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2011年4月10日「受難への三つの準備」マタイ26章 1〜29節

2011年4月10日 「受難への三つの準備」 マタイ26章 1〜29節

序文)受難週からイースターに向かって、私たちの霊的そなえのために、マタイの福音書から当分学びます。今朝の箇所は、受難に向かわれる主イエスの三種類の準備段階が掲載してある。

A 敵対者によるイエス殺害の準備・ユダの裏切り 1〜5、14〜16節

B 愛している者によるイエス様葬りの準備 6〜13節

C イエスご自身の準備(過越の食事) 17〜29節

 

A 敵対者によるイエス殺害の準備・ユダの裏切り 1〜5、14〜16節

Ⅰ さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスを騙して捕え、殺すことができるだろうかと懸命であった。 彼らは「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していた。

1 祭司長、律法学者たちは当時のユダヤの当局者たちでした。彼等は始めからイエス様に敵対していました。つい最近も教えのことで長い論争をイエス様に挑みましたが破れました。そのために彼らは二つの事を決めたのです。

⑴ 策略をもってイエスを捕らえて殺そう

「騙して捕らえよう」と書かれています。「詐欺、偽りによって」という意味です。彼らは今までイエス様の行動と主張のどの点からも合法的に訴える口実を見つける事が出来なかったのです。イエス様には罪も過失も見つけられなかったのです。後の裁判でも、主イエス・キリスト様が死刑に処せられたのは、決して自分の罪のためでないということが明らかになりました。

⑵ 「祭りの間はいけない」祭りの後でなくてはならない。過越の祭りはユダヤ最大の祭りでした。エルサレムから24km以内に住んでいるすべてのユダヤ人の男子は過越の祭りに来ることが義務づけられていました。それよりもさらに遠くの地方から外国からも大勢の人々が参加しました。祭りの間はすべての宿舎は無料で、人々の感情は非常に高まり、エジプトからの歴史的解放の記憶が呼び覚まされ、現在の支配国ローマ帝国からの解放を求めさせたのです。民族的感情が強められていました。こういうときに民衆に良く知られ人気のあった、イエスを不正に逮捕したりすると反乱の騒ぎを誘発すると、当局者達は危惧したのです。騒ぎを起こすとローマの駐留軍が出動し総督にらまれることをおそれたのです。政治的打算だけで、祭りの間はいけないと判断したのです。

2 ところでイエスさまは自分の死を予告しておられたときに、あなた方は知っている通り二日の後に過越の祭りになるが、人の子は十字架につけられるために引き渡されると言われたのでした。祭りの間に事は起こると言われたのです。

敵対者は、死刑は祭りの後でと考え、イエス様は祭りの間だと言われた、このような奇妙な死刑はかつてあった試しはない。たんなる殺人死刑ではなかったことを思わなければなりません。

 

3 殺す側と殺される側の両者の間をうめたのが、14-16節イスカリオテ・ユダでした。

なぜ、ユダが裏切ったかの聖書の説明

さて、ユダは12弟子に加えられた時に、初めから裏切るために弟子に加えられ、邪魔者であったように考えられがちですが、そうではありませんでした。ユダは主から会計係を命じられていました。取税人のマタイも会計能力は優れていたのです。でも彼よりも更にユダの方が優れていたのでしょうか。少なくとも仲間は彼の会計係としての仕事に全幅の信頼を寄せていました。責任感も強かったのです。少なくとも最初は注意深く、有能で、事務的で、その上、正直だったのです。そうでなければ誰が会計係を任せ、自分たちの財布を全部あずけるでしょう。彼の示した信仰は、多くの弟子たちよりも優れていました。主イエス・キリスト様が5000人に給食をした奇跡に後で、大勢の弟子たちが立ち去って二度と行動を共にしなかったときにも、ユダはペテロと共に踏みとどまって12人の中にいたのです(ヨハネ6:60-71)。主イエス様が彼を12弟子の一人に選ばれたのは、他の弟子たちを同じように十分にご自分のメシアであることの証言者として可能性があると考えられたからでした。前途有望な高い理想を持っていた人だったのです。主はユダを12弟子(使徒)としてお選びになったのです。裏切り者として選ばれたのではありません。ユダは裏切り者として歩みだすことを自分自身で決定して選んだのです。

その彼がどうして主を裏切るようなことをしたのでしょうか。その理由として、聖書の一貫した説明は、彼の貪欲が裏切りまで走らせたと単純に説明しています。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」(マタイ26:15)ユダが主イエス様を祭司長・律法学者たち、当時の国会議員(サンヒドリン)たち敵対勢力に密通すると、礼金を出すことをマルコ、ルカの福音書は書いていますが、マタイだけは、実はこれは、ユダが催促し談判をした結果であると書いています。礼金と言うよりもユダの貪欲から出た結果であると記しているのです。マタイが主の弟子になる前に、取税人として貪欲に駆られて生活していたことを覚えてください。そこから足を洗った人物だけにユダの心の動きがよく分かったのです。どの時点でかは誰にも分かりません。ユダは自分で最初のこころざしを捨てて、貪欲の罪にはまり、自分の運命を自分で決めたのです。罪のない人の血を売る事を決定したのは彼自身でした。

 

B 愛している者によるイエス様葬りの準備 6〜13節

1 主イエス・キリストがベタニヤで病人のシモンの家にいました。

ヨハネ12:1-8によれば、そこに、ラザロ、マルタ、マリヤの三兄弟姉妹もいました。主イエス・キリストの弟子達も皆いました。マルタが食事を整えて心配りをしてもてなしていました。その中でマリヤは何かがかけていると感じました。

彼女は高価な香油を主イエス・キリスト様の頭にそそぎかけました。ヨハネの福音書にそう書いてあります。大変高価で300デナリ以上すると言われています。今の一年分の給料に相当するのです。1デナリが一日の労働賃金だったからです。

マリヤはこれによって 飲み食いの場に神的な香りをみたしました。主イエス・キリストさまは、このことを  今まさに十字架にかかろうとしている自分への葬りの用意であると受け取られました。この記事は、ユダのどん欲に対比した、著者マタイの熟慮の配列です。

ところが、この有様を見ていた弟子達が非難しました。「何のために、こんな無駄使いをするのか。それを高く売って貧しい人達に施すことができたのに」とマリヤの行為はそばで見ていた人々(常に傍観者から出る言葉です)には、大変な浪費とうつったのでした。「むだにする」とは、必要以上を与えることです。あまりにも小さなものに、あまりにも多くを与えることです。弟子達は、主イエス・キリストに対するマリヤの奉仕を「むだ、もったいない」というのです。この出来事の後でユダは主イエス・キリストを銀貨40枚で敵方に売り渡しました。

このような意見は世間の代表的な意見で「信心もほどほどに、そんなに入れこんではいけない。クリスチャンになって、人生を無駄に過ごしてはいけない。クリスチャンでなければ出世するのに。日曜日ごとに集まるなんて時間の浪費である。」クリスマスとイースターと特別な時だけ行けばよいのだ。献金をそのようにするのも無駄だ。そのような大金を使うなら、社会福祉にでも寄付したらいいのに。

何事であれ、主イエス・キリストのために熱心に仕えることは無駄であるという考えです。しかし、もしわたしたちの主が、それに値するおかたであるなら、世間がなんといおうが問題ではないのです。ことがらは優先順位の問題です。

第一に、神様はあまりにも罪深い人生を送っているわたしたちのために、ひとり子主イエス・キリストをくださって十字架の上で身代わりのいのちをささげてくださったのです。

無駄というならこれほどの無駄が他にあるでしょうか。自分のいのちを、罪深く自分勝手な道にさまよっている者のために注ぎ込む、これほどの無駄はない。マリヤは愛する主イエス・キリストの頭に一年分以上の価値ある香油をおそそぎしました。神様は敵対し、罪にさまよっている者達のために最愛の御子をささげてくださったのです。これほどのむだはないのです。

この主の愛に答えようとしているわたしたちにとって、主にためにささげるすべての心遣い、働き、捧げものが無駄というようなことは一つもありません。主はいわれました。「この女のするにまかせよ。」真に主イエス様の愛を知るものは、主に対して良くしすぎるということは全くありません。常に足りないぐらいです。いや程遠いのです。

2 主イエス・キリストの答え

「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」という主イエス様の答えは、マリヤのことを弁護されて、喜んでおられる。主は、わたしたちの奉仕やささげものを一律に機械的に評価なされずに、その場、その時の動きや事情をくんで、最も良い意味で正しく受け入れてくださるのです。レプタ二枚をささげものとした貧しいやもめの献金に最高の価値を認められたのです。その同じ精神でささげられた愛の300デナリ以上の価値ある香油を、また喜んで受け入れてくださいました。数量ではなくて、そのささげた心、態度です。主に向かっている心の状態、キリストへの愛の多少によって価値づけられています。愛に動かされたものが精一杯、いな、力以上に、主と教会に愛を注ごうとするのです。「愛の浪費」が見られるのです。

主への愛は良いことばかりでなく、美しいこともするのです。良いことだけを見るならば食卓をにぎわし、もてなすだけでもよかったでしょう。しかし、何か欠けていると感じたマリヤがその美しいことを表したのです。

真の愛は、その得失を計算しつくしたりはしません。そのもつすべてをささげ全世界を与えても、なお、足りないと思うでしょう。

また、愛はそれを行う機会が一回限りしかないことがあります。何か素晴らしいことを主のためにするように心を動かされていながら、しないままで終わってしまうのは、人生の悲劇です。このマリヤのような人が大勢いれば教会はよほど美しい世界に転じるでしょう。

貧しい人々を助ける働きは常に実践されねばなりません。しかし今主が十字架に向かっておられるというときにだけ、なすべきことがありました。マリヤはそれをしたのです。葬りの用意だったのです。マリヤは知りませんでした。しかし主はご存知でした。わたしたちが知らずに行ったことで重大な神のわざをしていることがあるのだなあとわかります。

主は「あらかじめ」とおしゃいました。復活の朝、主の体に香油をぬりにいった女性達は、目的を果たすことができませんでした。肝心の主が復活されたからです。だから、たった一人マリヤだけが、あらかじめ葬りの油を注いだのでした。教会の歴史にとって「丁度今」でないと、主のためにできないことがあります。後ではもうチャンスがないというような奉仕もあります。

13節「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、」

主のための奉仕は、主ご自身に仕えることから湧きでます。この女のしたこと、そして、私が喜んだことが、語り継がれる。主イエス・キリスト様が全面的に彼女を受け入れてくださったことを忘れないようにしましょうこの人の記念となるでしょう。」長く記念されると語られました。主がこのように喜んでくださった。主のために良きことをしよう。美しいことをしよう。

C イエスご自身の準備・過越の食事に関わる準備 17〜29節

1 過越の食事の場所 17節 弟子達が過越祭の記念の食事をどこに用意したらよいでしょう?と問いかけました。イスラエル民族が昔400年間の奴隷生活に終止符を打った出来事を記念して過越の食事を家族そろって取るのが、祭りの中で一番大切な出来事でした。食事のすべての部分は、神がその民をエジプトの奴隷から自由にし、解放された偉大な日を物語っていました。

さて、今や、世をその罪から解放される方が、弟子達と共に地上最後の晩餐の席に着こうとしておられるのです。弟子たちは尋ねました。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」主イエス様は言われました。「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。」マルコ14:13 「その人がはいって行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言いなさい。するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」

「水がめを持っている男」とは、当時、水汲みは女性の仕事で男は決してしない仕事でした。街の中でその男は特別めだったのです。イエス様は前もって過越の食事をする場所を用意しており、そこを貸してくれる家のご主人とわかりやすい合図を決めておいたと考えられます。イエス様は準備を良くなさる方だったのです。自分の身代わりの死のために。どれほど積極的に事を運ばれようとしておられるかがわかります。私たちはしなければならないことを間際までしないで、あわてることが多いのですが、神の国の働きのために、このお心を十分に汲み取る必要があります。

 

2 20〜25節 愛の訴え

ユダヤの日にちの数え方は夕方からはじまり朝でおわりました。創世記の記述どおりです。午後6時までは過越の準備の日で木曜日でした。夕方から金曜日がはじまったのです。「イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」

イエス様が十字架への準備はやがて起ころうとしているユダの裏切りをご存知でありました。彼に立ち返る機会をあたえて、警告をされました。弟子たちは衝撃をうけました。呆然としました。やがて、「まさかわたしではないでしょう。」と矢継ぎ早に言い始めました。弟子達は自分自身さえも信頼できなくなっていました。誰もユダを指さして彼ですかと言う者はいませんでした。他の弟子はまだユダを疑っていませんでした。信頼していたのです。イエスはユダが反省して極悪な行為を思いとどまる事を願われたのです。イエスは「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」と答えられました。 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」食事は共通の鉢からとられて、出席者は皆、そこに手を浸していたので、誰だと特定することはできなかった。もし、ユダが裏切り者であると率直にいわれたのなら、ユダが無事に妨げられることなく、そこから出ることはできなかった。弟子達がそれを赦すはずは無かった。主は警告されましたが、ユダを強制されることはなさらなかった。それは人間に自由意志を与え、その行動に責任ある存在とされた事によります。神は人に自由意志を与えられました。神の愛は私たちに訴えます。神の真理は警告を与えます。これをはねのけ拒否し、反逆するものは当然自由意志決断の責任を神の前にとらなければなりません。私たちの罪に対して、人間は 自分で責任を負わなければならないのです。それは負いきれないほどです。だからこそ主イエスは代わりに負って贖ってくださるために身代わりの死を遂げてくださったのです。ここには受難物語の最大のバラドックスがあるのです。神の主権的計画と人間の責任とのパラドックスです。

すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが偽善的に答えて言った。「先生。まさか私のことでは無いでしょう。」イエスは彼に。「いや、そうだ。」と言われた。この記事はマタイだけが書いているのです。これは非常に個人的な会話であったと考えられます。他の弟子達が気づかなかったのです。ユダは「先生(ラビ)」と言っているのです。「主よ(キリエ)」と言っていないのです。マタイの福音書では、他の弟子達は、主に向かって「ラビ」とは誰もいっていません。ユダだけがいったのです。イエス様は、直訳「あなたがそういった。」と答えました。

3  26〜29節 「主の晩餐について」

主イエス様が十字架にかかられる金曜日が始まる最後の晩餐の席上で、私たちが聖晩餐といっている事柄を制定されました。主のご命令としての大事な礼典について信仰の目を持って受け入れてまいりましょう。

イエス様はパンを取り、祝福して後、これを裂き弟子たちに与えていわれました。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

パンはイエス様のからだを象徴しています。パンが裂かれることは、イエス様のからだが裂かれることを指し示しています。それは十字架上でおこります。死を意味しています。同様に弟子たちに与えられた杯も、イエス様の流される血を指し示しています。契約の血ですといわれました。多くの人のために流されるものですといわれました。

ですから聖晩餐は、私たち罪人のためのキリストの死を指し示すシンボルなのです。「あなたがたのために与える、わたしのからだです。」ルカ22:19とはっきりといわれています。教会はこのことばを霊的な意味をしめしていると取っています。パン=文字通りキリストのからだ ではなくてパンはあくまでパンであるが、それはキリストのからだを示すシンボルである。

聖晩餐式はいっさいがシンボルなのです。私たちに見えないある実体の見えるしるしなのです。十字架の上でキリストがかつてしてくださった身代わりの死をしめし、現在も信じる者のためにしてくださっている事柄のシンボルなのです。この神聖なシンボルを理解する上で最上の道は、聖餐の二品が分配されている間、陪餐者は主と交わり、みことばについて黙想し、感謝や祈願をささげるようにすることです。その光の神秘をもって敬虔に黙して見つめることで聖霊はあなたの中に主の臨在をお示しになります。

すべては霊的に(すなわち聖霊によって)であって、しかも現実に実際にキリストの贖いの祝福が、与えられ、養われる。「すなわちこれは神の隠れた不思議な力によってなされるのであり、また神の霊は聖餐にあずかるきずなであり、この理由によってそれは霊的と呼ばれるのである」(カルヴァン)。

 

「多くの人のために流される契約の血です。」第一コリント11:25「新しい契約です。」神様は、私たちの罪を贖い、信じる者に救いの恵みを与えると約束してくださった。旧約聖書にしるされた罪の赦しのためには、至聖所の祭壇に年一度大祭司が身代わりの子羊の血を携えて注ぎかける儀式は、新約聖書の主イエス・キリスト様の血が私たちのために十字架の上で流されること、それは天に有る至聖所に注がれることを意味していました。

聖晩餐は、契約の主であるキリストが用いてくださる恵みの手段である。これによって、キリストは、ご自身の民が、御霊によって栄光のキリストに結び合わされていることと、キリストにあってお互いとの交わりに入れられていることを確信させてくださる。そして、ご自身の民を、キリストとの神秘的結合がもたらす祝福によって成長させてくださり、主への愛と信仰と主の民への愛とを熱心に燃やし、罪との戦いにおいて強め、艱難のもとで支え、義務の遂行へと励まし、良心の平安と永遠のいのちへの望みにおいて確かなものとしてくださる。

ですから、これに陪餐できる人は、自分の罪を悔い、救いのために主イエス・キリストに信頼し、キリスト者としてふさわしく生きることを願うすべての信徒であって、このすばらしい契約を受け入れない状態の人はあづかることができないのです。聖餐式の意義を正しく教えられていない者は、陪餐の資格がないこと。陪餐が禁じられているとともに、誤って、それに与かるならば、かえって「キリストのからだと血を侵す」ことによって、主より罰せられるのです。

「主がこられるまで」教会の希望のシンボル

聖餐式を守るのは世の終までですが、「主がこられるまで」(Ⅰコリント11:26)続けられることで、わたしたちは、将来への希望の絆で、主と結ばれていることを確認します。この日はいつか、いかにしてかわかりませんが、必ず、主は再臨くださると感謝してあずかります。聖晩餐は将来への希望の絆でイエス様と兄弟姉妹と結ばれていることを知るのです。

一人で与ることはありません。一緒にです。丁度それは過ぎ越しの祭りが家族の食事であったのと同じです。キリストの神秘的からだの肢体として彼らのキリストとの交わり、また彼ら相互の交わりのきずなと保証になるためにもあります。

わたしたちとキリスト、わたしたち同士の交わりの保証ー聖徒の交のりのきずなと保証である。兄弟愛のきずな、家族の団欒の食事は聖晩餐式において実感する。一緒の主よ、ふたたび来てくださいと祈りつつ感謝を込めていただくのです。

 

結び)主イエス様の受難について、積極的に私たちのために十字架にかかられる準備をなさったことがわかります。ねたみにかられて敵対する人間の策略は、罪深く、どん欲の罪に動かされた者が協力して、悪を成し遂げます。現代でも主イエスに敵対するものの変わりない心情です。愛に溢れる弟子達は、破格と人が思うような愛を主にそそぎます。それに答えて主イエスさまは、もっと破格な愛を持ってご自分を罪深い私たちのために十字架に捧げてくださいました。その準備は完全でした。天の父なる神様のみこころに、完全にそった積極的な従順をここみるのです。感謝します。

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