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2010年12月5日 ルカの福音書 1:57~80「幼子の行く末」

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2010年12月5日 ルカの福音書 1:57~80「幼子の行く末」

序文)ユダヤ人の家庭に子供が生まれると、その喜びは大きく両親は歓喜した。エルサベツに月が満ちて男子を産んだ時、近所の人々や親族は、主が彼女に大きなあわれみをおかけになったと喜び、集まった。祝宴を開くためであった。ことに、最初の子が男子の場合は、わざわざ「初生男子」を表す言葉があるほどに喜びは大きかった。2:7に「男子の初子」を産んだ。とあるのがそれである。「初生男子」は「父の勢い、また、ちからのはじめ」として、それに伴うあらゆる義務を持った。家族の未来の長であった。また、その子はイスラエルの法により「長子相続権」として二倍の分け前に浴した。

産まれた男子は、神の子供としてのしるしをアブラハムの契約にもとづいてつけるため,8日目に割礼を受けた。この義務はユダヤ人にとっては絶対的で、たとえその日が安息日であっても、このことは実行された。

新約時代のわたしたちは、信仰によるアブラハムの子孫、神の民として契約の子供達に幼児洗礼を施し、男子も女子も、神の約束の子供たちであることのあかしをたてている。

当時、イスラエルでは、さらに、初生男子は収穫の初穂が、神のものであったと同じように、神の前に聖別されることを命じており、そのために生後一ヶ月以内に、神に犠牲の献物をしたのです。

また、初子の名前を付ける権利は家族の長、父親にありました。聖書では、また、母親も名前をつけています。一般には夫婦の間で一致して、名前をつけていったと考えられます。そして、通常は父の名前を義務的につけていたのです。

 

Ⅰ 信仰の表明としての「ヨハネ」

ザカリヤの家に産まれた男子の名前を、どのようにつけるかで、人々は父の名前にちなんで,当然ザカリヤ(意味:神はおぼえたもう)にしようとしました。ところがエリサベツは「ヨハネ」にしなくてはいけません。と主張して、近所の人々を驚かした。「ヨハネ」(エホハナンの短縮形)神の恵み、または神は恵み深いである。

エリサベツ(神はわたしの誓い、神を礼拝する者)は、夫から天使の現れを聞き、産まれてくる子の名前を「ヨハネ」とするようにとの神の命名を聞いていた。それで、彼女はその信仰的決断をもって、ザカリヤではなくヨハネと主張した。いぶかる人々に対して、父ザカリヤは書き板の上に、その名は「ヨハネ」と書いた。この告白により彼の口は開け二人そろって、この男子は、わが家のものでなく、名付け親である神のものであることをあかしし、告白しました。

旧約時代の預言者イザヤは,神の命名によって二人の男子にシャル・ヤシュブ(残りの者は帰る)、とマヘル・シャラル・ハシバズ(分捕りは早く、略奪は速やかだ)と名付けました。イスラエルの国が

暗黒に突き進み、神から離れ去る中で、イザヤは家族ぐるみで、神のメッセージを人々に突きつけたのです。夫イザヤが子供にこの不吉な名前をつけようとしたとき、妻は、夫の働きを覚えて夫に従ったのです。主のご用のために人々の批判、中傷をあえて受け、全家をあげて主を探し示し続けたのです。

今日でも、クリスチャンがその家の子供の名前は何らかの意味で両親の信仰告白がこもっており、神の前での歩み方の決意がみられるのです。

Ⅱ 父ザカリヤは聖霊により預言します。

人々は、この出来事から幼子の行く末を「どのような者になるのだろう」と噂します。ザカリヤはこの時預言をもって答えています。

1 68〜75節 はじめに彼は、メシヤの救いの預言をします。

救い主を世に送られる神の恵みが賛美されています。

それは、神が族長たちとの契約を成就し、預言者たちにより旧約に語り続けてこられたダビデの王座に座するメシヤの約束を成就されたからでありました。聖書の神が、私たちを贖おうとされた働きは、おもいつきや気まぐれではなく,歴史の中で順序だてて、準備された完全な働きであったのです。神のあわれみによって、贖いはととのえられます。それは約束を忘れない神を浮きだたせています。ユダヤ人たちは歴史的には長い間不信仰によって神が彼らを忘れられたように思えるところを、通らねばなりませんでした。不幸に押しつぶされ苦しむままになっていたのでした。しかし、神の契約は、ついに「時が満ちて」キリストによって批准される事となりました。

それは神の信仰の民たちが贖われて救い主に仕え、栄光をたたえるように全く献身するためであります。聖く正しく恐れなく、主のみ前に仕えるときに、神の聖なるみ名はあがめられるのです。

2 76〜79節 幼子ヨハネの行く末が預言される。

ザカリヤは次にヨハネにかかわる天使のお告げをはっきりと理解して、幼子の果たす役割、神の前での位置をたしかめ表明します。彼は祭司の子ではなく、救い主の預言者と呼ばれます。ヨハネは祭司ザカリの子供ですから本来は祭司職を受け継ぐのです。しかし,彼は預言者として立てられます。主の道を備える者です。メシヤの先駆であり、メシヤを人々に紹介する働きをいたします。

そして、罪のゆるしによる救いを民に知らせます。その働きを通して救い主は人々を「きよく,正しく、主のみ前に恐れなく仕える者、すなわち祭司」へとつくりかえ,平和の道へとその足を導きます。暗黒と死の陰に住む、わたしたちは汚れと不義と爛熟しつつある罪と戦い争いへの道に深く迷い込んで世界的広がりをもって大混乱と不安の時代にいます。

神はあわれみにより、それぞれに日の光が輝くようにとキリストをあかしし,光として輝かす預言者を立てておられるのです。

現代のクリスチャン達も、又世の光として、この暗い時代に輝いてキリストをあかしすべく立てられています。

わたしたち自身が光ではありません。エペソ5:8「以前は闇であったが、今は、主にあって光となっている。」にすぎません。主の光、いのちを正しく指し示すことを担っているのです。

Ⅲ 信仰の幼子たちへの期待

1 契約の子供達への期待

わたしたちはザカリヤにならって,自分たちに与えられた契約の子供たちを,キリストにある子供たちとして育て、光の子、あかし人として、将来立つように導かねばなりません。信仰のうちに成長し、霊が強くなり、主の預言者であり、祭司として立ってくれる事を心から期待します。また、全時間の献身者として主にその生涯を捧げる男子,女子が起こされる事を願っています。これもまた、神のあわれみのみわざであることを信じて祈りましょう。

2 新しく神の子となった方々への期待

これは契約の子供たちばかりではありません。これから神の子の数に入れられて、歩みだそうとしている兄弟姉妹方、すでに歩みだしている兄弟姉妹方のためにも祈ります。

主イエス/キリストのみ前に、その道を備え、あかしし、光となってその生涯を歩むものが続出するようにと祈ります。

結び)暗き世の行く末を思い、クリスチャンは全家をあげてキリストの光をかかげつづけて行きたく存じます。その子供にも同じ信仰告白を担ってもらい、この群れの中から主の働き人が与えられるようにと祈ります。

 

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