2010年11月28日 ルカの福音書 1:46~56「マリヤの讃美」B
序文)マリヤの讃美は、彼女の深い謙遜と、清らかな慎みをもって、神が自分の内になさった大きいことを思い、喜びを込めてささげられました。継いで、50節から、彼女は神がすべての人々の中に、すなわち今でも私たちの中になしておられる大いなるみわざと、そのお心を歌います。そして、この後半は、きせずしてイエス様のご生涯を指し示す預言とも成っているのです。
わたしたちは、ルカの福音書を学び進めるに従って、イエス様が成し遂げられたお働きを、ここに読み取ることができるのを発見します。
マリヤの分類に従って人間を見るときに6種類の存在があるのです。主を恐れかしこむ者、低い者、飢えた者、心の思い高ぶる者、権力ある者、富む者であります。そしてそれぞれに対応して、神は6つのわざをなさいます。
そこで今朝は神様が私たち人間に対して行われる、お働きを
大きく三つに代表させて学び、神をかしこみおそれることの重要性に心を向けたいと存じます。
Ⅰ 神が私たちのためになしたもう第一のこと
1 51節イエスさまは「心の思いおごり高ぶる者を追い散らされます。」
このことは知恵めぐってなされます。ここで知恵というのはすべての人が満足と自負と誇りを感じるような高貴な賜物です。それには、霊的賜物の一切を含みます。判断力、理性、才智、才腕、義、徳、善ということばで、現されている内実をさします。
知恵はないよりもある方が良いと一般に考えられています。人間がお互い同士の間で優劣を競い、子どもたちは知育偏重の社会体制の中で偏差値教育に苦闘させられています。一つの分野に秀でることは高く評価されます。まして様々な分野に秀でるマルチ人間として立てる人は、その賜物を広く高く強く発揮します。ところがこれは人を危険におとしいれるのです。おうおにして最も自信の強い人は、其の人格を変えてしまい、最も傲慢な人に育ててしまいます。最も強情な人をつくります。これは危ないのです。自分は事柄をよく知っている。自分は正しい。このような自負心、他の人よりも樫木のだとうぬぼれます。神は、そのような者を追い散らされるのです。旧約聖書の中の知恵者で一頭地を抜いていたソロモン大王は、知恵を求め、知恵に従って生きるようにと述べて、数々の箴言を残し、伝道者の書には「今や、私は前より先にエルサレムにいた、誰よりも知恵を増し加えた私の心は多くの知恵と知識をえた。」(伝道者1:16)と書きました。その彼が一番大切なこととして言明したことばは「主を恐れることが知識の始めである」ということだったのです。このことを抜きにした知恵と知識は風を追いかけるようなもので、無駄な努力で、人生の真の意味をとらえることはできないといっています。それどころか、知恵がおおくなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す、ともいっています。どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の苦労もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく非常に悪いことだ。(伝道2:21)
自分としては最高の知恵知識才能、判断力をもって、みのらせたものを後継者がおろかであると、すべては水の泡となる。引退した後に一生の苦労が水の泡となるのを見ることほど耐えられないことはない。
人間の世界で知恵を巡って大切な点は、すべての善きものは、神から来る。神がわたしに知恵を恵もうとされるときは、それを受け取り、その同じ私たちから知恵を奪われるときはさらせるのです。このことを心に留めているかどうかが分かれ道でしょう。真理は神のもので、神が人にそれをお与えになるのです。そのとき人は神を恐れ敬い知恵の源であるお方にあって、それを100%生かすように生活するのです。どのように賢い人でも老年になると、神がその知恵を奪われることが起こり、人は子どもに帰るのです。しかし、神がその知恵を奪われないまま老年を迎える人は、80才でも90才でも現役ということも起こります。ようするに人間は自己の才能、自己の知恵、自己の霊的な賜物さえも、神が与えられるので増し加わり、神が奪われるので断念するという心を持って、主を恐れかしこんで歩むならば、神の憐れみは子々孫々、代々にわたって下されるのです。
Ⅱ .神が私たちのためになしたもう第二のこと
52節イエスさまは「権力ある者を王座から引き下ろし、卑しい者を引き上げられます。」権力ある者とは「すべての主権、身分の高貴と人がいっているもの、友人関係、位、栄誉を総括しており、さらにすべての権利、自由、便益、およそその中に含まれるすべてのもの」をさします。
神にこそ一切の主権の源があり、それぞれは自分に託された領域での主権しかないのです。権力ある者が、その威力と主権をたのみ、下にたつ義しい謙虚なものたちに傲慢な振る舞いをします。そのために低い者たちが害悪を受け苦痛にみまわれ、死およびあらゆる災いを受けねばならないとき、神はこれを引き倒されるのです。
歴史の証言によれば権力ある者が、その頂上にたっし、極限まで至るときに、彼らの内に絶対主権者である神が認められなければ、自分の存在を消滅させる方向にまっさかさまに落ちることを示しています。
アッシリア、バビロニア、べルシャ、ギリシャ、ローマ、中国、日本、ソ連、ルーマニア、ドイツ、どの国の統治者であっても、皆、例外ではありません。
これに比べて、神は低い者を高められる。世の見栄えのない者、無に等しき者を高められるのです。マリヤは自分のような者を高めてくださった神をたたえているのです。キリストの前に立つとき、この世の地位やレッテルは何の主張もすることができません。ありのままのはだかの人間でしかないのです。イエスさまが、この地上にこられたのは、すべての人の救い主としてであります。イエスさまの目には、身分の高い低いでなく、一人の人として神の子たちとして覚えられているのを忘れてはなりません。
Ⅲ 神が私たちのためになしたもう第三のこと
53節イエスさまは「飢えているものを良いものであかせてくださいます。富んでいる者を空腹のままで帰らせられるのです。」「富は健康、容姿、財産など外的な財物のすべての総括をさします。」ここでは富そのものが攻撃されているのではありません。アブラハムもイサクもヤコブも当時の世界では富める者でありました。聖書で富むことが罪だとは言われていません。要は、富みを得ているが、これにすべての価値をそそぎこんで、自分の欲望を求め、執着し、神の代わりに富みを据えるときに、ほろびを招くのです。
神は心を量られます。外形や貧しさ富みによって裁きません。その中でどのように心を処して生活しているかで、さばかれるのです。富みだけを求めて生活している者は、そのときに自分が全然、神の判定基準に通用するような生活の仕方をしてこなかったことに気がつくのです。
イエスさまの前に立つとき、富をまかされたものは、それをみ国のためにどのように用いたか、ほどこしたかが問われます。飢えているものが空手で帰らせられることがないためにです。たしかに人間のまことの養いが、神の口からでるみことばによるのであるとき、み前にひざまずくものらは飽き足りるようになり、神の恵みを押し返すものは、空虚な日々を歩み続けるでしょう。
そういう意味では、飢えている者とは、単純に食物をわずかしかもたないものというのではないのです。働ける知恵と体があるのに、なまけていて、飢えているものことではない。自分の悪業の結果、飢えを招いているもののことではないのです。自分から神のゆえに欠乏を忍ぶ者や、真理のために他人に暴力をもって迫られ飢えに陥れられている者などのことです。エリヤはケリテ川のほとりで、飢えをしのび、神につかわされたカラスによって食物を得ました。ようするにどのような分野であっても、人が神ご自身によりたのみつつ生活しているなら、その者の飢えを見過ごしになされない。
結び)神はこのように知恵や権力や富をめぐって、ご自信のみこころを一人一人に実行されるお方です。神にその源のあることらを、人が正しく受け取り、用いることをするとき、それはその人の祝福となるが、誤用し神を退け誇り高ぶり、むなしくようするとき、わざわいとなります。人間の力が強大になり一杯にその堤がふくれあがるとき、神は、み腕をもって、そのつつみに穴を開け、一切を空に着せられるのです。他方神を恐れ敬うものの生涯には、憐れみが代々にわたって注がれて日々に生活の再生を経験させ、全生涯のおわりまで堅く支え保たれるのです。