1991年9月13〜21日オーストラリアのシドニーとパプアニューギニアに宣教旅行に言ったときのお話を少しさせてください。その当時、わたしはボランティアで、オーストラリア宣教会の理事をしていました。シドニーにオーストラリアで始めての日本人教会を開拓する理事会です。派遣した宣教師夫妻の、奥様の方が、私と母教会が同じで、信仰生活を同時代に過ごした方だったのです。ご主人は時々出会うことはありましたが、理事に加わってほしいとの要請に応えたのでした。その理事会の用事で、13〜16日開拓地シドニーに日本人教会の宣教師を訪ねました。それと同時に16日〜20日、日本ウィクリフ聖書翻訳協会の宣教師を日本委員会の代表としてパプアニューギニアの高地にある宣教本拠地ウカルンパに訪問しました。先にシドニーに着いて、公式の目的を果たし、それ以外の時間を、開拓教会を巡る様々な課題を日本人宣教師ご夫妻と話し合いました。三日間は話し合いましたが、それでも足りなくなり、パプアニューギニア訪問の帰り道、もう一度シドニーに寄ることにしました。わたしは、パプアニューギニアのビニグニ村に中村宣教師夫妻をたずね、続いて本部に日本代表者として公式訪問をしました。日本人翻訳宣教師が三家族と独身3人の女性宣教師が当時働いていました。本部責任者と指導者方に会って、日本ウイクリフからの公式感謝を伝えました。また彼らの宣教の戦いぶりを聞き、日本委員会の意向をつたえました。シドニーに帰り道もう一度よるという、計画変更により、20日の朝はニューギニアの奥地で、朝5時ごろにニワトリのなく声で目が覚めました。帰るために荷物のパッキングをして、6時過ぎに朝市にでかけました。そこで現地のニューギニア人伝道者が朝市に集まってきている500人ぐらいの人々に福音をピジンイングリッシュで話している様子を見ました。彼はルカ19章から伝道説教をしていました。7時に買い物をして、9時過ぎにウカルンパのウィクリフ飛行場アイユラ空港からセスナ機に搭乗し、2時間で首都ポートモレスビー空港に着陸しました。シドニー行きの飛行機を待ちつづけ、そこから5時間かかりでシドニーに飛行機は着きました。くたくたでした。しかし話さなければならない事が残っておりました。夜の9時過ぎに宣教師のお宅に着きました。そこへ問題の状況を良く分かっている信徒が、会社の帰り道こられました。いろいろと課題を巡って話し込み午前1時までつづきました。そこでその信徒は、明日会社に仕事でゆくのでと、家に帰られました。それから宣教師夫妻と午前2時半まで話し込み、とうとう互いに目が開いておれないほどになりました。それでもう寝ようと言ってねむりましたが、3時間後の、朝5時半に起きて、6時にシドニー空港に向かいました。車の中でも話しつづけました。すこししか互いに眠る事がなかったのですが、飛行機の搭乗寸前まで話しはつづきました。使命をはたすために、必要ならば、教会であろうと兄弟姉妹であろうと宣教師であろうと、話し込んで尽きないということが、多々あるのです。旅行中は時間制限があるのでなおのことです。

結び)今日の聖書箇所に出ている、伝道旅行中のパウロが、その機会を捉えて、いつも伝え続けている熱心は、まことに見習うべき姿であります。のちになってパウロは、コロサイの教会に「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがみことばの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために私は牢にいれられています。また、私がこの奥義を当然語るべき語り方で、はっきり語れるように祈ってください。外部の人にたいして賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、一人一人に対する答え方がわかります。」(4:2〜6)と書いております。若い伝道者テモテには「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容をつくし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(第二テモテ3:2)と勧めています。

わたしたちも、主の励ましを信じて、あかしと伝道の機会を十分に生かすようにと祈りはげみましょう。

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