2010年8月22日 使徒の働き25:1〜27 招詞詩篇11:4〜7
「カイザルのもとへ」
序文)パウロはローマの地方総督ペリクスによってカイザリヤに二年間も囚人として放置されていた。ペリクスについては罪のない人間を犠牲にして、人々にこびへつらう凡庸な政治家以上のことはみつけることができない。このような政治家はいつの時代にもいるので、一般受けしない場合は、決して正しいことをしようとする勇気もない者たちです。
それに比べてポルキオ・フェストは歴史的には仕事について二年後に死んだのですが、その間に次々と積極的に仕事をこなして、すくなくともペリクスとは違って公明正大な人間でした。
Ⅰ カイザルに上訴します。
フェストが着任すると三日後にエルサレムの視察に上り、ユダヤ教権威者たちに挨拶をした。このときどうしてもパウロを殺そうと怒り狂っていた彼らは、フェストを利用してパウロ暗殺の二番煎じを画策した。カイザリヤに幽閉されているパウロを、エルサレムに呼び寄せるようにと軍部に命じてもらいたいと申し出た。福音に敵対する悪魔は、何度でも手をかえ品をかえて迫ってくる.パウロを倒すまではと狙い続けてくる。クリスチャンたちはよく注意しなければならない。
フェストは彼らの申し出に、自分たちと一緒に彼らがカイザリヤにきて正式に訴えるようにと言った。これはローマ総督としてあたりまえの決定であった。カイザリヤに帰るとフェストは翌日裁判の席に着いて、パウロの出廷を命じた。ユダヤ人たちは二年前と同じようにさまざまな重い罪を言い立てたが、いいかげんな思いつきだけの罪状では、何ひとつ証拠を挙げることができなかった。
パウロの弁明は簡単で、明瞭であった。ユダヤの律法についてもローマのカイザルに対しても罪を犯してはいない。
直ちに釈放されてしかるべきである。ところが、フェストは妙なことをいいだした。エルサレムにいって自分の前で裁判を受けることに同意するようにという提案であった。この思いにつきによってフェストもまた、ペリクスと同じ穴のむじなであることを示した。
ユダヤ人のご機嫌を取ろうとしていると、ルカは批判している.
彼は後で、アグリッパに「彼は何ひとつ死罪にあたることはしていない。」と述べているのですから、ここでパウロを釈放しておくべきだった。フェストはここで小細工をしたために。のちに自分から窮地に陥った。主イエス様を裁いたあのピラトと同じように、罪はないといいながら釈放しなかったために、ついにパウロに上訴権を使われてしまった。これはローマ市民の特権であった。パウロがローマ皇帝のまえに上訴するといったので、フェストは、もやは拒否できなし、自分が裁く余地はなくなった。
ローマ市民としてカイザルの法廷に立ちます。エルサレムに行くとその結末は死刑か、途上での暗殺である。あらゆることが後戻りになる。また、このまま何年間もカイザリヤに囚人として留められかねない。フェスト着任は問題解決のきっかけにはならないとはっきりとわかった。
カイザルに上訴することでユダヤ人の手に届かないところで問題は審議される。ローマ皇帝の法廷でキリスト教が審議され、公に伝道することが認められる道を開く。さらにここにいて地方総督たちの政治的なユダヤ対策の切り札にされ続けることを防ぐことにもなる。また囚人としてではあるが、ローマの軍隊に守られながら、ローマまで旅をすることとなる。いろいろと考えた結論が上訴であった。フェストは立会人と審議して、直ちにパウロをカイザルに送ることとした。ついにパウロはローマに行くこととなった.
Ⅱ アグリッパとフェスト
パウロに上訴権を行使されて、フェストが困ったことは、ローマ皇帝に上申する書類を作成して、問題点は何かを明示しなければならなかったことである。フェストは全く困った。問題は信仰上のことであって政治的なことではなかった。死んでしまったイエスを巡る争いであった。イエスが生きているということを巡っての論争に思えた。それにローマ市民であるパウロをそれほど長く入獄させてきたことについて、それ相当の理由書を作らなければならない。
フェストは、そのときちょうど表敬訪問をしてきた、ガリラヤとペレアの領主であったアグリッパ二世とその妻ベルニケに助けをえることにした。自分と違って、彼らはこの道についてよく知っているはずだからである。フェストそれとなくうまく話をパウロのことに向けてアグリッパの関心をひいて、反応をみた。「わたしもその男の話を聞きたい」といったので、すぐに、では「明日お聞きください」といった。
翌日アグリッパとベルニケはおおいに威儀をととのえて、千人隊長たちや市の首脳たちにつきそわれて講堂にはいった。「威儀をととのえ」とは原語で「ファンタジア」といいます。現代では夢、幻をさします。ここではきらびやかなショーを指します。ルカがユーモアを込めて書いたと考えられます。王たちは尊敬を表す紫の衣を着て、ひたいに王の位を示す金色の輪をはめていました。市の首脳陣が囲み、さらにその周りをローマの千人隊長や兵士が扇状に広がっていた。このような陣容の間中に、両手を鎖で繋がれたユダヤ人天幕職人、みすぼらしい格好のパウロが入ってきた。
後代の歴史家は、パウロにこそ焦点を合わせているのであり、アグリッパたちは、ただパウロの演説をきいたことがある人たちと言う評価しかしていません。きらびやかさ、華やかさ、地位、名誉などはファンタジアでしかなく、聞いた福音への受け入れこそが、すべてを決着させる鍵を握っているのです。
この世の夢、幻をきらびやかさの中に、名誉や地位やブランド物などにしか求められない人は、福音において示されている主イエスキリストへの態度こそが、まことに歴史の評価に耐え、神に通用する人生の姿勢であることに気づかなければならない。
Ⅲ 私たちの究極の上訴は主イエス様に
生きておられる主イエスにあって力をえることができる。
パウロが一度口を開いて、主イエスについって語り始めるや満場を圧倒してしまった。それはいみじくもフェストがアグリッパに言ったように「死んでしまったイエスと言う者のこと」で「そのイエスが生きている」という事実についてであった。誰でも、心にキリストを迎え入れるならば、フェストやアグリッパを越えて神の国の民として力をもって人生に対処することができるようにされる。それはキリストがくださる復活のいのちによるのです。
神が味方であるのだから、誰も恐れることなく、その場の状況において立派に振る舞うことがきるようにと守られる。そのことを忘れるならばこの世の勢いに流されて大失敗をしてしまうことになる。私たちが何か法的な事柄で高等裁判所や最高裁判所に上訴することは国民の権利として認められているのです。それを行使することは充分考えられる事です。それでも、いつもクリスチャンとして覚えるべきことは、究極的な上訴はカイザルにではなく、天地の支配者である主イエス様に向かってあるのです。詩篇には詩人たちが沢山の訴えを主イエス様に向かってしています。そして、主は聖徒たちの訴えを見過ごしには決してなさらないのです。究極的に、すでに得られた死に打ち勝った大勝利を全世界、宇宙に実行されて宣言をくだされるからです。
旧約聖書から,新約聖書に登場する聖徒たちで、パウロと同じように、いわれの無い告発をされた方々は数知れません。ヤコブ(創世記31:26〜30)、ヨセフ(創世記39:10〜21)、ダビデ(第二サムエル10:1〜5)、ヨブ(ヨブ2:4〜5)、キリスト(マタイ26:59〜66)、ステパノ(使徒6:11〜14)、キリスト者(第一ペテロ2:12)にたいしてです。それは告発する者サタンが存在しているからです。黙示録12:10〜11「そのとき私は、天で大きな声が、こういうのを聞いた。今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは,小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」
結び)ローマ8:31〜34をもって終わりとします。
では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。