2010.8.8 ヨハネの福音書21章1-8節 「ペテロ・挫折からの回復」
序)人生を懸けて転職をし、主人であるイエス・キリストに3年間寝食を共にするほどに打ち込んできたペテロが、大失敗と失望落胆と大挫折を味わいました。元の職業に戻ってしまったのですが、それも効果がありませんでした。今日たべる物がなにのです。無駄骨の徹夜仕事となりました。わたしたちは,そのような経験がないでしょうか。パテロは、どのようにして回復できたのでしょうか。
Ⅰ 「私は漁に行く。」
ペテロが一生をなげうってでも従おうと決めた,肝心の主人イエス様が十字架に死ぬことになりそうなのです。イエスにとっては、エルサレムで過ごした最後の一週間は、受難と死と葬りと復活の週でした。でも弟子たち特に筆頭と自負していたペテロにとっては試練と混乱と絶望に満ちたものでした。未熟な霊的状態で、消化しきれないほどに大切な教えを集中的に受けました。ほとんど理解できないでいました。おまけに仲間のイスカリオテのユダがイエス様を裏切り、敵側にお金と引き替えに売り渡しました。主イエスが捕らえられ、目に見えるユダヤ王国再建設の夢はついえ去り、不正な裁判の後、主は十字架にかけられ、無惨にも息を引き取られたのです。今度は自分たちが殺される番かもしれないと恐怖心が襲ってきました。
この世でのペテロの立場は、人望あるラビ(教師)の弟子から自分を救えなかった自称救い主、詐欺師集団の弟子たちの筆頭となったのです。思っていた人生が悪い方向に大逆転したのです。エルサレムの大都会で、痛ましい異常な興奮状態と大挫折を経験しました。ペテロと仲間たちは、そのような経験の後、自分たちのかつて住み慣れた故郷ガリラヤへと帰りました。
静かな故郷ガリラヤ湖の情景に心いやされ、食物をえるためとはいえ、昔ながらのなれしたしんだ、漁師生活に復帰しました。慰めと休養を覚えたことでしょう。ガリラヤ湖はまた、ペテロはじめ弟子たちが最初に主イエスによって召され,人生の大転換をした場でもありました。人生の再出発をしたスタート点に戻ったのです。
シモン・ペテロは一緒にいたものたちに「私は漁に行く、一緒にどうかね」と提案しました。彼らは今日の食べ物をえるためにも、昔の漁師生活に戻らなければなりませんでした。彼らは主イエスに従い、全時間を伝道生活に費やしていましたから、財産を溜め込み土地や家を自分のために手に入れ、どのような場合になっても悠々と生活できるような状態にしておくなどとは思いもよらなかったのでした。主イエス・キリストの12弟子に特有な貧しさの中にいました。
彼らは夜どおし漁をしました。湖の上で7人の弟子たちは何を考えていたことでしょう。網を入れても、入れても魚一匹捕れないのです。ペテロは全くの徒労に終わろうとしていた漁をしながら、そういえば前にもこのようなことがあったなあ。主イエス様に従い始めた頃だったと、思いおこしていたのではないでしょうか。(ルカの福音書5:1-11)あのときは、主イエス様が現れ、おことばどおりにしたとき大漁だった。シモンは自分の罪深さを悟らされた時だったのでした。
過ぎ去った3年間を走馬燈のように思いだし、いったい我々は何を得たのだろう。期待したものは何も得なかった。確かに主はよみがえられたけれども、どこに行ってしまわれたのか、目の前にはおられない。だから、それでどうなるというのだ。結局は主の弟子といわれるよりは、漁師のままでいたほうが良かったのではなかったか。この田舎町ガリラヤだったら、自分たちの思うままに考え信じ行動し、毎日漁に明け暮れる生活で何不自由なく過ごしておれる。家族も一緒に生活を続けられる。それに比べ、主イエスの弟子だったときは、こうはいかなかった。かえって重い責任を負わされ、他の人々のことをのべつ考え、支援し、行動し、個人的な自由もなく、あげくのはてに,十字架に懸けられて主は死んだ。ひょっとして自分たちのいのちもねらわれかねない。主イエスにならって取り去られるにちがいない。
失望や挫折は、人を過去を楽しみ、現在を悔やむ思いに追いやり、とめどなく溢れ出て、妄想に近くなってしまいます。
皆さまも自分の生活の場で、自分の仕事の網を用いて夜通し働いても、何も取れなかったことがあったでしょう。それまでのことが徒労に終わったと判断するような日を迎えたことがないでしょうか。一生懸命打ち込んで仕事をしたのに、何の結果もえられなかったばかりか、挫折感だけが残っているという経験をした事があるでしょうか。ペテロはその夜、何も取れなかったのです。
Ⅱ 復活の主の顕現 4-14節
実は、死からよみがえられた主は、明け方のガリラヤ湖畔に立っておられました。昨夜からのシモンと弟子たちの行動のすべてを知っておられました。彼らを失望と大挫折の歩みから、回復させて、以前主イエスに従って転職した彼らを、もう一度、力強い、新しい現実生活に招くために立っておられたのです。主イエスは「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」と言われました。それがペテロの目に見える現実だったのです。パテロは、声をかけた人のことを湖に朝の散歩に来たか、漁を見に来た人ぐらいに思っていたのではないでしょうか。それにしては自分たちが魚一匹取れなかったことをどうして知っているのだろう。なんの用事があって呼びかけてくるのだろうか。不審に思いつつ「はい。ありません。」と答えました。
そうしたら、この方は「船の右に網をおろしなさい。そうすれば、取れます。」といわれた。見物人がプロにアドバイスをしたのですよ。「馬鹿にするな」とおこられてもし仕方のないことでした。しかし、驚くべき事に、ペテロたちは網をおろした。何しろこのままでは、食べる物がないのですから。残った力をだして、もう一度網をおろしました。その結果は、魚が153匹も取れて網が引き上げられないほどであった。弟子たちはただちに何が起こったのか分かった。ペテロは「主です。」と言った。シモンは日常生活の現実の直中に復活の主が働いておられることを悟った。彼らが見ている現実でなく、よみがえられた主が見ておられる現実があった。よみがえられた主とともにある現実は、そうでない現実と、如何に違うことでしょうか。よみがえりの主を意識しない現実生活は、徹夜の末の実り無き人生を暗示し、共におられる主を意識する生活は満たされた人生を暗示しているのです。
陸地には炭火と、その上に載せた魚とパンが用意してあった。主イエスはご自分でそれらを手に入れて弟子たちを招かれた。それは一夜の心労から解放し、大挫折感から回復させ、主にみことばに従うなら、全てをこのように整えると言うことを確信させるためでありました。失望している彼らの身も心も気遣ってくださっているのでした。初めの御国建設への召命に堅く立ち将来の働きに召される主の豊かな、良く、手の届いた配慮を知ることが出来る。以来、もはやペテロたちは、主イエスを疑うことは全くなかった。復活の主は、今もあなたの現実生活の中に働いておられるのです。
Ⅲ 「わたしの羊を飼いなさい。」再召命
イエスは朝食が済むとリーダー格のペテロと話し合われました。それはペテロの内に潜んでいる主イエスへの熱愛を奮い立たすような、また、そこにいた全ての弟子たちの心に同じ効果を持つようにもくろまれた話し振りでした。全員に話しは聞こえました。ペテロに直接語りつつ、全員が応答するような問いかけでありました。
あなたにも主は問いかけておられるのです。「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロの全てを見抜いた万感こもった問いかけでありました。かつて一番大切なときに三度も主を知らない、無関係と否んだ彼に問いかけました。いままでの私たちの信仰生涯でペテロ同様に、主を知らないと言ってしまった経験のある方にも、よみがえりの主は問われます。「あなたは、この人たち以上にわたしを愛しますか。」ペテロには三度問われました。私たちには、幾度、問われることでしょうか。200回も300回もかもしれませんね。主を否んだ数に応じて根気よく問われることでしょう。主への真の愛の回復のために。その自覚の深まりのために。今後どの様なことがあっても主への愛を裏切らないように。「わたしの小羊を飼いなさい。」
ペテロを初め、弟子たちは初代教会の指揮者、宣教の指揮官、宣教師となって世界に向かって遣わされました。復活の主は、彼らの少年期の信仰を卒業させ、青年期をへて成人の域にまで成長させるために、主の羊を彼らにお任せになりました。責任を免除された立場から、影響力と責任と権威を有する立場へと導き、大胆で、智恵と啓示の霊に満たされた者へと変えられました。臆病で主の教えや行動を事毎に誤解し、自分に関わる摂理を受けとめられないでいたペテロの生涯は変わりました。まるで芋虫がさなぎからアゲハチョウになったほどの大変化でした。
結び)復活の主に従う心をもつものは、失敗と失望と挫折の人生から回復させていただき、人生の目標を再び立て直して、力と智恵を与えられて、歩みます。主からそそがれている愛に,自分からの愛をもって応答する人生は、絶えずリニューアルさせていただけるように,よみがえりのいのちがそそぎ込まれる人生なのです。
今夜も、よみがえりの主は、招いておられる。「あなたは、わたしを愛するか。あなたは、わたしに従いなさい。」