2010年12月26日 ルカの福音書 2:21~40「イエスの初詣」
序文)イエス様が生まれて、八日目に両親は幼子に割礼を施し、命名をしました。これはユダヤ人にとって神への絶対的な義務で した。「八日目には、その子の包皮の肉に割礼をしなければならない。」(レビ記12:3)ことの起こりは神様からアブラハムに向けて命じられていました(創世記17:9〜14)。これは厳しく要求されていました。神の契約の子としてのしるしをつけることだったのですから。
もしこれをしないならば「契約の子でなく、破滅の子に」属することであるとまで言われていました。
イエス・キリストの誕生は神様の側からの出来事としては、罪のもとにある人類の救いのため、律法のもとに生まれさせるということでした。それですから、天の父は、み子に律法に従わせるために両親が割礼を施すようにと導かれ、きよめを行うことを望まれました。「律法のもとにある者を贖いだすために律法の下に生まれさせた」(ガラテヤ4:4〜5)。
両親は、神のみことばに忠実にしたがったのでした。名前は、天使がマリヤの母の中にまだあるときに、告げた通りに「イエス」とつけられました。この名前は人の意思によってつけられたのではなく、神の命名であった。ヨセフとマリヤは「イエス(ヤアウエは救いであるの意)」と名付けることで神に命令に従った。カルバンが次のように言っています。「私たちの信仰と、神のみ言葉の一致は、神がはじめに語られ、次に私たちが従う、つまり、神の約束に対して私たちの信仰が応答する」という順序が大切である。
Ⅰ 22〜24節 幼子を主に捧げるために、神のみ前にでる
幼子は生後40日目に母とともにきよめの儀式をしなければならない(男子は40日、女子は80日)。また、初子で男子だった場合は、神に聖別してささげることもしなければなりませんでした。
1 きよめのことは、人間の誕生では、アダムの堕落以来すべてが罪の汚れを負って生まれてくる。いわば罪の腐敗を受け継いで生まれてくる。エペソ2:3では、生まれながらの「怒りの子」です。この汚れはきよめられなければならない。結婚も分娩もそれ自体決してけがらわしいものではない。しかし、人間が受け継いできている原罪は非常に深いもので、すべての人は罪のなかに生まれた。イエス様は十字架の上でわたしたちのために呪われる者となってくださったのです。本来は「傷もシミもなかった」(第一ペテロ1:19)のです。しかし有罪宣告を受けている、私たちの汚れを、私たちのためにご自身の上に引き受けてくださったからです。つまり、あらゆるきよさの泉である方が、私たちの不潔を洗いきよめるために、ご自身は汚れ、汚れた者と見なされることを選ばれたのでした.
2 次に初子で男子は主に聖別された者と言われています。
ヨセフとマリヤは信仰のつとめとしてこのことも果たしました.
イスラエルの歴史においてエジプトの400年間の奴隷生活に終止符をうち、脱出した夜に、天使がエジプトの初子をすべて殺した時、イスラエルの初子男子は死を免れた。この贖いを記念して主にささげられなければならなかった。「初子はすべてわたしのものだからである。エジプトの国でわたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは、人間から初めて家畜にいたるまでイスラエルのうちのすべての初子をわたしの者として聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主である」(民数3:13)。後になって初子はある値積もりで買い戻すことができた。これは古い儀式であった。
今は、主はすべての人々の贖い主であるから、最も小さい者も、最も大きい者も、主の民として私たちを保持する権利を持っておられる。ヨセフとマリヤは神に命じられている事柄に従った。信仰の歩みは自分たちの思いつきでするのではなく、贖い主の命じておられるところに従うということが大切なのです。
3 両親が捧げた犠牲は「山鳩一つがい、または家鳩のひな二羽」でした。律法は「全燃の生け贄として、一歳の子羊を一頭と、罪のための生け贄として家鳩のひなか、山鳩を一羽を会見の幕屋の入り口にいる祭司のところに持ってこなければならない。」(レビ12:6)と決めていた。しかし、羊を飼う余裕がないばあいは、「二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽を全燃の生け贄とし、一羽を罪のための生け贄とする。」イエス様の生まれ育てられた家庭は非常に貧しい家だったのです。それは少しの贅沢も赦されない家で、その日、その日を暮らしている家で、家族が皆生活の困難を知っており、不安を経験している、そのような家だったのです。イエス様が成人に達する迄、このような中に育たれ、ヨセフ亡きあとは、家族を育てる責任を負われたことを覚えることは、貧しい私たちへの励ましとなりましょう。イエス様の両親は貧しくても決して神様をないがしろにしませんでした。自分たちの能力に応じて、心から神様への責任を果たしたのでした。今日でも、神は多く託された者には多くをもとめ、少なく託された者には少なくもとめ、「こころ」をご覧になっていることに代わりはありません。イエスのご両親のこころを、私たちも見習いましょう。
Ⅱ 25〜35節 シメオンの祝福
エルサレムの神殿にヨセフとマリヤがイエス様を伴って上ったとき、この幼子を迎えた二人の敬虔なお年寄りがいました。その一人はシメオンでした。敬虔な人でイスラエルの慰められるのを待ち望んでいました。祈りと礼拝の中につつましく救い主の出現を待ち、出会う日まで、死ぬことはないと聖霊に示されて忠実に待ちつづけていました。そして彼は神の示しどおりに、今、救い主イエス様に出会ったのでした。その時代、ほとんどすべての国民が、神を冒涜し神に対してよこしまな軽蔑の念があふれていたのに、ごく少数の者たちが、神を畏れ敬い仕えていたのでした。そしてイエスをその幼いときから知っていました。シメオンは聖霊に導かれ、丁度、キリストが両親に抱かれて神殿についたとき、出会うようになった。彼は幼子を腕に抱き喜びに満たされ讃美します。「29〜32節」。聖霊に感じたとはいえ、また生後まもない幼子を見て、救い主を見たと告白できるのは、神のなさることへの長い期待と信頼があったればこそです。幼子の初めをみて、その終わりをここに讃えています。私たちは幼子ではなく、すべてを成し遂げ天におられるキリストをあおいでいるのですから、シメオンにまさる満足と讃美を主にささげねばなりません。
シメオンはすべての民がキリストの恵みに与るように、神がそなえられたと歌うことによってキリストの支配の広がりを示しています。腕に抱いている幼子を見てかれは世界の果てにまで心を広げました。すべての国民に及ぶめぐみを感じとりました。今日、キリストはまさに全世界にご自身を表しておられます。多いに主をたたえましょう。
暗黒の中にいた異邦人を照らすキリストをたたえ、また、イスラエルの人々の栄光となるキリストをうたいました。異邦人である私たちは、もともと、神の子とか、割礼の者とか、初子とかよばれた選びの民イスラエルと違っていました。しかし、神の救いのご計画がよりはっきりと示され、イスラエルを通して、救いの恵みは異邦人にもおよびました。キリストが義の光となって、私たちを照らしてくださることこそ、喜びを持って受け入れるべきメッセージです。
この「幼子」に「救い」を見いだせない人は、(34節)倒れます。神がその人を裁く前に、自分で自分を裁いているのです。イエス・キリストをどのように見るかによってです。そして、多くの者は倒れます.またある者は立ち上がります。イエス・キリストを迎え入れて、死からいのちへと立ちあがるのです。
シメオンは幼子の道を予言しました。それは苦難の道です。イエスは反対を受けるように定められている.母マリヤは剣で胸を刺し貫かれる、と語られます。イエスを前にすると人々は受け入れるか、反対するかのどちらかに立ちます。多くの人々は反対にまわり、イエスは受難のメシアになると語られています。主の払われる犠牲はこのことばどおり多大なもので、罪のための血の代価として十字架にいのちを支払われ、母マリヤは十字架のもとに立って、胸を刺し貫かれたのでした。
異邦人の光として、キリストが照り輝くとき人々は、自分の内にあるすべてをあらわにしてゆくのです。心からこの救い主を受け入れるものは、その輝きに包まれて、主による救いの完成を喜びます。しかし、そうでない者は、この光が十字架からさすことに嫌悪して、教会が十字架を負わねばならないような場面に遭遇するときには、後ずさりして逃げ出し、その心をあらわにするのです。あなたはキリストを信じて立つ者であってください。
3 36〜40節 アンナ
さて神殿でイエス様を歓迎したもう一人の年寄りは,84才の女性
アンナでした。彼女はやもめでした。若い時の7年ほどの結婚生活の後、この歳まで宮を離れず夜も昼も断食と祈りとをもって神に仕えていたのです。
年老いてなお、望みを失わずにいました。歳をとれば体力は衰えます。そして心の中の望みの泉もおうおにして枯れてゆきます。うつろになりやすいし、愚痴の多い日々となります。これを防ぐには神をどのようなお方として受け入れているかによるのです。
アンナは女預言者として、神殿にて神に仕えつづけていました。同じ神殿でシメオンに出会って救い主の誕生まで、自分は死なないというあかしを聞いたことでしょう。彼女の信仰は84年間の生涯の苦しみ悲しみいたみを乗り越えさせて、望みをさらに強くもたせたのです。
そして、ついに、救い主をその目で見たのです。待ち望む信仰は、ついにそれを得たのです。エルサレムの中の救いを待ち望んでいた人々に、このお方のことを語り聞かせたのです。寛恕の仕事は、ここに成し遂げられました。救い主を待ち望み指し示す働きが、ここに感謝をこめて成就したのです。シメオンの働きアンナの働きは若々しいバプテスマのヨハネによって受け継がれ、今日私たち信じた一人一人に受け継がれているのです。
結び)私たちは救いのわざを成し遂げられたイエス様を迎え入れました。人々に指し示し語り伝えます。84才といえどもなお、そうします。まして若々しい一人一人が日々に第二第三のシメオン、アンナになれないはずはありません。聖霊のお力を受けて、つつましさの中に敬虔に忠実にみ前での生活をおくりましょう。
異邦人を照らす啓示の光、主イエスを受け入れ、倒れる側にではなく、立つ側に歩みをつづけましょう。
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