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2011年12月4日 クリスマス待降節 ヨハネ1:1〜3「ことばは神であった」

2011年12月4日 クリスマス待降節 ヨハネ1:1〜3 讃美歌54番94番99番

「ことばは神であった」

序文)ここ数年間、クリスマスシーズンの礼拝説教箇所は、ルカの福音書とマタイの福音書にほぼ集中していました。今年はヨハネの福音書1章に焦点を合わせて説教いたします。救い主イエス・キリスト様が、私たちの内に住むために誕生してくださいました。救い主が地上に誕生される前は、どのような存在であったのでしょうか。そもそもの根源は、どこにあるかを、1章の書き出しで教えています。

Ⅰ 1節 初めにことばがあった。

「初めに」とヨハネは書き始めました。「初めに」ということばに、聖書を読み始めた方が、最初に出会うのは、聖書の巻頭です。「初めに、神が天と地を創造された。」(創世記1:1)とあるからです。圧倒的な天来の宣言です。聖書の神が私たち人間に自己を啓示するにあたって、ひと言葉ですべてを言い表されたのです。全宇宙の根源に関わる深淵な宣言です。同様に、三位一体の御子の存在の根源がヨハネの巻頭で宣言されています。この「初めに」という言葉の前にすべての存在はひれ伏さなければなりません。

この「初め」は、時間の始まりではない。時間がまだなく、永遠だけがあった。その「初め」に「ことば」(ギリシャ語ロゴス 英語:大文字のWORD)があった。

「ことば」は永遠存在である。天地が創造される前からあった。当時のヨハネの福音書の読者たちが理解できる表現「ロゴス」(ことば)をヨハネは用いました。それは、ギリシャ文化の中に生活していた人々に、救い主を紹介しようとしたからです。「初めにキリスト(ギリシャ語)がいた。または初めにメシア(ヘブル語)がいた。」と書いたとしたら、読者のほとんどはユダヤ人ではなかったから,意味が通じなかった。既にクリスチャンになっている人々は理解できた。しかし、ヨハネが読者として想定していた世界の人々には通じなかった。それで、ヨハネは、「ロゴス」を用いた。ロゴスは「ことばという概念の背後にある知性、観念自体、またその観念を伝達しうる表現を含んでいる。ロゴスは、この時代のギリシャ哲学、ことにストア派の人々の述語として用いられていた。世界を統制している理性、すべてのものを支配し、すべてのものに意味を与え、すべての者に浸透している精神を意味した。ロゴスはあの究極的な神と呼ばれている知性、理性、あるいは意志の最も純粋で,最も統括的な概念の一つであった。」(新約学者メリル・テニー)。

さて、文脈から、わかることですが、「ことば」はイエス・キリストを指します。14節「ことばは人となって,私たちの間に住まわれた。」とあるからです。

救い主は、神の叡智と永遠の意思であり、神の生きた姿である。神は永遠のことばを通じて、自分自身とその思いを私たちに示された。

 

Ⅱ 「ことば」は、どのような面を備えているかをヨハネは示して、重大な使信を伝えています。それは七つの面がある。今朝は五つを学びましょう。

1. 「はじめにことばがあった。」

ロゴス即ちイエス・キリストは永遠に存在し、あらゆるものの先にあった。

(永遠性と先在性)

すべての時間に先立ち、限定できない永遠存在である。測ることができない過去を指して、ロゴスが,ある特定の瞬間に存在するようになったというのでは断じてない。ロゴスは常に永遠から存在していたことを伝えている。

主イエス・キリストは天地が創造されたとき、その瞬間からおられるようになったというのではない。イエス様が次のように祈っておられるのです。「今は、父よ、みそばで,わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたその栄光で輝かせください。」(ヨハネ17:5)

2.「ことばは神とともにあった。」ことばは永遠の人格があった。「ともに」(ギリシャ語 プロ)は神「に向かって」という動きと交流を表すことばです。ロゴスは,神と永遠の交わりを楽しんでおられた。そのような人格的交わりを持つ方である。神と同一水準にあり,神と交流しておられる。生きていて、理解力があり、活動的な人格である。ここでは、神(み父)とともにあったみ子が、父と等しい栄光をもち,永遠のみいつ(御稜威)を持ち、永遠の交わりを持っている事が示されている。

 

3 「ことばは神であった。」神の性質をもっていた。

ここのギリシャ語は「神 セオス」に文法上の冠詞がついていない。「神とともにあった」には、冠詞がついている。文法上の区別がある。それは冠詞がないばあいは、個別性、即ち人格性としての神に強調点がある。冠詞がある場合は、性質に強調点がある。ロゴスは神性であったといういみです。神の性質を持っている。主イエスは完全な神ご自身であり、神性に関しては、み父と等しく、同質である。

 

4 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」

ことばは、すべてのものの創造者である。ことばが,神とともにおられてなさった事柄が書いてある。どのような行為をなさったのか。それは万物の創造をなさった。神とともに共同で創造をされた。すべてのものです。「全宇宙」物質のすべて。「我々に似るように人を造ろう」と言われて、アダムを創造されたときに

「われわれ」のなかに「み父」「み子」「聖霊」がおられる。

「この方によらずできたものは一つもない。」の「できた」は「存在するようになった。」を意味している。すなわち、無から有への推移という意味を含んでいる。

「できた」という動詞の時制(テンス)は、アオリストと言います。それは過去形をさしますが、過ぎ去った時間とは無関係に起こった事をさします。つまり、過程(プロセス)ではなくて、「出来事」を意味するのです。この時制をもちいて、ヨハネは、創造の事実に関心を集中しているのです。彼は創造の方法を伝えようとしたのではありません。「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの,地にあるもの,見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:16)

「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」(ヘブル1:2)

世界は存在の根拠を、御父と御子と聖霊に全部負っているのです。

5 ことば(ロゴス)はすべての霊的いのちと霊的光の源泉です。(4.5.9節)

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」霊的いのちは創造の背後にある原動力を表しています。いのち(ギリシャ語ゾーエー)は名詞として36回もこの福音書に表れています。その内、11回は「永遠」という形容詞と結びついています。その意味は「人間存在のうちに表現されている根源である神のいのち」です。このことばが、いのちの源であり、その具体的現れであるロゴスと関係づけることにより、明確にされているのです。いのちは宇宙における効果である光ということばで表されています。光りは,ヨハネの福音書で「神の義のあきらかな現れ」を指す言葉として比喩的に用いられています。(ヨハネ3:19,20,21。12:35)これは創造の最初の結果が、光であったことと関係があります。ロゴスのいのちが現れる時には、光明をもたらします。主イエスから永遠のいのちをいただいた者は、その心に光りがかがやくのです。

 

結び)地上にお生まれくださった御子イエスさまは、永遠から神の御子でした。神と同等で、同質の存在でした。ご人格を持っておられて、三位一体の第二人格でした。御父と聖霊と親しい交わりをもち、愛の交流がありました。全宇宙を創造されました。私たち人間も創造しました。この神の御子が、永遠の栄光を地上に来る前は輝かしておられたのです。クリスマスは、そのすべてをおいて、貧しく卑しく、私たち罪人の中に生活するために,救いのみわざを成し遂げるために人となってくださったのです。

どれほどの感謝と賛美をささげても足りないほどです。ヨハネが知らせたかった栄光の主の本来の姿をしっかりと心に留めておきましょう。

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