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2010.9.19 使徒の働き28:1〜10 信仰のいのり

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使徒の働き28:1〜10

序文)パウロと同船していた一行276人は、みな無事に陸地にあがった。そこはマルタ島であった。イタリア半島の崎に三角の形をしたシシリー島があり、その南95km先にマルタ島があった。面積240㎡であった。結果的に、パウロたちはこの島で3ヶ月間過ごすこととなった。

Ⅰ 毒蛇の害から逃れたパウロ

島の人々は、とても親切で、次々と海からずぶぬれであがってくる囚人や、兵隊や、水夫たちを迎えて、たき火を用意してくれた。おまけに雨も降り出し、一行は寒さに震えていたが、たき火はありがたいことであった。ぬれた衣服を乾かし、暖まる幸いは、何にも代え難い励ましとなった。あちらこちらにたき火が用意されたが、きっとたくさんの薪が必要だったろう。

このようなときパウロはじっとしている人間ではなかった。傍観者としてではなく、自分から率先してたき火に柴をくべて働いた。心の大きな幻を持って神の国のために考え労苦する偉大さを持っていたが、同時に非常に実践的な人でもあった。もっとも重大な事のために労しつつ、もっともささいなことにも自分を役立てようとし、それを少しも恥としなかった。些細なことが積み重なって、大きな事が成り立つこと、小事に忠実でなければ大事も実行できない事を知っている人物であった。

さて、パウロが柴をくべたとき、火の中からまむしが熱気に燻りだされて

きて、パウロの手に取りついた。彼は少しも騒がず冷静にそれをふりほどきそっとしていた。

所がそれを見ていた島の人々は、パウロがよほどの極悪人で、正義の女神が。海の嵐からいのちからがら逃れたこの男を、やはり見逃したりしないで、ここで、毒蛇にかませて裁きを下したのだと考えた。そして、たちまちにして彼が倒れるか、身体が腫れ上がって気分が悪くなって呼吸困難が起こるのではないか、急死するはずであると、じっとパウロの様子を見ていた。

いっこうに変化の兆しが見えないし、パウロが何事もなかったかのようで平気でおれるのは、普通の人ではない。この人は神さまかもしれないと言い出した。

これは、どういうことなのか。聖書学者たちが一致して指摘していることは、主イエス・キリストが復活の後、弟子たちを全世界に派遣されるときに、預言されたことがらが、パウロに置いて成就したことの証拠として、ルカガ書き留めたのであるということです。マルコ16:15-18。

 

Ⅱ 癒しの働きをするパウロ

さて、そうなると、次に記されている島の首長ポプリオの父の癒しの働きも、主がパウロを遣わされた証拠として記されている戸考えて良いのです。

島の首長とは「島で第一の人」という獄で、公式な呼び名で在ったと考えられています。ポプリオは彼らを三日間もてなしたほどの親切な人物でありましたが、その父が「マルタ熱」という山羊の乳のなかにある細菌から発生する熱病に苦しみ、おまけに赤痢のような症状を呈して苦しんでいた。パウロはこれを聞いてでかけてゆき、ポプリオの父が、誰の名前によって直されたを知ることができるように、神に祈りを捧げてから、彼に手を置いてなおした。神は使徒パウロを通して働かれた。

このニュースが島中に伝わり、他の病人たちも次々とつれて来て直してもらった。この直してもらったということばは「医者の手当てを受けた」ということばでもあります。それで、パウロのいやしの賜物に加えて、医者ルカも治療に尽力したと考えることができます。

その結果、彼らは「私たちを非常に尊敬し、私たちが出航する時は、必要な品々をお結いしてくれた.「尊敬し」とは「謝礼」を「意味する場合があり、病気を治してもらった人々が、謝礼を出し、また品々も含めて出したというように理解することができる。

ここに今日の医療伝道のはじめの形をみることができます。

教会的な病の者への祈りについては、ヤコブの手紙5:13-16に記されているところに従って、原則を多いに応用する必要をおぼえます。

*   まず 病気の人は、祈りのうちに主を呼び求めましょう。

*   そして、教会の祈りを自分のためにもちいましょう。病気は、信者としての霊的な部分と関係があり、いやしと同様に重要なことだからです。すべての病気が個人的な罪と関係があるとはかぎりません。しかし、もし、その人の病気の理由が、密かな罪と関係がある場合、教会の長老たち(複数)による祈りは、言い表された罪の許しのために力があります。その人は、ただちにいやされるでしょう。そのようにしないで、医者のところにいくら通っても、いやされることはないでしょう。

*   さらに医者に相談することには正当な理由があります。聖書は教会に患者を診断する権限を与えてはいないのです。教会の指導者が病気の性質を決定する資格をもっていることは、その人が医者でない限りはありません。

*    さて神は病気が治りますようにとの信仰の祈りを聞かれますが、医者を用いて治すこともその中にはいります。例えば、食べ過ぎたり、飲み過ぎたりして、お腹をこわした者に、医者は食事制限と、食生活の健全化を忠告して治そうとします。暴飲、暴食の者を神が治すために奇跡を行わなければならない理由はありません。本人が食習慣を罪深い方法から健全に変れば治るからです。

*    クリスチャンドクターが多いに必要とされています。魂とからだとの健全なバランスあるいやしのために、共に働くことができれば、それはすばらしい医療伝道となることでしょう。

 

Ⅲ 治されない場合について

さて、神はパウロを通してマルタ島で、主イエスの御名と、その福音が持っている救う力を証明されたわけですが、パウロ自身にかんしては、その病んでいる肉体をいやされませんでした。第二コリント12:7-10。三度もパウロはいやされるために祈りました。神は「私の恵みは、あなたに十分であるというのは、私の力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われた。パウロはほかの人は神の力をいただいて治しましたが、自分は治されなかった。神の恵みが彼にはすでに十分だったからだというのです。

良くにたことで.重大な出来事として、私たちは主イエス・キリストが、十字架の上で、私たちを救うために死んでくださったが、自分自身を救うことはなさらなかったし、また、神も助けられませんでした。このことを覚えることは深い示唆をあたえます。自分は病気で治ることはないが、他人のために信仰の祈りをささげて、なおりますようにということは、パウロや主イエスさまの模範に習ってすばらしいことです。

結び)神の賜物である恵みのはかりは、それぞれに十分であります。病気を治していただく必要のある方には、そのような祈りが聞かれるでしょうし、十分と神が判断された場合は、そのまあまで、地上生涯を全うして御国の完成に入れていただくことでしょう。いずれにしても、十字架の贖いのうちに、主イエス様の救う力をいただいている今であることを深く感謝したいと存じます.

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