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2010年7月18日 使徒の働き21:1〜14 「御名のためなら」

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2010年7月18日 使徒の働き21:1〜14  招詞テモテ第二 4:5〜8

「御名のためなら」

序文)使徒パウロたちは、第三回伝道旅行のおわりを思い、エルサレムにかえって行こうとしていました。その途中でミレトの港でエペソ教会の長老方を集めて真剣な勧めをしました。その中で彼は「自分が走るべき行程をはしりつくし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」と、その覚悟を語っていました。その覚悟は、エルサレムに到着するまでに試されたのです。

Ⅰ エルサレムに帰ることの危険性と忠告

第一の試しは、ツロの兄弟たちによって与えられた忠告です。パウロたちはミレトから船出して、ついにツロに上陸しました。そこで、弟子達を見つけだして七日間滞在し、みことばと祈りの交わりをしました。その彼らがパウロと交わっていたときに、聖霊に示されてエルサレムに帰らないようにとしきりに忠告したのです。「示されて」ということばは「よって」というほどの意味です。

パウロと「私たち」、すなわち著者ルカたち一行は、ツロのクリスチャンたちの忠告ではあったが、聖霊がエルサレム行きを禁止したのではなく、危険が待っていると知らせただけであると考えて、エルサレム行きを決行しました。

ツロのクリスチャンたちは短い間でしたが、パウロたちを歓迎して、別れのときには、彼らは皆、妻や子供たちもいっしょに町外れまで送りにきたほどでした。クリスチャンの愛の交わりは、みことばと祈りの分かち合いをともない、聖霊に支えられているので、時が短くても深いのです。普段なら港の大勢の人々がいるところで祈ることなどないかもしれませんが、この場合は、パウロたちの覚悟を分け合って共に、ひざまずいて祈りあいました。これはクリスチャンにしかできない、感動的な別れです。

先に清水ネリダ宣教師と康之兄を成田空港に送ったとき、搭乗口で、見送りにいった者たち一同と祈りました。海浜幕張めぐみ教会での清水ネリダ宣教師のこれまでの奉仕への感謝と、これからの飛行への安全と、シドニーでの出産への守りと、康之兄弟の神学校への入学準備が整うようにと祈りました。そとのとき、私たちの隣りにも同じような宣教師とおぼしき方を送りにきている集団がいて、やはり祈っていました。他にそのようにしている人々がいませんでしたので、クリスチャンたちの麗しい別れの祈りを見て、感動と挑戦をうけます。

パウロへの第二の試しは、カイザリヤのピリポの家でのことです。そこへ預言者アガポがユダヤからくだってきて、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って「この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られて、異邦人の手に渡される。と聖霊がお告げになっています」と言ったことです。パウロのエルサレムでの逮捕と投獄を預言したのでした。ここでもまた、聖霊はエルサレムに行かないようにといったのではないし、また、死ぬといったのでもありません。危険性が告げられたのです。この預言の結果は、「使徒の働き」の後の方に出てきますが、異邦人たちは、ユダヤ人たちがパウロを殺そうとしていた意図に反して、助けることになりました。ユダヤ人たちはパウロを放棄してその手の届かないところに行ってしまうこととなり、結果としては異邦人がパウロを救う事となりました。

でも、この印象深い行動を伴った預言は、カイザリヤのクリスチャンたちにとって、パウロをエルサレムにのぼらせてはならないと理解され、また、今まではパウロについてきたルカたち同行者たちまでもが一緒になって、パウロの説得にあたったのでした。

それはパウロの決心した心をくじくほどに親身であり、熱い涙ながらの忠告となり、引き止め工作となりました。パウロもその忠告に動揺しくじけそうになりました。聖霊による兄弟姉妹たちの愛から、パウロを失いたくないという思いが一方にあります。他方、エルサレムにのぼって使命を全うしなければ、キリスト教会がこれから立ち行く上で、ユダヤ主義者とユダヤ人も異邦人も皆、主の前に同じであるとする福音主義者との間に大きな障害を残したままになる。それで、どのようにローマやイスパニアにまで伝道戦線を広げても、それは福音の内部分裂をもたらす事になる、との深い認識があって、解決を後回しにできない。との責任感がぶつかりあっていたのです。聖霊によるパウロの確信は、「行かねばならない」でした。

Ⅱ パウロの覚悟

パウロは心の中での戦いをへて、覚悟を披瀝しました。「あなた方は泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と申しました。パウロは走るべき道のりを走り抜こうと決心しました。主の御名のためなら。

ここにわたしたちは、十字架を前にされた主イエス・キリストの模範にパウロが従おうとしている事を発見します。マタイ16:2127〜27。パウロは主イエスから託された自分の十字架を負って、主イエスの御名のためにエルサレムにのぼるのです。それは丁度、イエス様が「天にあげられる日が近づいて来たころ、エルサレムに移行として御顔をまっすぐに向けられ」(ルカ9:51)進んで行かれたのと同じでした。

十字架が待っている。しかし、主は、私たちのあがないのために進まれました。ゲッセマネがありました。心乱され戸惑い、この杯を取りのけてくださいと祈られました。しかし、父のみこころのままに、とゆだねられました。

パウロの答えを聞いた一同は、「主のみこころのままに」といって黙りました。何でも、危険を承知で、無謀にも行けといっているのでは決してありません。エルサレムでの働きが、明らかに、主のみこころであると聖霊によって確信させられて、ここまで歩み続けてきたのでした。それをいよいよ最後の段階になって危険があるからといって、パウロでなければ解決できないエルサレム教会でのユダヤ主義者との対決をさけてよいはずはありません。そのような伝道上の出来事とは、使命を全うしようとする責任感、使命感が優先して、瞬間、瞬間をゆだねつつ進む事となるのです。

おおくの 宣教師たち、教役者たち、兄弟姉妹が、今日でも、自分の置かれたところで使命を全うするために、その人だけが負うことのできる自分の十字架を負って、御名のためにすべてをささげて戦っているのです。

 

結び) その歩みの秘訣は

ガラテヤ2:20にパウロ自身の口によって告白されています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられつのです。今、私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」 私たちを愛してご自分をお捨てになった神の御子イエス・キリストを覚えて、その歩みに見習ってゆけるように祈り求めましょう。

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