2010年5月9日 使徒の働き18:1~17
[主の励ましにより]
序文)使徒パウロはアテネからコリントにやってきました。ギリシャの中心にありながら、そこはケンクレア港のあるサロニカ湾、すなわちエーゲ海とラケウム港のあるコリント湾すなわちイオニア海に挟まれた地峡でした。幅は8Kmで、ギリシャを南北に移動する者はすべて通らなければならなかったのです。コリントは「ギリシャの橋」と呼ばれていました。また、そこは「ギリシャの市場」でもありました。人口6万から10万と推定され、アカヤ州のローマ総督が君臨していました。政治の中心地でもありました。さらにコリントは虚栄の市場であり、まがい物の哲学とベニヤ板のような文化を誇り、盛大な商業中心地、豊かであるが、また不道徳で「コリント風に振る舞う」といえば売春を指していました。パウロもコリント人への手紙の中で、教会の中にまで入り込んでいた不道徳を厳しく追及して「前から罪をおかしていて、その行った汚れと不品行と好色を悔い改めない多くの人々のために嘆く事に成らないでしょうか」(第二コリント12:21)と書いています。また、コリントは使徒パウロを最も苦しめた町であり、それだけに最も力を尽くした町でもありました。どのようにして福音のために戦い続ける事ができたのかを、今朝、ともに学び、わが町への戦いの指針とさせていただきましょう。
Ⅰ コリントでのパウロの初戦
先に行ったアテネの伝道は、パウロに対して、過去の栄光の陰に酔い続ける高慢な市民たち大多数の冷たい反応を持って報いられたのでした。一人でコリントにやってきたパウロは、ふところにお金がなく、伝道をするために天幕造りをしなければならず、大都市の腹の中で、さすがに「弱く、恐れおののいていました。」(第一コリント2:3) しかし、神はこの憔悴している使徒に、先週学びましたように「プロスキラとアクラ」という好ましい家庭を用意しておられたのです。伝道と生活資金を稼ぎながら、一番身近にいた二人にイエスキリストの福音の全体を伝え教えつつも、安息日ごとにはユダヤ人の会堂で論じ、ユダヤ人とギリシャ人を承服させようとした。パウロは自分で稼いだお金で伝道したのですが、コリント人の中には「他の教会から奪い取った」(第二コリント11:8)と陰口をきく者がいました。のちにコリントの教会が成立してからも、牧師給を受け取らなかったのに、まだ、「だまし取った」と疑っている人もいました。意地悪な商売人たちは、自分たちが普段していることから類推して、パウロも同類と考えたのでした。パウロはこのような、あらゆる誤解、中傷、つまずきを避けようとして、コリントでは、自分ではたらいたのです。そしてシラスとテモテがマケドニアから下ってくると、パウロはみことばを教える事に専念し、イエスがキリストであることをユダヤ人にはっきりと宣言しました。
なぜ、教える事に専念できたのか。それは第二コリント11:8~9に書いてあります。ピリピ4:15にもあります。ピリピの教会が、パウロのために伝道費、生活費を献金してくれたのです。食料おも持参してくれました。パウロが福音という宝をピリピの教会にあたえ、ピリピの教会は彼を支えるために返礼として献金をして、伝道が続けられるように配慮した。パウロはその配慮を感謝して受け取り伝道を拡大してゆきました。ピリピ1:5[あなた方は最初の日から今日まで、福音を広める事にあずかってきたことを感謝しています。]
支援が到着して、伝道に専念したパウロにたいして、ユダヤ人たちは反抗して暴言を吐いたのです。パウロは着物を振り払って「あなたがたの血は、あなた方の頭上にふりかかれ、私には責任がない。今から私は異邦人の方に行く。」と宣言しました。これほど感情をあらわに、とても激昂したパウロを見る事は珍しいのです。そして、なんと会堂の隣のローマ人でユダヤ教への改宗者テテオ・ユストの家に入りました。会堂管理者クリスポの一家を信仰に導きました。多くのコリント人たちも福音を聞いて信仰にはいりました。バプテスマをうけたのです。
Ⅱ 主の励まし
それでも、パウロは恐れ始め、黙っていたいと思うようになりかけていました。失意に陥るパウロを見るのです。コリントは怪物都市です。その腹の中に飲み込まれそうなパウロをここに発見します。祈られ、支援献金を受け、福音宣教が進展し、信じる者が次々と起こされ、伝道戦線は活気を呈し始めているのです。しかし、パウロは、主イエス様から励まされなければなりませんでした。「恐れないで」とは、パウロが恐れていたからでしょう。「かたり続けなさい。黙ってはいけない。」とは語るのをやめてしまい、だまってしまおうとおもっていたからでしょう。宣教をやめてしまおう。教会をやめてしまおうと、思うパウロの姿をここに見いだします。
パウロの働きへの誤解と中傷と反感は、ユダヤ人を中心に頂点に達していました。預言者エリヤの心境と似ているのです。カルメル山上で、パアルの預言者450人に圧倒的な勝利を収めたエリヤは一人で敵対者イゼベル女王の「あまえのいのちを取る」という脅迫におびえて、ついに自分のいのちを取ってくださいと神に願うほどになりました。ユダヤ人の迫害と反抗は何を次ぎにもたらすかしれない。おまけにコリント教会の強い人々の誤解や中傷は、信仰の弱い人々のつまずきとなって揺さぶりをかけていました。パウロはまだ独身でしたが、現代の牧師たち、伝道者たち、宣教師たちは家族を与えられて同じような戦いをしているのです。その都度、主から励まされなければなりません。そうでないと福音宣教をやめてしまおうと揺り動かされるのです。
主は励まして語られました。「恐れないで、かたり続けなさい。黙ってはいけない。わたしが貴方とともにいる。だれもあなたを襲って、危害を加えるものはない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」
わたしがあなたとともにいるのだ。恐れないで、語り続けなさい。伝道を続ける事の困難と恐怖、語ることの不安と心配は、どのように克服できるのでしょうか。それは伝道をつづけること、語りつづけることにより克服できるのです。ひたすら、みことばを伝え、誤解と中傷とつまずきがあってもやめない。宣教の主イエスがともにいてくださるから。誰も襲って危害をくわえる者はいない。
そればかりか、この町には、わたしの民がたくさんいるから。主の約束は、この町にたくさんの救われる民がいる。選びの民がいる。異邦人救われるものたちは、まだまだたくさんいるのだ。わたしはその者たちを知っている。語りつづけなさい。主は、この町の羊たちを知っており、福音の宣教によって召し集めようとしておられるのである。パウロたちはそのために用いられるのです。
使徒は再び、勇気を回復し、失望落胆の原因は消え、ついに一年半もの長い間、ここに腰を据えて宣教に没頭したのでした。そいてコリントに教会が築きあげられたのです。その会員には、この世でいわれているような、知識人、権力者、高い地位の者は、すくなく、かえって無名で貧弱な庶民が多くいたのでした。
Ⅲ 主の励ましの波及効果
この励ましがどれほどパウロを勇気づけたかは、第二コリント6:1~10に自分がさまざまな状況の中でとった、姿勢についてのべていることから、わかります。それは「この務めがそしられないために!」で一環していました。
和解の使者としての務めがそしられないために、どのようなことにもつまづきを与えないために、パウロが注意した、さまざまな状況での姿勢についてです。
1 「非常な忍耐 ,と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、またむち打たれるときも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも」4~5節
[非常な忍耐]苦難が通り過ぎて行くのを、手をこまねいて、頭をたれて、じっと我慢しているというのではない。苦難を変貌させ変容させてしまうほどに力強く、これに耐える力を指す。勝利に満ちた忍耐をさす。
[悩み] 我々を強く圧迫するもの。人のこころをひしぐ、圧力。重く心にのしかかる悲しみ、生命を押しつぶすばかりの失望、ものすごい圧力を持って人生に迫るさまざまな要求。
[苦しみ]さけがたい人生の重荷。絶対にさけられないどうしても耐えなければならないもの。死への直面など
[嘆き]あまりにも狭すぎる場所を本来はさすことば。人生の窮地に立ち居立った状態。精神的な閉塞感、窒息感を抱いて。閉所恐怖症を起こしており、壁に四方を取り囲まれている。
「むち打たれるとき」肉体的な苦痛、火炎や野獣による苦悶と拷問、むち打ちにたえたクリスチャンたちがいたので、わたしたちに信仰が届いた。
「入獄」パウロの入獄は、最低7回はあったと言われている。ピリピ、エルサレム、カイザリア、ローマで投獄された。
「 暴動」暴民の暴力の前にクリスチャンはしばしば立たされてきた。
「労役」疲労困憊に到るまでの労苦、人間のもつすべてを巻き込む労苦
「徹夜」祈りのための徹夜、危険のために徹夜、不快な状況での徹夜、いかなるときにもキリストのための不寝番がある。
「断食」自分の意志で断食していることでなく、空腹のままに働かなければならない時のことを指す。
2 「純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、また左右の手に持っている義の武器-攻撃用と防御用の武器により、」6-7節 仕えた。偽教師たちは不純で、福音の真理にたいして無知で、少しも実践されることのない知識、忍耐せずにすぐ怒る不寛容で、不親切、悪霊と結託して聖霊の働きを破壊して廻り、偽善的な愛をあらわし、真理の言葉に対して救いからはずれたむなしいことば遊びをし、悪魔の力によりすがり、不義の武器を用いてコリント教会に入り込んだ。
3 8-10節パウロが経験してきた、いろいろな局面や現象は「ほめられたり」「そしられたり」-公民権を停止されることをさす、この世の与える権利と特権をことごとく失ったかも知れないが、神の国の市民であることに変わりはない。「悪評を受けたり」彼の行動のすべてを批判し、名前まで憎む人がいたが「好評を博したり」神様には好評を博している。「人だます者のように見えても」ペテン師といわれているが「真実であり」伝える福音は真実である。「知られないようでも」パウロのことをやくざな奴と言っていたが「よくしられ」パウロの伝えた福音を通して信仰に導かれた人々はよく知っていたし感謝していたし喜んでいた。「死にそうでも」命が脅かされることがパウロの友達であり、死の予感は彼の戦友であった。「生きており」「罰せられているようでも」「殺されず」「悲しんでいるようでも」「喜んでおり」「貧しいようでも」「多くの人を富ませ」「何も持たないようでも」「すべての物を持っている」。
実の対照的な表現の数々がある。神のしもべとしてパウロが一生懸命務めてきた経過の中で、受けた非難の数々、それに対する弁明の実際の姿はことごとく食い違っていた。福音の働き人たちが味わう悲喜こもごもの心境の実体がここにある。わたしも経験は、まだ、たかだか46年間ぐらいだが、アーメンといえます。
しかし、誠実に行動し、喜びの中で伝道し続け、首尾一貫してしもべとしての生涯を突き進むことが、和解の使者の姿勢なのです。
もし私たちが利己的な動機からこの働きに着いているのなら、これらの非難や誤解が襲いかかってくるとき、すぐに信仰を捨て、働きから逃げ、放り出していたことでしょう。パウロは状況がどのようであっても、「自分を神のしもべとして推薦している」と言い切ってはばからない。
Ⅳ 主の励ましの実現 使徒の働き18章にもどりましょう。
コリントのユダヤ人たちは新任の総督ガリオが着任したときに、チャンス到来とばかりに、パウロを法廷に引き出しました。総督がこの地方の事情にまだ詳しくないうちに奸計をはかりました。「この人は、律法にそむいて神を拝む事を、人々に説き勧めています。」パウロが答えようとしたところ、その余裕も与えないで、ガリオは発言しました。じつはガリオはネロ皇帝の教師を務めたストア派の哲学者セネカの兄で、人徳の高い人だったのです。ユダヤ人たちが自分を利用しようとしていることに気がつき、また、パウロたちが罪あたいするようなことは、何もしていないことが分かっていました。彼は訴えを聞いてきわめてスマートに「ユダヤ人諸君。不正事件や悪質な犯罪のことであれば、私は当然、あなたがたの訴えをとりあげましょう。あなたがたのことばや名称や、律法にかんする問題であるなら、自分たちで始末をつけるがよかろう。私はそのような事の裁判官になりたくない。」と,回避してしまいました。問題でない事を問題にしない。これがガリオの姿勢で、公平なローマ執政官でありました。彼は悶着を起こそうとするユダヤ人たちを追い出してしまいました。それで、ユダヤ人といっしょに尻馬にのってきて、当てが外れたコリント市民たちは、会堂管理者ソステネを打ちたたいて憂さを晴らしたのです。パウロはこのことで彼の活動について、ローマ政府の許可をえたようなものでした。たしかに誰も襲ってパウロに危害を加えることができなかったのです。
結び) イザヤ41章9〜13