2010年5月2日 使徒の働き18:1~3,24~28
[同労者プリスキラとアクラ]
序文)アテネで突然の休暇を過ごしつつ、ついつい町のおびただしい偶像に心憤り伝道をしてしまったパウロは、次にアカヤ州の首都コリントにやってきました。一年半も腰を据えてこの町で伝道することと成りました。今朝は、1〜3節に目を留めて、パウロ自身についてよりも、この町で出会い生涯の同労者となったプリスキラとアクラに焦点を絞って説教をします。その背景と、コリントとエペソでの二人についてです。そして来週コリント伝道について説教したいと存じます。
Ⅰ アクラとプリスキラ夫妻の背景
アクラ(ローマ名 鷹)とプリスキラ(意味は小さい)は、ローマに住んでいました。アクラはポント生まれで天幕造りが職業の名もないユダヤ人でした。ポントは黒海のアナトリア海岸に面したローマの一州でした。彼はローマに移りそこで、プリスキラに出会いました。プリスキラはローマの名門貴族「プリスカ家」と関係があったかもしれません。パウロは彼らのことを手紙の中で呼ぶときに「プリスカ(意味は大昔)とアクラ」と正式名で呼んでいます。ルカはたいてい他の人の場合でも通称で呼んでいるのです。アクラに嫁いだことでユダヤ人となり,天幕造りの仕事を手伝って夫婦で生活を立て上げていました。
なぜ、プリスキラがアクラと結婚するようになったかは、推測の域を超えません。二人がコリントに来たときは既にキリストを信じていたと考えると、ローマのユダヤ人会堂にキリストのことが伝えられたときに信仰をもったアクラを、同じ信仰をもったプリスキラが見染め、その信仰の結びつきにより、社会的な地位などを超えて結婚するにいたったと考えられます。
また、キリストを信じるにいたっていなかったとするとコリントに来てから、同じ職業のパウロから伝道を受けて夫婦で信仰に導かれたことになります。この場合、ローマ在住のおりはユダヤ教の信仰をもち、プリスキラは神を敬う者であって、アクラと知り合って結婚に至ったと考えられます。
紀元49~50年にローマの皇帝クラウデオが、すべてのユダヤ人をローマから追放した。そのことを聖書学者ブルースは注解書に継のように書いています。「クラウデオ皇帝の勅令は、歴史家スエトニウスがそのことを書き残していることと関係つけられている。[ユダヤ人たちはクレーストスの煽動で、たえず騒動に浸っていたので、クラウデオ皇帝は彼らをローマから追放した。] このクレーストスとはだれでしょうか。キリストのことではないでしょうか。ギリシャ語の発音では、この二つのことばは同じです。文字がほんの少しだけ違います。スエトニウスはキリスト教の開祖のことを頭に描いていた。ローマのユダヤ人社会で、会堂にキリスト教が伝来したことからくる軋轢と騒動により皇帝がその源になる、ユダヤ人全部を追放してしまった。このように見ると、アクラとプリスキラがクリスチャンである可能性は大きい。
さて、その時、アクラとプリスキラはそれまでに築いたローマの生活のすべてを残して去らなければならなかった。所有物や友人やプリスキラにとっては家族の人々などである。夫に従う生活により、ローマ退去命令とともに、アクラといっしょにプリスキラも退去した。すべてのものを失ってなお、彼らが仲睦まじい夫婦であることは、聖書に出てくる彼らの姿で知ることができます。キリストを既に信じていたとしても、ユダヤ教徒であったとしても、神への信仰によって心が結びつき、ともに歩み、一つとなっていたのです。
Ⅱ コリントでのアクラとプリスキラ
コリントに来たアクラとプリスキラは天幕造りで生計をたてていました。神は、アクラとプリスキラにとってローマですべてを失ったかにみえる出来事ののちに、すばらしい計画を用意しておられました。それは胸躍るような新しい生活であり、魅力的な奉仕の生活でした。同業者はすぐに見つかりました。天幕を造る仕事は屋内の狭いところではきません。野外の作業が多いのです。パウロはアクラとプリスキラの所にゆき、ともに働かせてくれるように頼みこみ、また生活まで一緒にさせてもらうことができるようになりました。
毎日作業をしながら、アクラとプリスキラは、パウロの語る主イエス・キリストの福音の全体像を知ることができました。そればかりか、本物の信仰に成長しました。みことばの適用を学びました。彼らは、安息日にパウロが会堂で語るメッセージもともに行って聞くことができました。彼らはパウロために祈り、ともに福音の為に労苦する者となりました。自分のいのちを差し出すまでになりました。{ローマ人への手紙16:3~5}
彼らの忠実さ、パウロへの尊敬、仕え励ますわざは、孤独な宣教者パウロにとって、大きな意味を持っていました。ともに生活している間に、パウロがいうことと行っていることに感銘を受け、これからもずっとパウロとともに歩いて行きたいと決心しました。彼らのうちに働かれた聖霊は、はっきりと彼らの生活に新しい目標を与えたのです。
18ヶ月の後にパウロがシリヤに向けて出帆したときアクラとプリスキラも同行したのです。そしてついにエペソにまで来ました。エペソの信者たちはパウロに長く留まるようにと要請しました。しかしパウロは次に信頼していたプリスキラとアクラを自分の代理で次にカイザリヤに向かいました。
Ⅲ エペソでのプリスキラとアクラ
コリントでの、プリスキラとアクラにたいするパウロによる信仰訓練の実りは、エペソで実を結びました。有能な仕事をプリスキラとアクラは行いました。もう一人のパウロとなって彼らはエペソ教会に仕えました。このことは、アレキサンドリヤ生まれのユダヤ人説教者アポロがエペソに着いたときはっきりとわかりました。アレキサンドリアは教育と哲学の中心地であった。アポロはここで雄弁と討論での有能な力を身につけた。
彼アポロは熱烈に、説得力あることばで、イエスについて人々に語りました。聖書に通じており、主の道の教えを受け、霊に燃え、正確に語りました。彼が何処でキリスト者になったかは示されていない。しかし、不十分でした。それはバプテスマのヨハネの悔い改めの福音しか知らなかったからです。
プリスキラはアポロの欠けている事柄に気がつきました。主イエス・キリストと死と復活の結果がどうなったのかを知らなかったのです。ほとんどすべての注解者たちが、プリスキラが最初にこのことに気がついたと書いています。彼女は家に帰って夫アクラと相談をしました。「どうしたらいいでしょう?」今日の私たちだったら、この場合どのようにするでしょうか?牧師や伝道師が若くて未熟であることが分かり、その説教が不正確であると気づいた多くのプリスキラたちは、会衆の面前でアポロにそれを指摘するでしょうか。また、何人かの人々とお茶飲み話に噂をするでしょうか。家に帰って先生はしょうがないわねえ、お若いんだから、とつぶやくでしょうか。夫もまた、まあまあどこの社会でも、若い連中は元気だけれども欠点もおおくあるものだよ。神のみこころなら、そういう人でも用いられるのだから、しばらく様子を見ていようと、言うでしょうか。
彼らプリスキラとアクラは、どうしたら教会の徳を立てられるか考えました。そして、機転を働かせて、アポロを自分たちの家に招くことにしました。その上で非常に個人的に、福音の全体を彼に説明しました。バブテスマのヨハネの悔い改めの説教以降に、主イエス様が成し遂げられた十字架と復活の救いと、聖霊がペンテコステに降って信じる者たちの中に住み働いておられることなど、パウロがプリスキラとアクラに語ってくれた通りを、アポロに伝えました。聖書には、このことがわずかなことばで述べられています。
しかしその結果は計り知れない益を教会にもたらしました。アポロはのちにアカヤに渡りました。「アポロは聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。」(18:28)
プリスキラとアクラ夫婦は決して福音のために傍観者とならなかった。単なる批評家でもなかった。自分たちがキリストの教会の一員であることを自覚しており、この有能な伝道者アポロを傷つけないで、しかも間違いない信仰に立って宣教に励んでもらいたいという配慮から行動しました。アカヤの教会–コリント教会にはアポロのために紹介状まで書いてあげました。敬虔なクリスチャン夫婦が、有能な伝道者の生涯に大きな恵みを分かち与えたことにより、キリストの教会は前進しました。このような愛の配慮は、ごく個人的に行われます。それによって、互いの欠けていることが補われるのです。教会が必要としている事柄を知り、恵みをフルに生かして役にたてようとするからです。
プリスキラとアクラはしばらくして、今度はクラウデオ皇帝が死んだので、ローマに行きます。そこで家の教会を開いて伝道し、パウロの手助けを続けます。パウロは、彼らのことを同労者と呼ぶのです。彼ら夫婦の全面的な神への献身は、結婚生活の進め方の模範です。互いのクリスチャンホームは、どのような目標を実際に掲げて歩んでいるでしょうか。「プリスキラとアクラのような」夫婦でありたいと祈って歩みましょう。
結び)最後にパウロがピリピ教会にすすめたことばに耳を傾けましょう。ピリピ4:8~9「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて誉れあること、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いこと、そのほか徳と言われること、賞賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたは、わたしから学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなた方とともにいてくださいます。」