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2010年5月23日 使徒の働き19:1~7 「聖霊に整えられ]

2010年5月23日 使徒の働き19:1~7

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「聖霊に整えられ]

序文) 使徒パウロはアンテオケから、第三次伝道旅行にでかけました。18:24~28についてはすでにプリスキラとアクラについて学びましたので、今朝は19:1からです。

いよいよ、パウロは念願のエペソ伝道を正式に開始します。時は、紀元53か54年のことと考えられています。エペソは全小アジアの中心地でありました。パウロは使徒20:31で「わたしが、三年のあいだ」と後で語っていますように、全小アジアを宣教の範囲に覚えて腰を据えて伝道をしました。後に、若い伝道者テモテはこの広大な地域の宣教事業の責任を持ちました(第一テモテ1:3)。使徒ヨハネは晩年をエペソの教会の監督として過ごしたと言われています。「ヨハネの黙示録」はこの地域全体のアジアの七つの教会に宛てられて書かれました。

エペソでの伝道活動についてパウロ自身が20:17~35に、その様子を語っていますので、後に学ぶことです。さらに、エペソ人への手紙は、教会についての真理を知るために不可欠な書簡としてパウロによって書かれました。伝道の広がりを覚えるときパウロがどれほどエペソを重視し、ここに伝道の本拠地をおいた事は当を得ていたのでした。

Ⅰ 出来事の全体像

エペソに到着したパウロは、十二人の男子の集団に会いました。他のクリスチャンたちと、何かどうも違うことに気がつきました。あのアポロのように彼らはヨハネのバプテスマしか知りませんでした。アポロの場合は、イエスについての知識を幾分か持っていましたが、彼らはイエスはもとよりバプテスマのヨハネ自身の教えについても正確に把握していなかったようであります。バプテスマのヨハネの死後、その弟子たちは、当時のキリスト教集団に紛れ込んだ者たちもおり、また、ヨハネがイエスのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と紹介した事を知らないで、そのまま、超然としていた者たちもいた。十二人は、聖霊を知らず、イエスを知らず、悔い改めも知らないようでした。

それでパウロは彼らに質問しました。「信じたとき、聖霊を受けましたか。」彼らの行動がどうも変なのです。キリスト教徒の仲間のように見えますが、良く聞いてみると聖霊の実のりないところがあるのです。「いいえ、聖霊が与えられる事は、聞もしませんでした。」と彼らは答えました。彼らが本当のクリスチャンになっていなかったことを示しています。エペソの弟子たちの仲間に入ったけれども、キリストの弟子たち共通の聖霊の働きが全生活に現れていなかった。当然聖霊が働かれて、結ぶはずの実が生活を通して現れていなかった。

主イエスが命じられたように「父と子と聖霊の名によって洗礼」を授けられていたならば、聖霊について知らないということはなかったはずである。パウロは「では、どのようなバプテスマを受けたのですか?」彼らは「ヨハネのバプテスマです。」と答えました。イエスの福音の基本的な内容の全体を知らないままで、道そなえとしてのバプテスマのヨハネの洗礼だけを受けていた。キリストの命じられたのではない。しかも、ヨハネが教えていた「自分の後に来る方が、メシアであり、わたしはその方の靴のひもを解く値打ちもない」とまでいっていたことや、そのメシアがイエスであることも知らなかった。それでも、エペソの弟子集団に入っていた。バプテスマのヨハネの弟子たちが、ヨハネの死後、初期イエスの教会とのあいだに複雑な事態が生じていたことがわかります。それとともに伝道に進展により、その欠け目が発見されて、補われていった様子がわかります。パウロは彼らにその欠けている真理を丁寧に教えました。このようにして、彼らは主イエス・キリストにつく洗礼を受けました。ローマ6:3~4。また、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らに臨み、あのペンテコステのときのように彼らは異言を語ったり、預言をしました。当時聖霊を受けたときに顕著に現れた賜物でした。他の箇所ではこのようなことが見られないので、「聖霊について知らなかった彼ら」への明確な信仰に導くために神様が働かれて真の信仰の現れを確信させようとされた。現代の私たちは、聖霊が働かれて信仰心が起こされ、信じた者の中に住舞われる聖霊によって御霊の実を結ぶ事が知られるのです。異言を語ったり、預言したりできなければ聖霊がおられないという訳ではない事は、既に賜物の発見で学んだとおりです。後詳しくみましょう。

シリヤのアンテオケに継ぐ、異邦人伝道の重要な拠点となるエペソ伝道において、神様は、パウロを用いて聖霊によって弟子集団を整えられました。これからの重要な働きの一翼を担わせようとされました。

Ⅱ 何を学ぶ事ができるか

わたしたちは主イエス様を救い主と信じています。そのことが何を意味するか十分わかっているでしょうか。その信じている内容がみことばにより、より十分に把握され、今、知っているよりも、さらに確かな理解を増し加えていただき、それとともに実行のともなう信じ方をしているかと、反省する必要があるのです。信じているなら、その人の中で聖霊が働いておられるのですが、自分は聖霊を内に宿している宮であることが理解され、受け止められて、そのとおり聖霊の実りが生活において結ばれるのです。ガラテヤ5:22[御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。] このような実が見られる生活は、そのような行いが伴うので見分けがつくのです。

ヤコブは2:11「私の兄弟たち、だれかが自分には信仰があるといっても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救う事ができるでしょうか。」と言っています。信仰はその実が伴う。「もしあなた方の心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上からきたものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。  しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに道、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(

ヤコブ3:14~17)とも言っています。

自分には信仰があると安住することなく、さらに聖書に聞き、さらに聖霊に整えられる歩みを求めて進みましょう。思わず恵み深い約束を見過ごしていたり、知っていなければならない神様のお働きかけを知らないままで、自分でなんとかしなければと焦ったりすることにないように、導きを求めましょう。

Ⅲ 何を学ぶ事ができるか その二

十二人に聖霊が臨まれて、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしました。聖霊の賜物については、新約聖書におくつかの賜物の表が記されています。あるものは、「賜物自体の表」であり、ある表は「賜物を受けた人々の表」であります。

ローマ12:6~8,

第一コリント12:4~11,28~30,

13:1~3,

エペソ4;4~22,

第一ペテロ4:11。

これらの賜物は、すべて聖霊によって生み出され、みこころのままに各自に与えられているものであります。従って神の賜物の中で軽んじられるようなものは一つもないし、誰も、賜物相互の間に優劣関係を持ち込む事は許されません。

さて十二人が異言を語ったり、預言をしたりしたのですが、実は異言を語った例は、「使徒の働き」においては三つの場合しか記されていません。2:4ペンテコステ、10:46コルネリオの改心のとき、そしてここです。異言は、外国の言葉を、それを知らない人が使って、福音のあかしをする場合や、それを解き明かす人がいる場合に、教会の徳を高めることができるものです。パウロは異言よりも、預言をするようにと勧めています。異言は信徒のだれにでも与えられているのではありません。逆に人が救われても異言を語っていない例が、使徒の働きには21例もあるのです。異言の賜物がすべてのキリスト者に与えられのではない事がわかります。キリスト者全員は一つ聖霊を与えられており、その様々な賜物により、キリストの体の一員となっているのです。

預言については、神のみことばの解き明かしであるので、聞いている人々の徳を高め、勧めをなし、慰めを与えます。

わたしたちも聖霊の賜物をいただいているのです。それぞれキリストの賜物のはかりに従って恵みを与えられているのです。自分に与えられている賜物が何であるかを知って、聖霊に整えられてキリストのからだである教会の徳を高めるために仕えあいましょう。

 

結び、この十二人は、エペソ教会の進展にともない、他の兄弟姉妹とともに大いに仕え用いられました。自分に欠けていることが発見されれば、熱心に聖霊により補っていただくことを求め、聖霊の満たしをいただいて励まされてまいりましょう。

 

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