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2010年8月8日 使徒の働き22:30〜23:35 「勇気をだしなさい」

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2010年8月8日 使徒の働き22:30〜23:35 招詞詩篇34:6〜8

「勇気をだしなさい」

序文)パウロは怒り狂う群衆を前にして、いのちがけであかしをしました。それは伝道説教ともいって良い内容でした。しかし、群衆はそれを最後まで聞こうとせずさらに怒り狂い、千人隊長はパウロを兵営に引き入れました。彼はパウロが告訴された理由がわからないために、今度は、祭司長たちや全議会に問題を解決してもらおうとしました。パウロは労せずして議会の前に弁明する機会をえたのです。

Ⅰ 最高議会(サヒドリン)でのパウロ

最高議会の人々にパウロは初めて会うわけではありませんでした。一度は、この議会の公認の代理人としてクリスチャン逮捕の使命を得てダマスコに行ったのでした。ただ以前と大いに違う事は、今回は自分がさばかれるということでした。

彼はこの弁明において前の日に群衆にした話しに少しだけ付け加えただけでした。「兄弟たちよ。私は今日まで全くきよい良心をもって、神の前に生活してきました。」「生活する」ということばは市民権を持つ者として生きるという意味です。神の前に神の国の市民として歩んできました。

簡単なことばですが、聞いている者たちにとっては、これは告発したユダヤ人たちや、群衆や、またナザレのイエスの一派を倒すために黒幕となっていた最高議会にとっては、真っ向からの挑戦となることばでありました。また、特に大祭司アナニヤにとっては、裁くために集まったのに、自分たちが侮辱され、裁かれているようなパウロの物のいい方にコチンときたのでした。

大祭司は真っ赤になって憤慨し「彼の口を打て」と命令しました。これにたいしてパウロもまた、かっとして「ああ、白く塗った壁、神があなたを打たれる。あなたは律法に従って私をさばく座についていながら、律法に背いて、私を打てと命じるのですか。」と応酬した。律法に違反しているのはあなたです。白く塗った壁はきれいに見えるようにしているが今にも倒そうな壁にすぎない。偽善者よばわりして痛烈にののしった。

パウロの態度を弁護して、彼は目が良く見えなかったので、大祭司だと気づかなかったのだという人もいれば、大祭司がいつもの祭司服を着ないで違うのを着ていたためにわからなかったのだという人もいるが、ここはパウロが憤慨して、相手が大祭司らしい大祭司だということを認めがたいとあえて言ったのでしょう。民の指導者を悪く言ってはいけないと聖書にかいているのだが、彼は指導者と認めがたいと、暗に付け加えたのではないか。

いわば議会が、彼のためにローマの千人隊長に釈放を求めるはずがないと覚悟の上で、パウロが言うべきことを言っておこうとしたと考えられます。

そのことは、議会が一部分はサドカイ派で一部分がパリサイ派である事を見て取って、死者の復活のことを突然言い出したことにも感じられるのです。もとよりパウロは議会の構成がこのようになっている事を知らなかったわけではありません。両派が依然として多くの点で反目しあっていることを知っていたし、その議論も知り尽くしていたのです。ガマリエルの門下生であったときに、イエスがメシアという一番大切な点をのぞいて、キリスト教とパリサイ人の間に争いは、そうはなかった。そして、パウロがナザレのイエスをメシアと認めざるを得なかったのは、まさに死者であったイエスが復活しておられて、彼に現れたからであった。これは前日群衆に説明した通りです。

そして、復活の教理が認められるならば、彼のクリスチャンとしての歩みの全体を否定することはできないのです。復活があるという点では、パウロはパリサイ人と同じ見解に立っているのです。

議場は神学論争の場となりました。一方はパウロを弁護し、無罪を主張した。他方は有罪であると頑固に譲らなかった。

とうとう千人隊長は互いに責め合う両者のあいだで、パウロが引き裂かれてしまうのではないかと心配して、腕づくで彼を救いださなければならなくなった。千人隊長は結局パウロについて正しい理由が分らないままであった。

パウロはこれでユダヤ人たちの憎悪を一身に集中して受けることとなった。でも、実は、パウロがここでも、これからも戦っていることは、ユダヤ教に対するキリスト教の立場を明白にするということのように見えます。しかし、実際はパウロを保護したローマ帝国の律法の上で、キリスト教に問題がないという事を承認させる戦いであったのです。

 

Ⅱ 主イエスの勇気づけ

パウロはこのときほど主イエスの援助を必要としたことはなかった。ヤコブはその他の長老たちは、この場合あまり役に立たなかった。パウロのいのちは、群衆からと、最高議会からと二度にわたって救出された。これ以上訴えても助かる見込みはなかった。ローマの隊長はどうしていいか分からなくなっていた。

その夜のこと、主がパウロのそばに立って「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしの事をあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた。

パウロはイエスのことばによって、自分がローマに行くことができることを知った。「ローマでもあかししなければならない。」なんという確かな保証であろうか。ローマ行きは確かになりました。囚人のままか、解放されてかは述べられていません。どちらにしても、彼のいのちはローマであかしするまで保証されました。勇気を出しなさい。

私たちに関する主イエスさまのみこころがなるまでは、生かされていて、その使命を全うしなければならない。「あかししなければならない」ということは主イエスからの必然であった、私たちの勝手な願いではない。それまでは、どのようなことがあっても、勇気を出して事に当たらなければならない。へたばっていてはいけない。

Ⅲ カイザリアへの移送

パウロがこの慰めにみちた、主のことばをいただいたころ、ユダヤ人たちはパウロを殺すまでは飲食をしないと誓い合って、40人の暗殺団が組織された。恐るべき陰謀であった。ユダヤの国家権力と共謀した陰謀であって、普通なら助かる見込みのない状況であった。

ところが「パウロの姉妹の子」甥がやってきて、どこで聞いたのかわからないが、この陰謀を知らせにきた。パウロの家族のことが出てくるのは、ここだけです。丁度、危急のときに、神は甥を用いてパウロに判断をさせた。パウロは、この忠告を無視したりはしませんでした。ごく普通の常識的なセンスを働かせました。神のご摂理を感じて受け入れ、健全な反応をしましました。

パウロは百人隊長に申し入れをしました。この青年から千人隊長に直接話させてほしいと。17〜22節。話を聞いた千人隊長は、自分の部隊に向かって「今夜9時カイザリヤに向かって、出発できるように歩兵200人、騎兵70人、槍兵200人を整えよ。」と命じました。夜の突然の行軍命令でした。何のためかは出発間際までしらされなかった。かくして、パウロは深夜に470人からなるローマ兵に守られてカイザリヤに護送されたのでした。全兵士たちはエルサレムから60kmぐらいにある町アンテパトリスまでいったが、もはや大丈夫と理解して、残りは騎兵たちだけでパウロを護送した(31節)。あと40kmでカイザリアであった。そこには地方総督ペリクスがいた。

主イエスがパウロに、あなたはローマでもあかしをしなければならないと語られるや、一方人間たちが、さまざまな策謀を巡らしはじめ、それが逆手に用いられて、ローマ行きを推進したのでした。主はご支配の力を表した。摂理における働きの見事な例であります。

詩篇110:1,2のメシア預言に記された主のご支配は「あなたの敵の真中で治めよ。」といわれているのです。まさにこの場合のようにですね。私たちの現実の生活において、主のご支配もこのようにして、もろもろの敵の真中での守りがあり、様々な人々を動かして守られるのです。謙虚にご支配の手を認め、ローマでもあかししなければならない、との使命を大切にして、そのために生きようとするなら、主がその者を守るためにはローマ帝国軍隊をも動かされるという事を忘れてはならない。勇気を出しなさい。主を恐れて善をおこないなさい。

カイザリヤに到着したパウロは、ヘロデの官邸に拘留されユダヤ人たちからは守られた。このときから約二年間そこに滞在することとなった。

結び)むかし預言者エリシャが、アラム王の大軍隊に町を取り囲まれたとき、神は天から天使の軍勢をおくって「火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満たし」て、守られた事を思い出します。パウロ一人のために、神様はローマ軍隊470人を用いて守りを固めさせ、ユダヤ人40人の暗殺団を出し抜いて、ローマへの道をさらに一歩進められました。主の聖徒たちのために、主イエスさまが建てられた計画は、確実に成し遂げられる事をしらされます。はげまされ、平安のうちに使命を果たしてまいりましょう。

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