2010年1月24日 使徒の働き 15章36~41節
聖書の話 「思わぬ反目と良い結果」
序文)エルサレム会議の決議事項が、ユダとシラスによってアンテオケの教会に伝えられた。その時パウロもバルナバも帰っていた。主のみことばを教え伝えて教会を励まし、力づけていた。それから数日たって、パウロはバルナバに第一次伝道旅行でみことばを伝えた町町に再び行って
「どうしているかを見てみよう。」と提案した。この提案が行われた動機と、経過と結果を今朝は学びます。それによって現在、わたしたちの教会が行っている様々な活動への良い示唆となれば幸いです。
1 動機
パウロが提案したことがらは、「自分たちが福音の種を蒔いた結果生まれた諸教会、信徒たちが、如何しているかを見てこよう」というのです。
この動機は、現代でも共通している宣教師や牧師の気遣いです。主イエス様の十字架と復活の福音によって生まれたとはいえ、いまだにそれほど時間がたっていない。成長の途上にある。「どうしているか。」心配である。みことばを伝えた者として、信じる者が起こされたが、その後の歩みはほっておくと、すぐにも悪魔が蒔かれた種を奪い去り、信仰の炎を消してしまいかねない。
幸い、アンテオケの教会は、みことばにより使徒会議の決議により、秩序正しい信仰が確立し、安定して、伝道にも励み続けている。シメオン、ルキオ、マナエン(13:1)などの働き人もいる。シラスなど信徒リーダーたちも育っている。ここを、しばらく離れても大丈夫。生まれたての小さな教会を巡回して、手助けをしてこよう。大きく確立されている教会が、小さな生まれたての教会の面倒をみることは、ふさわしいし、あるべきことがらである。小会を助ける中会、中会を助ける大会、諸教会、諸教派間の助け合いや心くばりは、初代教会ではごくあたりまえに行われていた。
アジアの小教会が成長してゆくために、まだまだ伝えなければならないみことば真理は多い。かれらが、つまづいてしまうと、その悪い影響は地域全体から遠くに及んでしまう。そうならないように手助けが必要である。望ましい状態にとどまっているようにと励ましが必要である。
パウロの動機は主イエス様のみからだの一員としての見習うべき動機であります。
信徒同士の信仰をもって間もない者への心くばりや、助け合いはげまし合い、いのりあいなど、同じ配慮である。セルグループや、賜物奉仕グループの互いのため同じ動機で、交わり分かち合いが必要です。
2 経過
さて、この提案は、とても良い事柄であったが、思わぬ反目がパウロとバルナバの間に沸き起こった。
第一次伝道旅行の長い日々の間中、二人は、良く共同して一致してあらゆる宣教の苦難を分かち合い、恵みの数々を経験し、生きておられる主イエスの力を見せていただき、異邦人への伝道の急激な進展を見せていただいた仲間である。戦友である。パウロにとってバルナバは、信仰の恩人である。再び一緒に第二次伝道旅行に出かけて何も異議を挟む余地はない。これ以上の働き人の組み合わせはないと思われる。
しかし、バルナバはパウロの提案には大賛成であったが、ある点で大異議をとなえて勧告を受け入れなかった。パウロもまたバルナバにゆずることをしなかった。ある点で断固反対した。大方針は正しい。目的も間違っていない。キリスト中心の教会形成もそのとおり。しかし反対が生じた。
教会の働きの大前進の中でおこってくる、不一致が、思わぬところに感情的にとか、理論的に現れてしまった。このままおいておくと悪魔が付け入って働く。これ以上ない組み合わせの二人において思わぬ反目が生じたのだから、ましてもっと未熟な私たちのいておや。くれぐれも注意して祈りと謙遜を求められている。彼らは別に自己顕示欲のために反目したのではない。主イエス様が彼らの全生活の中心に常におられ、全き献身の生活をしていたのだが、なお、反目がおこる余地があった。
3 原因
その原因はいったい何であったのか。第二次伝道旅行の同伴者を誰にするかで二人の間に判断の違いがあった。第一次伝道旅行の時に、バルナバとパウロと従兄弟のマルコ青年が共に働き出かけました(13:13)。ところが、マルコ青年はパンフリヤで一行から離れてエルサレムに帰ってしまいました。この彼を、バルナバはもう一度連れていこうと決めていた。パウロは伝道を途中で投げ出して逃げ帰るような者は連れて行かない方がよいと考えた。パウロにとって第一次伝道旅行の途中でマルコが抜けた事は苦い手痛い経験となっていたのです。不適任である。注意したいのですが、パウロはマルコの信仰がなくなったと行って非難しているのではない。伝道者として、今の段階で的確であるかどうかを云々しているのです。クリスチャンでないといっているのではないのです。クリスチャンだが、いまの段階で、その働きを託するに足ると思うかどうかなのです。
職場放棄をした人間を再雇用するかどうか、それが宣教の働きの場合はどうか?パウロの判断が正しいとアンテオケの教会が判断したらしい形跡、また主もパウロを祝福した形跡は、「パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。そして、シリアおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。」とあることからわかるのではないか。正式に教会の兄弟たちから派遣されているのと、主の恵みが行く先々で現れた。しかしバルナバとマルコは、そのような書き方はなく、「船でキプロスに渡っていった。」とだけ書かれている。教会の兄弟たちはバルナバとマルコのために恵みを祈る機会がなかった可能性もあるほどである。
どちらにしても、別行動なので、二組の伝道旅行が生まれたこととなる。それはそれで摂理的な事柄として良かったといえるのだが、この場合、主の良い働きのうえで、誰を選ぶかという人物選択の課題で、反目がおこった。どのような考え方で、誰を選ぶかは、常に難しい課題であります。弱腰マルコに立ち直りの再チャンスを与えよう。それにマルコの母は、エルサレムで迫害を受けているクリスチャンたちを匿い、信仰の仲間たちの集会所を提供し、使徒たちの安息所にもなっていた。その息子が伝道者になろうとして、献身し、おじさんバルナバと一緒の伝道旅行でその苦難と厳しさに根をあげて逃げ帰ってしまった。母親のためにも彼を再起させたいとのバルナバおじさんの人情もある。若者が一度失敗したらといって、それですべてだがだめになったのではない。
再チャレンジを与えるべきである。
これは結果として、バルナバの心が弱腰青年マルコを再び立ち返らせる事となり、ついに、マルコは大伝道者となり、さらにはマルコの福音書を書き残すほどになったのでした。パウロは後になってマルコといっしょに獄中にいました、また第二テモテ4:11「マルコは私にとって役に立つから、いっしょに連れてきてほしい」と頼むまでになったのです。
バルナバの献身と奉仕と慰めの子としての人となりが、パウロをキリスト教会の第一級の人物へと導き入れ、弱腰のマルコを大伝道者にし、福音書記者にまでならせたのです。
使徒の働きの後半になるとバルナバはパウロの脇役に徹しています。その陰に隠れている存在となっています。しかし、神が彼を用いてその救いの実践の舞台でなくてならない者とされました。
結び)教会が、そのときそのとき選び任命する、人物について、いろいろの判断が職務の種類によって必要になります。クリスチャンであることは間違いない。しかし、現時点の判断をとるか、未来にかける判断をとるかで、パウロのように考える場合と、バルナバのように考える場合があるのです。皆様はどうなさるでしょう。いずれにしても大切なことは教会の頭は主イエスさまであり、イエス様に仕えるお互いであることを忘れてはならない。導かれる聖霊に、おおいに信頼して、いま、自分に主から託されている働きを真実に忠実に全うしてまいりましょう。