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2010年5月2日「夫婦の愛の更新秘訣実習」

2010年5月2日   セルリーダー研修会  夫婦の愛の更新秘訣 実習
ヨハネ15:12-13 「互いに愛し合いなさい」

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」 ヨハネ15:12-13

序文)「互いに愛し合いなさい。」主イエス・キリスト様が私たちの身代わりとして十字架にかかられる前の晩に、これだけは言っておかなければと弟子たちに示された、最も重要な新しい戒めです。愛し合うならば、この世に対して、主イエスの弟子であることのあかしとなります。愛し合う模範は、先ず主イエス・キリストが弟子たちに示されたようにです。キリスト教的な愛し方で、わたしたちは互いを愛し、主人や妻や子どもや隣人を愛するのにどのようにしたらよいのでしょうか。夫婦の在り方に焦点を絞って考えてみましょう。

Ⅰ 互いに愛し合う前に、自分が愛されていることを発見する。
キリスト教がいう愛の原点は何でしょうか。
弟子たちは、互いに愛し合うなさいと戒められる前に、まず主イエス・キリストから最大限の愛をいただいていました。「わたしがあなたがたを愛したように」とある通りです。この主イエスの愛が原点です。弟子たちは、いままでお互いの中を仲裁し、とりなし、教え、励まし、愛してくださった主が、自分たちの前からおられなくなると、すぐに、あのときお前はこうだったとか、ああだったとか言って、一致団結するよりは、分裂するほうに進む危険性があった。でも、それを乗り越えられるだけのいのちと恵みと愛を主イエスはご用意くださった。「愛はすべてのそむきの罪をおおう」箴言10:12とあるように、主イエス・キリストは十字架の上で、弟子たちのそむきの罪をおおってくださろうとしておられました。それどころか「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」といわれたように、主イエスは弟子たちの救いのためにいのちを捨てて、最大限の愛を示そうとしておられました。この愛は神様から一方通行で人に与えられるのです。あなたにも与えようと主は願っておられるのです。
人は自分に示された愛の大きさによって、愛してくださった方のいのちを受け継ぎ、今度は自分が他の人をそのように愛することが出来るように変えられるのでしょう。それで「あなたがたも互いに愛し合うこと」と戒められて、愛が実行できることを発見してゆくのです。弟子たちに出来ないことを主イエス様が戒めされたのではありません。出来る者に変えてくださったので戒めが生かされるのです。主は言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」ヨハネ15:9
このような愛は、弟子たち同様に、わたしたちも生まれながらに持っているものではありません。弟子たちだけでなく、私たちもまた、主イエス・キリストを信じるときに「互いに愛し合う」ことが出来るいのちと恵みと愛をいただくのです。聖書の生きておられる真の神様は、主イエス様を信じた者に、新しい神の子としての誕生を与えられます。主イエス・キリストのうちにおられた聖なる霊が、信じる者のうちにも宿られることによってそうなるのです。聖霊は信じた者のうちにその実りをもたらして、宿っておられることを示されます。「御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」ガラテヤ5:22。実りの一番初めの実が「愛」です。この愛は行動することで実っていることが分かるのです。

Ⅱ 互いに愛し合う
ところで、ここで主イエス様が弟子たちに求めておられる互いの愛は、多く愛してとか、誰にもまんべんなくとかいった、愛の量のことでしょうか。どうもそうではないようなのです。愛の量ならば、人数が少ない方が互いに多く愛し合えますから、福音を全世界に伝えて信じる者が増えるのは困るのです。教会も人数が少ない方が、牧師を独占できるし、信者同士も親しく家族的で満足で嬉しいでしょう。愛の量と理解して無意識のうちに少ない人数がよい、質が高くなるからとそう考えて、なかなか宣教の広がりを実践できないのです。それではなぜ、主イエスさまが全世界に出ていってすべてのつくられた者に福音を伝えよ、と命令なさったのでしょうか。
ですから愛の量ではないのです。愛の向かう方向が大事なのです。主イエス様が用いられた愛(アガペー)という言葉は、一方通行の愛をしめします。他のエロース(肉の愛)は自分の方にだけ引き寄せる愛、奪う愛、自己満足だけの愛です。フィリア(親子、兄弟、姉妹の間にあり、友情の愛なども入る)という言葉は相互通行の愛、おかえしを求める愛を示します。
主イエスの一方通行の愛をもって、相手を愛するように。互いに一方通行の愛を示し合うようにと戒めておられるのです。互いに愛し合うのだから、相互通行だと理解したら、違ってしまうのです。おかえしを求めないで、それぞれが一方通行で示されるまことの愛をあらわすのです。

Ⅲ 夫婦の結婚生活に示される愛
参加者が家庭の中でどのように愛を示し合うことが出来るかを、考えてみましょう。
家庭の中でといっても主題が大きいので、焦点を夫婦に絞って結婚生活で愛をどのように示し合うことが出来るかを、共に考えてみましょう。わたしは信仰を与えられて55年結婚して43年目になります。息子が結婚して2人の子供を与えられ、伝道者の働きをしており、上の娘が開拓牧師のご主人とで4人の子供が与えられており、一番下の娘は牧師と結婚して2人の子どもが与えられ、奉仕しています。夫婦ともに70才で、前期高齢者です。結婚当初のように二人切りです。

結婚生活について、愛を示し合うことは具体的には、個々人の生活と、人との関係に、三つの実用的な原理を適用して、更新して行くことではないかと考えます。
第一は、成長の原理です。夫婦が人格的に成長し続けることです。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」創世記2:24。夫婦であることは全人格的な関係を一体として深めて行く歩みなのです。夫、妻がそれぞれの独自な人格性を確立してゆくことで、成熟するのです。そのために神様がそれぞれにくださった賜物を理解し、その能力や潜在力を発揮して、まだ用いられていない力をだんだん現実に生かしてゆくことです。自分も成長しながら、相手も生かして行く。
第二は、意志性。これは自分の生涯の目標を選ぶことです。結婚生活の目標を夫婦が一緒に共に選ぶことです。その目標に向かって努力することです。意志性とは、単になりゆきにまかせたり、環境や相手を互いに非難することよりも、よりよい未来を創造する力を神が自分に与えてくださったことを認めて、その力を用いることです。
特に中年期の人は、自分たちの今までの生活への大変化を経験してゆきます。身体的には女性(45?55才ぐらいまで)は更年期になりますので、ホルモンバランスが崩れて、若いときには経験しないような変化を経験します。ほてりやのぼせ、冷え、頭痛、めまい、肩こり、口の渇き,倦怠感、不眠、鬱症状、自律神経失調などが起こります。男性も(45?65才ぐらい、男性の方が長い!)更年期があります。なかなか疲れが取れないからはじまり、急に気力がなくなる、何をするにも集中できない、イライラする、ストレスを感じるなど男性の更年期は精神的な症状を最初に訴える人が多いのが特徴です。泌尿器科にかからなければならなくなります。前立腺肥大は大変多くの中年期の男性がかかっています。 このような時期にさしかかっている兄弟、姉妹方は、そのような状態である自分を受け入れなければなりません。お互いに認めて受け入れなければなりません。否定したり無視したりしてはいけません。互いに愛し合うことは、そのような状況であることを尊重することです。この時期の存在を否定したりしないで、どのように有効に用いることができるかで、暗黒時代になるか、革新の時代になるかが決まると言われています。意志性はその人の残された生涯が長かろうと短かろうと、自由に用いるようにさせます。この時、キリスト教の信仰と主イエスがもたらす愛を意志的に受け入れるならば、夫婦の関係性は著しく革新され、永遠を見据えた意志性を発揮できるものと変えられるのです。意志的に示される一方通行の愛は、老齢になってゆく過程で、どちらかが、あるいわ双方がそこにいることしかできない状態に身体的、精神的になっていっても相互に関係できない状態になってもなお、有効に働くのです。
第三は、生成力。他の人のために自分のいのちを投資することによって、かえって自分のいのちを発見することです。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」マルコ8:35。中年期は生み出すか、停滞かのどちらかになりがちです。実状はどちらも少しずつ変化している。教会や、価値観を育てるために、自分の持つ何かを投資することによって、未来について、未来のために配慮をすること。中年期をすぎると更年期脱出と共にいろいろの人生に巻いてきた事柄の集約と刈り取りの時期になります。充実した人生のいろいろの実りを収穫するときになります。楽しみがふえるのです。
この三つの原理を統合した生活様式を考えることで、全人格性を成熟させて行くことが出来るのです。
人生を生かし切れずに、互いに愛しあうことを育てないままでいると、可能性を無駄にした結果おこる痛みは、中年期から老年期にかけて夫婦の生活を圧迫してきます。痛みを取るために、ますます働き中毒になるか、過度の飲酒と薬物の乱用、また、絶望的に「暴走する」性関係に走るのです。このような逃避は、偽りの解決に過ぎないことが分かってくるのです。それでますます人生を無情なものにしてしまうのです。これらを防ぎ、いやすためには、もっと成長し、意志的で、生成力をもつ人になることが必要なのです。それは主イエス・キリストにあって可能なのです。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」豊かないのちを主イエスは与えてくださり、わたしたちが持つようにしてくださった。

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