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2010年10月10日 使徒の働き28:30〜31「パウロの晩年」

2010年10月10日 使徒の働き28:30〜31

    「パウロの晩年」

序文)礼拝で「使徒の働き」を学びはじめたのは、2008年9月7日のことです。80回に渡って講解説教を続け、今朝最後の節に達しました。兄弟姉妹方の取りなしの祈りと、説教への熱心な傾聴と忍耐が終わりまでこぎ着ける事ができた要因です。感謝しています。今朝は、パウロのローマでの伝道生活を越えて晩年までを学びましょう。

Ⅰ パウロは番兵付きではありましたが、自費で家を借り、自分を尋ねてくる人々に自由に大胆に福音を伝えることができました。満二年間もそのようにしました。異邦人の使徒として建てられたパウロが、ついに異邦人世界の首都ローマに摂理的に連れてこられ、そこに拠点を得て、伝道を開始した。さきに始まっていたキリスト教会が、そのために用いられ、働きを支援し、「鎖につながれながらも、キリストの大使」として熱心と伝道の進展と、計り知れない益を教会にもたらした「手紙」類を書き残した。

尋ねてくる人々を皆迎えて、神の国を伝え、主イエス能古とを教えた。出て行くことはできなければ,尋ねてくる人々に伝道した熱心は、まさに福音の為にいのちをささげたあかし人にふさわしい働きでした。

「ピリピ人への手紙」がこの時期に書かれたと考えられますが、その中で1:12〜21と語っています。番兵は一人の人がづーと続いたでしょうか。入れ替わり、立ち代わりでしたでしょうか。彼らは皆、パウロの個人伝道を受けたと考えられます。そのようにして、信仰に導かれた親衛隊の人々が増え、その人々が伝道をした。「カイザルの家に属する人々」がよろしくと言っています(4:22)とあるように多大でありました。

また、主人ピレモンのもとを逃げ出してローマに潜んでいた奴隷オネシモも、パウロによって救いに導かれた一人でありました。この時期に奴隷たちまで福音は浸透していったのでした。パウロは大胆に伝え、すこしも妨げられることなく伝えた。また皇帝ネロによる迫害は始まっていなかったし、主イエスの福音の影響は静かに浸透していった。

私たちの国でも、福音伝道のために少しも妨げられることなく伝える自由がある。大胆に伝える力を祈りもとめつつ労してゆきましょう。あかしのわざも,尋ねて行く事ができる場合は、その世にしておこない、それができなければ尋ねてくる人々にあかしする熱心をもって、主イエスを伝えることができるようにさせていただければと祈ります。

 

Ⅱ 諸教会との交換

パウロは多くの友人たちと同労者たちによって取り巻かれ、ルカとアリスタルコは付き添っていた。そして、アリスタルコは多分入獄も分ちあった。「私と一緒に囚人となっているアリスタルコが、あなた方によろしくといっています」(コロサイ4:10)。コロサイ教会からは牧師エパフラスが来た。コロサイの教会の創設者であり、パウロの指導をえていた。パウロ自身は一度もコロサイに行った事は無かった。しかし以前エペソで伝道したとき、コロサイにも福音がもたらされていた。ピレモンはコロサイの人であったが、エペソでパウロに改心に導かれ、自分の家の人々を信仰に導いた。エパフラスはローマに来てパウロと入獄を分ちあい、そのしだ二、コロサイでの働きについての報告と結果を知らせた。特に、誤った教えが侵入してきて神秘主義的な形式と,ユダヤ主義儀式が結びつけられたもので、キリストによる救いの十分さを覆そうとしていた。パウロは「コロサイ人への手紙」において、その誤りを示し真理を熱心に解いた。

「コロサイ人への手紙」を届けるに際して、オネシモをピレモンのもとに送り返すために「ピレモンへの手紙」を書いた。また、アジアの諸教会に順次回覧して読むようにと書かれた。現在「エペソ人への手紙」と呼ばれる手紙もこの頃に書かれた。AD60〜61年と考えられています。これらはテキコによって送り届けられた。かれはオネシモを伴っていました。

Ⅲ 晩年

パウロは果たして、獄から解放されたのか。書記の教会の証言は,彼がローマでネロの迫害によって殉教したということになっている。しかし同時にAD65年ごろまで、ごくに繋がれたままであったとは考えられない。クリスチャンがクリスチャンであるという理由で迫害されるのは、ネロの時代でも後の方であった。パウロは、「ピリピ人への手紙」で「私自身近いうちに行けることと,主にあって確信しています」と書いています。又、初代教会の教父たち,ローマのクレメント(AD90年)は「パウロがローマ帝国の西の境界線まで到着した。」と書いている。これはスペインを指している。AD190〜200年に書かれた文書ムラトリの断片はスペイン旅行をあたかも、あたりまえに信じられていたこととして言及している。ユセビウスは,パウロが釈放された。そして彼の伝道を推進し再びローマで捕らえられて殉教したといっている。

これらは「テモテとテトスへの手紙」によってさらに確証される。これら牧会書簡は「使徒の働き」の中では位置づけられない。パウロの伝道生活としては、晩年と考えざるをえない。例えば、第二テモテ4:20[エラストはコリントにとどまり、トロピモは病気のためにミレトにのこしてきました]と書いている。第三回伝道旅行中、エルサレムに帰る時にミレトを尋ねた時のことを言っているのではない。あの時は、トロピモはパウロと一緒にエルサレムに行った(使徒の働き21:29)。それで,これらはパウロが別の機会の訪問の事を言っている。パウロがローマで釈放されてから後の事である。

パウロが釈放されてからの働きについて予測されるのは、釈放後すぐにピリピを尋ねた。(ピリピ2:19,24)。そこからコロサイに行き(ピレモン22)、スペインへの途上、クレテに行った(テトス1:5)。帰り道にアジアへの途上クレテをさらに尋ねた。そしてアジアからマケドニアに行った(第一テモテ1:3)。

第二テモテの時代になると、あきらかにパウロの置かれている状況が第一テモテやテトスの時代と違ってしまっている。そこでは、パウロは再び投獄されており、死が目前となっている。彼は友人たちのある者がいなくなって困っている。そして、他の積極的な敵意が,アジアにあり、クリスチャンといわれるものにもある(1:15)。青銅細工人アレキサンデルはパウロをひどく苦しめた(4:14)。これは、パウロが試みられている時に、敵対する証言を多くしたと見られる。しかし、他の友人たち、新しい友人たちも記録されている(4:21)。

 

パウロは投獄されており、何時どこで捕らえられ、ローマに送られたかは分からない。今は、ローマの権威者自身によって,とがめありと収監された。ローマの大火の責任をネロがクリスチャンたちに負わせた。だからクリスチャンであるというだけで捕らえられ迫害され殺された。最終的な無罪放免の希望はなかった。この手紙にてパウロの生涯の終わりを知る事ができる。伝承によるとパウロはアッピア街道の途上で首を切られた。

結び)「生きるも主のため、死ぬのも主のため」(ピリピ1:20-21)と行っていたパウロは、異邦人の使徒として、その生涯を見事に全うした。その業績は復活の主の栄光を輝かしてあまりある。その信仰の遺産は,今日の教会にとって、汲めどもつきない泉となっている。聖霊によって、同じ恵みに入れていただいた私たちに、神は何ができるかの十分なあかしをパウロは身を以て示している。

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