2010年11月14日 ルカの福音書 1:26 ~45「信じきった幸い」
序文)キリスト教会の基本信条といわれている,使徒信条で,主イエス・キリストの誕生について「主は、聖霊によりてやどり,処女マリヤより生まれ」と告白しています。私たちの信仰基準であるウェストミンスター信仰告白では、「彼は、聖霊の力により、処女マリヤの胎に彼女の本質をとってみごもられた。」と告白しています。
主イエス・キリストが聖霊の力によって処女降誕されたとの告白の根拠は、マタイの福音書1章18~25節と、ルカの福音書1章26節からに記録されている事実を土台としているのです。
天地の創造主である神を信じるのでなければ、この処女降誕の記録は大多数の人々に取って信じがたいのです。そのためにまじめと思われるキリスト教の学者であっても、つい、この点では不信仰をあらわにして次のように言っているのです。「たとえ、キリストの処女降誕を信じなくても、キリスト教の価値は失われない。キリストの教え、キリストの人格が、感化を及ぼしているのだから、出生の方法など問う必要は無い。この物語は後世の信者が作り出した神話である。」とか、「たとえイエスに人間の父親がいたとしても,聖霊は特別な仕方でその誕生に働いたのである。」
まして、一般のギリシャ、ローマの異邦人読者が、このルカの福音書を読んで、どのような心の反応をしたことでしょう。
では、ルカは普通なら隠しておくか、黙っていたほうが有利と思われる誕生の次第を、なぜ、わざわざ、読者の不信を買うと分かっていても、あえて、書いたのでしょうか。しかも、最初のページにですよ。これ以上ばかばかしくて読めないと放り投げてしまう事だって考えられるでしょうに。
なぜルカは誕生物語を抜きにして、いきなり30年後の公の生涯から書かなかったのでしょう。否、キリストを信じる私たちは、なぜ、劇や、賛美やメッセージで、公に声高に演じたり、歌ったり、伝えたりするのでしょうか。
これはルカが1章1〜4節で申しましたように、「すでに教えを受けた事柄が正確な事実である」からで、この記事の真実性を隠しきれない事実、否定できない真理であるからです。その時代の人々が、何と思おうと、後の時代の人々の不信をこの記事が引き起こそうと,ルカは事実は事実として記録したのです。また聖霊はルカに正確に書とめさせたのでした。
Ⅰ マリヤのとまどい
さて、この処女降誕の信じがたさは、客観的に云々しているよりも、肝心の当の本人マリヤにとってこそ、最大の信じがたいメッセージであったという事を忘れてはなりません。26節以降ザカリヤに現れてバプテスマのヨハネの誕生を告知したみ使いガブリエルは、ナザレの町の一人の処女マリヤに現れて神のメッセージを伝えました。「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(28節)「こわがることはありません。マリヤ 30~33節」
もし、一人の処女がおり、まもなく、結婚式を迎えようとして,準備中だったとしましょう。生涯を自分の夫となる人のかたわらに立って、共に聖い家庭を築こうとしているのです。どのような決意をもってでしょうか。単なる甘い幸福感よりは、厳粛な処女の大決心があるでしょう。マリヤはまさに、そのようにヨセフのために備えつつあったのです。このマリヤに「あなたはみごもって男の子を生む。イエスと名付けなさい」と神は告げられたのです。
マリヤの当惑はいかばかりでしょうか。今まで、聞いた事も、見たこともない事に
、自分が直面しているのです。もし、そのとおりなら、彼女は何よりもヨセフの愛を失うのです。家族や近所の人々からの信望も失います。一生を棒に振ります。いや、婚約期間に他の男によって妊娠すれば、結婚した妻と同様に扱われ姦淫罪として、ユダヤの律法により処罰されうるのです。それにマリヤはまだ男の人を知らないのです。どうしてそれなのに男の子を生むことができるのでしょう。
彼女はみ使いに問いかけます。「どうしてそんな事があり得ましょうか。」マリヤは神に「どうして」と抗議しました。
丁度ザカリヤが「私は何によってそのことをしることができましょうか。」(18節)と不信をもって問いかけたのにつづく神への問いかけでした。
罪深い人間が最初から神の意志に無条件で従えるとは限りません。「どうして?」と問う事はあってもいいのです。少なくとも神はどのような方かを知っているザカリヤと違って、マリヤは「どうして」と問う事は当然です。私たちが、同じ立場になったら「どうして」と問うでしょう。マリヤの神への問いかけはルカの福音書の読者の問いかけでもあるのです。人間の理性、人間の立場から問いかけることあってもいいのです。
Ⅱ マリヤの信頼
神は問い変えに答えられました。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」(35~37節)
1 神の全能の力により可能となる。無から有を造られた天地創造の神の全能によって,神がなさろうとすることにいっさいの制約はない。不可能の制約は、人間の側にこそあっても、神の側には無い。聖霊なる神の力により生まれでる子は聖なる子である。罪なくして生まれたもう子である。
神は人間の問いかけに答えられました。それが神のご意思であること、全能の力によるのだということを。マリヤはその時、人間理性に最後まで固執しませんでした。
神より自分たちが賢く、正しく、力があるなどと考えたりしませんでした。理解を超えた神ご自身の前に、人間に起こりえない事が、神の恵みによって起こりうることに心から同意しました。これは他に男がいたのだとか、後世の神話だとか、あれこれ言い抜けようとするこざかしさ、科学で答えられないと創造の真理よりも科学が上だと考える思い上がりは、このナザレの町のいち処女の信仰にも及びません。
2 神の与えられた第二の回答は「親類エリザベツが妊娠して6ヶ月を迎えているという事実」をみるように!ということです。不妊の女、老年に入ったエリサベツが子を宿している。若くして結婚し老年になるまで子供が生まれなかった。不妊だった彼女が老年になって子供を産むという可能性は全くなくなったと言って良いほどなのに「神にとって不可能なことは一つもありません。」
私たちの考え、私たちの求め、私たちの祈りは、あまりにも小さい、私たちの期待はあまりにも自分によって制限されている。だから、神はわたしたちに創世記の始まりの聖句からヨハネ黙示録の最後の聖句までを示して、神の力を持って働かれたすべての実例を示して、信じ引き上げようとされるのです。
今以上に、さらに、信仰の視野を広げ、今以上にさらに,神の全能の力が、わたしたちを通して発揮されるようにと期待するようにと迫られるのです。
私たちは、この神様の回答に嘲笑をもって応答するのでしょうか。神が歴史の中で示されている数々の実例を、現代的解釈、説明、言い抜けで非神話化という勝手な方法で、亡き者にしようというのでしょうか。
マリヤは信じました。「ほんとうに,私は主のはしためです。どうぞ、あなたのことばどおりに、この身になりますように。」
神の恵みの一方的告知に、身をあけわたして、神のみわざが成し遂げられるようにと自分をささげます。わたしは、主のはしためです。主のものです。おことばどおりにと。この彼女の信仰は、神のめぐみにより与えられたものでした。彼女がすべてのものにまさって神を第一とすることによってなされた、この告白、この献身は,キリストに生涯をまかせて歩クリスチャンの生き方でもあるはずです。マリヤが神を信頼して,身をゆだねたとき、その信仰を励まし、確信づける経験を神から受けました。
Ⅲ マリヤの確信
マリヤはガブリエルのことばにあったエリサベツを訪問しました。エリサベツはマリヤの挨拶を聞いたとき、子が胎内で踊り、聖霊に満たされて大声を上げて預言しました。マリヤが自分にあらわれた天使のお告げをエリサベツに話すときが無いほどエリサベツは直ちに語り始めました。
1 「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。」
このことばは天使が28節で語ったのと同じ内容です。しかも、今はマリヤのお腹にすでに胎の身が宿りつつあると証言しています。
2 「 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。」
マリヤの胎の身は、実に、私の主である。あなたは主の母上だといいます。年老いたエリサベツが,若いマリヤに主の母上と告げているのです。喜びに溢れ心を込めて、自分よりもはるかに大きな栄誉がマリヤに臨んだとたたえています。
3 「 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。」
エリサベツの胎内の子ヨハネが、メシヤの先駆者として、胎内でただならない動きをしめした。それによってマリヤの胎の実がメシヤであることを証言した。
4 「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
そしてマリヤの信じきった信仰を見抜いて幸いだと申しました。
信仰に溢れた魂は、祝福に満ちた魂です。「主のお語りになったことは必ず成就する。必ず実現する。」と信じきったのです。
結び)戸惑うマリヤは神の恵みの回答に信仰を芽生えさせ、エリサベツの告白によって確信へと促されました。そのすべての背後に救い主メシヤを送ると約束し預言された事を、一つ一つ確実に実現してゆかれる神様の誠実さがあるのです。
この神の真実、誠実ということに土台をおいた信仰は、祝福に満ちたものにと飛躍するのです。マリヤの心の不安は一点無くぬぐい去られました。私たちも信じきった者の幸いに共にあずかりましょう。