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2010年3月7日 使徒の働き 16章19~40節  

2010年3月7日 使徒の働き 16章19~40節

聖書の話 「100307_001.mp3

序文)パウロとシラスとテモテとルカが伝道したピリピの町で、ルデヤという神に敬虔な女性が主イエス様を救い主と信じた。その家族も信じて共に洗礼を受けました。次に占いの霊に取り憑かれていた女奴隷が、主のみ力によって、その悲惨な生涯から解放された。さまざまな人生模様の中で、一人一人救い主イエス様を必要としていた。そして救いに与かった。今朝は、ピリピの牢獄の看守が救いに与ったことをまなびます。その出来事のきっかけと進展、看守の悔い改めと家族の救い、パウロたちの釈放の順で見ましょう。

Ⅰ 出来事のきっかけと進展

ピリピの看守と家族全員が救いに与ることとなったきっかけは、パウロたちが役人に捕らえられて投獄されたことにありました。何故投獄されたかというと、占いの霊に憑かれていた女奴隷が主イエスの名によって救いをいただいて悪霊から解放されたために、その主人たちがもうける権利を失ったことに怒って役人に訴えたからでした。女奴隷が悲惨な人生から解放されたことを喜ぶのではなく、何でもお金に換算して損得しか考えない人間の悲惨がここにあります。行政の長官たちも、商売人の訴えを鵜呑みにして、パウロたちをユダヤ人と決めつけて、取り調べもせずに何度も鞭打ってから投獄したのでした。まるでユダヤ人浮浪者のように扱ったのでした。自分たちの社会の平和を乱し、違法な宗教活動をして異なる風習や結社を造ろうとしていると勝手に判断した。ローマ市民がユダヤ人の宗教宣伝で大損害を被ったと解釈した。このような奴らには分限をわきまえさせ、痛い目に遭わせて思い知らせなければならない。これ以上損害を社会に広げないようにしなければと長官たちは早々と行動に移った。

パウロとシラスはユダヤ人の風貌をしていたが、ルカとテモテは違っていたので、逮捕されなかったかもしれません。パウロにとってこれから後の生涯で、たびたびある投獄の初めての経験となりました。投獄されたけれどもパウロとシラスは、夜中に神の祈りつつ賛美を歌っていた。看守から見ると二人はあまりにも他の囚人たちと違っていた。普通なら鞭に打たれて痛みがずきずきしてうめきながら、むち打たれたことを恨みに思って暴言を吐いた可能性があるのに、賛美を歌っている。彼らはなんという者たちだろうか?他に囚人たちも祈りを聞き賛美を聞いている内に、心から驚き、尊敬をしていたことが、後でわかります。

折から、突然,大地震が起こり獄舎の土台がゆり動き、扉が全部開いてしまった。皆の鎖も解けてしまった。囚人たちにとって逃げ出す最善のチャンスが来た。しかし、彼らは逃げ出さなかった。パウロたちの祈りに神が答えたのかもしれない。あるいはあまりにも驚いて逃げ出すことも考えられなかったのかもしれない。実際はパウロとシラスが囚人たちの逃げ出すのを留めていた可能性がある。

パウロたちは獄屋の中の主導権を握っていた。あのエジプトに売られて獄屋に投げ込まれたけれども、看守の信頼を得ていたヨセフのように。

看守は囚人が全部逃げ出したと思いこんだ。この場合、ローマの看守は責任を取らせられて、家族追放と財産没収は当然として、すべてを失うこととなった。もはやこれまで。自害しようとした。人生には自分の計算外の事が突如として起こるのです。予定外であり、しかも一挙に窮地に追い込まれるのです。大地震は看守の心身共に大いに揺り動かした。まさに驚天動地!獄屋の外から獄中の暗闇をのぞき込んでいた看守が、突然自害しようとしているのを、暗闇の中から入り口の明るいほう見ていたパウロに目に飛び込んできた。パウロは間髪を入れずに「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる!」と大声で叫んだ。

Ⅱ 看守の悔い改め

看守は明かりを取り、暗闇の中に走り込んだ。たしかに扉は開いているが囚人は全員いた。彼はパウロとシラスの前にひれ伏した。二人を外に連れ出した。「先生がた、救われるためには何をしなければなりませんか。」と尋ねた。二人の背後にある権威と力を感じた彼は、「囚人」と呼んでいた二人を「先生」を呼びかけている。伝道者と認めた。彼は救われるためにと、問いかけた。驚くべき出来事に遭遇して、死を覚悟した。その後に、彼は魂の奥深くからの叫びを思わず発したのでした。彼は今のままの自分であってはいけないと感じ取ったのでした。

人間は自分の回りでこのような心身を揺り動かすような大事件に遭遇しますと、自分の魂の奥に何があるかを気づかされるのです。人生観が変ったという声をよくききます。このような状況で、自分を支えるものが何もないと感じ取るのです。救われなければならない。私は救われなければならない。パウロはすぐに答えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます。あなたもあなたの家族も!」

救われるために、主イエス・キリストを信じなさい。このお方の上に自分の全人生をお任せなさい。自分の全人生を預けるのです。信頼するのです。信用するのです。その人は救われるのです。

あなたの家族も救われます。このことばはあなたが信じるなら自動的にあなたの全家族も救われると言っているのではありません。

「あなたの家族」これはあなたが家長として、形成している家のことです。父、母、兄弟、姉妹などは、あなたの父の家といわれています。あなたの父の家は、その生活様式を父が決める権威をもっています。息子、娘が一人クリスチャンになって、家族の信仰をキリスト教に変えようとしても、とても困難で、必ずしも成功しません。あなたが家長であるなら、あなたが信じた信仰によってクリスチャンホームを形成する権威をもっているのです。家族は救われる最短距離にいます。自分たちの子どもを神の約束の契約の子どもとして、育てる特権を父親はもっています。ですから、あなたが信じるなら、あなたの家族も信仰に導かれて救われるのです。未婚の男女のクリスチャンは、クリスチャンとの結婚を聖書が命じていることを重大に思い実行すべきです。あなたの家族の救いを願うならそうしなければなりません。

パウロのこのことばは正確に訳すなら「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます。あなたもあなたの家族も。」です。家族も主イエスを信じるなら救われるといっているのです。誤解しないように。

そこで看守は自分の家にパウロたちを引き取りました。打ち傷をあらい、家族全員でパウロの話す福音を聞きました。そして信じたのです。家族そろって洗礼を受けました。家族そろって主イエスを信じたことを心から喜びました。全家族が渋々お父うさんが言うことだからと聞いたのではありません。こころから喜んだのです。強制的ではなく、子どもたちもできる信仰の決断です。複雑なことは分からなくても主イエスを信じることはできます。「主の御名を呼び求める者は誰でも救われる」のです。

Ⅲ パウロたちの釈放 35〜40節

長官たちはパウロを一晩留置しただけで釈放しようとしました。正式な裁判をしないで懲らしめとしてむち打ち、留置しただけなので、簡単に釈放しようとしました。その旨、看守を通じて伝えさせました。

パウロはここで、このような処置の不当性を訴えました。私たちはローマ市民である。ローマ市民は特別な保護が法律的に与えられていました。むち打ちや、十字架刑のような重い刑罰は免除されていました。明らかに長官たちは重大な過失をおかしました。

長官たちはこのことを伝え聞いて恐れました。パウロたちが上級審に訴えてでたら、自分たちの首が危ないのです。地位を失うだけですまないかもしれません。彼らは自分たちでパウロの所に出かけてきました。丁重にお詫びをしました。二人を外に出し、町から立ち去ってくれるようにと懇願しました。たとい彼らがローマ市民でも、自分たちは責任をもって守ることができないと感じていたからでしょう。また、追い出すことはもはやできません。お願するしかありませんでした。

パウロたちは長官たちに対して、ローマの市民権を行使して、クリスチャンたちを故なく迫害したり、ローマに取って害ある存在であると決めつけたりしないようにと、少しは悟らせることができました。さらにもっと大事なことは、パウロたちが立ち去った後に残されたピリピの教会を長官たちが少なくとも不当に危うくするのを少しは阻止できたことです。

政治的な義務を果たす者たちは、権利も要求できるのであって、何も恐れることなく必要ならば堂々と権利を行使しても良い。それが他の聖徒たちの益になることであればなおさらである。一部キリスト教を自称しているものたちが、政治的なことがらと関わらないことを信徒に要求して、権利と義務の行使を禁じているが、それは聖書の読み違いです。カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返すのです。地上に生かされている間は、その領域に置いて、それぞれの関わりがあるのです。主イエスご自身、ユダヤ人として生まれられたので、誕生から死にいたるまで、市民律法を完全に守られた生活をなさいました。それは天の父から遣わされた使命を達成するという宗教的側面だけはなかったのです。

結び)主イエスの恵みが、看守の全家族に及んだ摂理は、私たちの目には不思議な導きであります。何がきっかけになるかわかりません。しかし、伝える側、あかしする側では、常に今が恵みの時という祈りと自覚を保ち続けることにより、家族に救いが及ぶ幸いを信じ

期待しましょう。天の御国に召される寸前まで、地上のどこかに国籍と住居をさだめて生活していますので、地上生活についても責任と義務において、真実に忠実に神の民としてのあかしを続けましょう。

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