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2010年12月12日 ルカの福音書 2:1~7「内に宿る主」

2010年12月12日 ルカの福音書 2:1~7「内に宿る主」

序文)主イエス様の地上ご生涯は、かつて仰ったように「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕をする所がありません。」(マタイ8:20)という言葉に象徴されていた。イエスご自身とイエスの従う者たちの生活の厳しさを一言で言い表しています。人の子には枕をするところがない。救い主メシヤとして地上に来られたのに活動の本拠地も仮の宿の床もないのです。救い主の誕生は、このような地上生活の第一歩でありました。

Ⅰ  宿屋には、いる場所がなかった。 外的要因

なぜ、宿屋には、母マリヤとヨセフがいる場所がなかったのでしょうか。なぜ彼らは生まれた初子男子を飼い葉桶に寝かせなければならなかったのでしょうか。

1 その外的要因は、皇帝アウグストが人口調査をローマ帝国に行うようにと勅令を出したからでした。ローマ帝国第一代皇帝アウグストはBC31〜AD14年まで皇帝でした。彼はローマ全市民の中の第一人者(プリンケプス)となりました。その執政は賢く適切でローマ帝国100年の平和と繁栄の基礎を築いた人でありました。彼は帝国全地をおさめるため、徴兵と課税を目的として、人口と財産調査を実施しました.ユダヤ人は兵役を免除されていましたから、もっぱら課税の目的でパレスチナの住民登録が実施されて、その記録文書が考古学的出土品として発見されています。

例えば、ガイウス・ヴィビウス・マクシムというエジプトの総督は次のように命令をだしました。「戸籍調査の時が来たことを知ったら、いかなる理由があるにせよ、自分の地区以外に滞在する者は皆、自分の家にかえるように強制しなければならない。それは戸籍調査の規則を守らせると同時に自分に割当られていた土地の耕作にまじめに従事させるためである。」この勅令はユダヤでも同様であったと考えられます。ヨセフもマリヤを伴って自分の部族の本拠地ベツレヘム(ダビデの町)に戻らなければなりませんでした。

2 ダビデの町には、「ダビデ王」の町に属していることを誇りとしている家族が続々と帰ってきました。彼らは自分たちの氏素性を大切にしていました。どのようなことがあっても、戸籍登録のときには不在にしたりはしませんでした。でなければ、ヨセフが身重で臨月の妻マリヤを連れてナザレからベツレヘムまで地図の上で直線コースを辿っても120KMもある所を旅するなどとは考えられないほどです。町はそのような人々で超満員でした。宿屋には、このための用意などなく早く到着した者が順番に部屋に入れてもらえ、ヨセフ夫婦がついたときには既に入る余地はなかったのでした。彼らばかりではなく、多くの人々が宿に泊まることができない状態でした。

ヨセフとマリヤたちは、冷たくあしらわれた訳ではなく、意地悪された訳でもありません。もちろんまだ生まれていないイエス様に敵意を持っていた訳ではありません。宿の主人が提供できた最上のものは家畜小屋にある少しの空間を休息所として夜露をしのげる程度でした。

 

Ⅱ 宿屋に、彼らがいる余地がなかった神の要因

1 救い主の地上誕生第一夜のベットが、ベツレヘムの飼い葉桶の中であったということは、天の神の取り計らいであったといえます。神は旧約時代の予言者ミカを通してすく主の誕生地はベツレヘムであると語っておられました。「ベツレヘムエフラタよ。あなたはユダの氏族のなかで最も小さいものだが、あなたから、わたしのためにイスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)ヨセフとマリヤはナザレに住んでいたのです。しかし、神は皇帝アウグストを用いてイエス様がベツレヘムに生まれるように働かれた。さらに、神は本来ならば神のひとり子を世に送り出すに際して、人々が必然的にこのお方を重んじて受け入れるように王様の宮殿に生まれさせることもできた。エルサレムの王宮で最初の夜からダビデの王位を継ぐ方としてあたたかな床に生まれることも可能でした。

でも、それは、神のお考えの中には全くありませんでした。神はマリヤを選ばれベツレヘムのこの飼い葉桶を誕生の場としてえらばれたのでした。それは人間的な栄誉となるものの一切をぬぐい去った誕生であったのです。

2 このことは救い主として世にこられたみ子の積極的なお心から出たことでもありました.ピリピ2:6〜8.キリストは地上に使命を帯びて降られるにあたって、人となり、低い状態になられた。人の世で偉大な者、高い者、尊い者と考えられる一切の者をも斥け、排除して、積極的に低く、いやしく、蔑まれるものを選びとられたのです。このことにより、人間が誇りうる一切のものが打倒されて、その最も貧しい状態の中に、最も偉大な神の光が輝くようにとされたのです。それは軽んじられている者、無に等しい者まで救い出そうとされたみ子のお心を表しています。失われた者を求めて尋ねだすために来てくださったみ子の歩みが、第一夜から示されているのです.

3 これらのことにより、神の救いは全く天からのものであって、その深いあわれみと愛がはっきりと示されたのです.地上のものは、このみ子の救いのみわざに一切の権利を主張することはできないのです。考えてもごらんなさい。救い主が王宮のきれいに飾ったゆりかごの中で生まれ、そこから救いを身を以て示したとしましょう。そのことが、あなたの心の奥深く訴え感動の中に包み込むでしょうか。人間の地上の偉大さを持って飾られた救い主は、はたして神の輝きをどれほどわたしたちに示してくれるでしょうか。むしろ、地上のものとして、汚れと臭気の漂う飼い葉桶が象徴し、一切は天からの輝きに包まれたお方なるが故に、救いの届く深さを覚えるのです。

 

Ⅲ 主の民・教会はこのことから何を学ぶでしょう。

1 教会はその存在の基を、この飼い葉桶に始まり、十字架上に終わられた救い主においています。わたしたちの罪の身代わりの死の一生涯においています。

そして主の復活は存在を支える力です。ですから、教会は、この世からのものを期待し、この世の偉大さ、この世の誉れ、この世の貴さを追い求め、天のものを忘れるとき救い主を宿す資格を失い、力を失ったのです。

初代教会が普通の民家や、地下の墓穴に集っていたころは、その説教者たちは黄金の口をもって神の救いのことばを語っていました。しかし、中世において王の宮殿を見間違うほどの大理石の会堂を建て、ありとあらゆる人間的な華美を競ったとき、説教者は華麗なる儀式の単なる司式者へと堕落したのでした。

救い主のみが輝く教会となる、この原点にわたしたちはいつも立ち返るようにしなければ道を踏み外してしまうことになりましょう。飼い葉桶のみどり子の目にひざまずく謙虚さを失わないように求めましょう.

2 次に、誕生の日、イエスさまが飼い葉桶に伏したのは、原因がはっきりしているのですが、現在のわたしたちは、このお方をどのように迎えているか問われます。

当時と違って、わたしたちはイエスがキリストであること栄光のみ座に復活して戻られたことを知っています。それならば、その使命は見事に完成されたのです。神のみ子、救い主、やがて再び来たりたもう主の主・王の王として、心の王座に迎え入れねばなりません。あなたの心の客間は地上の事柄でいっぱいに詰まっていますか。肝心のイエス様は入る余地がないのですか。あいからわらず追い出したままですか。あるいは片隅に押し込めたままですか。まずあなたの心の王座に主を迎え入れていただきたい。[黙示録3:20]主はいまでも門の外に立ち、扉をたたいておられるのです。あなたは心の扉を開くことができます。迎え入れるならば、そのとき「キリストが私のうちに生きておられる。」(ガラテヤ2:20)と実感し、あかしすることができます。そのことはすばらしい神のいのちを約束するのです。

「もしキリストがあなた方の内におられるなら、からだは罪の故に死んでいても、霊は義の故に生きています。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなた方の内に住んでおられるなら、キリストイエスを死者のなかからよみがえらせた方は、あなたがたの内に住んでおられる御霊によって、

あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるのです。」(ローマ8:10〜11)

 

結び)たとえ、今、あなたのこころが客間のように整えられていないとしても飼い葉桶のようであっても、心を開いて迎え入れ者のうちに、主は宿ってくださいます。でもこころの最高の座に無か入れることができる案ら、それは救い主を迎えるに最もふさわしいといえます。「主よ、この心のうちに住みたまえ」と祈りましょう。

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