2010年10月3日 使徒の働き28:16〜26
「耳で聞き、心で悟る」
序文)「使徒の働き」の学びもいよいよ終りに近づきました。今朝はパウロ一行がローマ市内に到着して,生活を始めたところです。著者ルカは、教会の始まりに約束の聖霊が降り,福音宣教がエルサレムからはじまり、パウロが、ローマ皇帝のお膝元にまで達したことを書くことで目的を達しました。それでは、最後の段落を今朝と来週「パウロの晩年」に分けてまなびましょう。
Ⅰ 番兵付きで抑留されたパウロ
首都ローマに着いて、百人隊長ユリアスは囚人たちを近衛軍司令官に引き渡しました。パウロについては,上訴中の未決囚人であり、また、船旅の間にどれほど大きな貢献をしたかを報告したのでしょう、また、総督フェストも添文に彼に有利な事を書いたと考えられ,重罪人のような取り扱いはされなかった。番兵付きであるが、自分で借りた家に住むことができ,手首は鎖が繋いであって、外出はできない扱いであった。しかし、人々が自由に彼を尋ねてくる事ができるように計らわれた。破格の待遇で、しかも、ローマ軍の番兵がついているので、突然に敵対勢力に襲撃される事も無かった。かえって安全に保護されているような者であった。パウロはここからピリピ人への手紙を書いているが、その中で「私の身に起こった事が、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいとおもいます。」と書いている。生活に必要な物が、ローマのクリスチャン仲間から差し入れられたと十分考えられます。
Ⅱ ユダヤ人との会見
さて、生活の準備が整い、三日目にはパウロはローマに住むユダヤ人の重立つた人々を呼び集めた。第一回の会見があった。パウロは新しい町で伝道を開始するときは,どこででも、先ず、ユダヤ人から始めるという順序をここでも守っている。パウロが伝道を始めて30年近く、ユダヤ人は彼を悩まし、働きを妨害し、教会を破壊しようとしてきた。あまつさえ、彼を暗殺しようとまでした。その結果、ローマに囚人としてやってきた。皇帝に福音を語るチャンスをそれでつかんだのでもありますが。しかし、彼は同胞に救いを願って、ここでも福音を伝え、愛を示しています。
ローマでは、自分から会堂に出かけて行く事はできない。それでユダヤ人たちに来てもらった。パウロは集まった人々に簡単に自己紹介をしている。ローマに来るお湯になったいきさつを、かいつまんで説明した。エルサレムのユダヤ人当局者の責任については、多くを語らないように留意し、同時に、自分が先祖の律法や同胞の言い伝えを破ったというような覚えはない事を強調した。自分は自己弁護をする立場に立たされており、ユダヤ人の同胞や指導者たちを告訴する意思は全くもっていないと力説した。カイザルに上訴したのも、ただ、自分の無罪を確認してもらうためであった。
彼はローマに囚人としてきたのは、イスラエルの先祖伝来の希望を信じたためであった。ローマでも自分がのべつたえるキリスト教のメッセージは,イスラエルの宗教を覆すどころか、それを神がさだめたとおり成就するものであることを強調した。
これに対して、ユダヤ人たちは,外交辞令をもって答えただけでした。パウロの事件については全く何も知らないし、エルサレムからは何の手紙も来ていない。ローマにきたものたちも何も悪い事は言っていない。ただ、いたるところで非難があることは聞いている。しかしそのような先入観をできるかぎりもたいないで話を聞いてみたい。
ユダヤ人たちはその気になれば,ローマにすでにあるキリスト教会から,メッセージを聞く事はできたのです。それどころか、クラウデオ皇帝の時に、ローマのクリスチャンたちは追放にあったりしているのですから、ユダヤ人たちが,何もしらないはずがないのです。それは彼らがキリスト教にかかわり合いをもちたくなかったからです。しかし、今は、中心人物である、パウロの自己弁明を聞き、メッセージを聞いてから、日頃の自分たちが下した見解を示しても遅くはないと考えていた。
それで、彼らは、徹底的に議論を戦わすために日を定め、その日に集まった。
パウロは朝から晩まで、神の国のことをあかしし、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。パウロが全精力を傾けて説得につとめた。論争は鋭く、火のでるような物であったに違いない。
その結果、「ある人々は、彼の語ることを信じたが、ある人々は信じようとしなかった。」
ローマのユダヤ人居留民団の指導者たちは,福音をめぐって二つの反応に分かれた。信じた者寄り、信じなかった者の方が多かった。彼らは、互いに一致をたもてなくなった。「キリストは自分の民のところに来られたのに、民は彼を受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)
「使徒の働き」の至る所に示されたユダヤ人社会の福音への応答が、ここにも典型的に示されている。信じる者と信じない者が、イエス・キリストの救いのメッセージより分かれるのです。パウロはイザヤ6:9〜10の預言を用いて、こころをかたくなにすることの恐ろしさを警告しました。
聖霊が語られた警告どおり、あなた方の先祖は誤った反応を示しました。だから、あなたがたも注意して,同じ間違った反応、すなわち心をかたくなにする事をしないように注意しなさい。
神様からのメッセージが届いても、耳も目も閉じてコミュニケーションを持とうとする心がないので、聞こえないし、見えないのです。心を閉ざしていると、その人に向けて、神ご自身のみこころがはっきりと示されていても、受け取れないのです。かたくなさとは、そういうことなのです。のちになってから、少しも教えてもらえ無かったと言って、説教者が非難されることが、まま、あります。実は、沢山の事を聖書から伝えられているのです。こころをとざすと聞こえないのです。立ち返る、成長したいと願うなら、神が示されたルールに従わなければなりません。
第二コリント2:15〜17 キリストの香りを会で、いのちにいたるか、死にいたるかは、その人の心が示す反応によっているのです。自分の必要を覚えて必死に福音に聞こうとするなら、かならず満たされるでしょう。
結び)福音は,ローマにおいて異邦人に伝えられることとなることの、はっきりとした宣言が、ここに示されている。神の救いの計画は全世界に向けられていくことが明らかにされた。