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2011年9月25日 ルカの福音書 8章4~21節「聞き方如何!」

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 2011年9月25日 ルカの福音書 8章4~21節  「聞き方如何!」

 序文)主イエス様は、人々に何らかの霊的真理を教えるために、よく生活上の経験を照らして真実である短い物語をなさいました。普通、これは「たとえ」話しと言われています。たとえ話しはその中に一つの中心的メッセージをもっており、その中心メッセージに関連したいくつかの霊的重要性のある部分を伴っています。たとえ話しは、聞いた者がそこから霊的なメッセージを汲み取って自分の生活や奉仕に適用するときに目的を達成するのです。

ですから中心メッセージを発見しなければ「見ていても見えず、聞いていても悟らない」ということが起こります。今朝の「種を蒔く人の種蒔き」のたとえ話しは,数あるイエスの譬え話しのなかで、ご自分で「解説」をしておられるという点で大変有名です。

種は神のことばです。種を蒔く人とは,神のことばを語る人です。すなわち、イエスご自身と,イエスさまによって派遣された説教者たちのことです。このたとえで大切なポイントは蒔かれた種は同じで蒔き方も同じであったけれども、種が落ちた土壌、すなわち人の心が異なった種類の土壌である。道ばた、岩の上、いばらの中、良い地です。これはイエスの教えを受け取る側の人の心の「聞き方」をさしているのです。ここで、中心メッセージは,私たちが、礼拝や各集会や文書やラジオ、テレビ等、個人的にさまざまな機会に聞くみことばをどのような態度で聞くか、によって、その実も自ずとあわられるというのです。「だから聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。(18節)」がカギの言葉になり、その裏付けとして「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神の言葉を聞いて行う人たちです。(21節)」にてイエスは、念を入れて語っておられる。

 

Ⅰ 四種類の土壌

では、主イエスが語られた私たちの聞き方、四種類を学びましょう。

1 「道ばた」に譬えられている聞き方

「人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。」「みことばを聞いたがあとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちのこころからみことばを持ち去ってしまうのです。」

この人々は、神のことばを聞いても、無関心なので、少しも注意をはらわない。また時にはじめから偏見をもってこころを固くし受け入れようとしない心、ですからみことばを聞いても悟らないうちにサタンが来て、みことばを心から奪い取ってしまう。神のみことばを完全に忘れ去って何も聞かなかったのと同じ状態のままとなるのです。

私たちも注意深くみことばをうけとめようとしないならば,礼拝の終わったすぐ後で、サタンがみことばを忘れさせてしまうことが起こります。自分で聖書を読んで教えられたのに部屋を出て台所に立ったとたんに、みことばが心から消え失せていることが起こる。サタンが心から神のみことばを奪い去るためにいろいろのものを利用する。その中で最も多く利用するのは、頑固で受け付けないこころです。

2 「岩の上」に譬えられている聞き方

「生え出たが,水分が無かったので枯れてしまった。」「聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根が無いのでしばらくは信じても、試練のときになると身を引いてしまうのです。」

みことばの芽は一応生えるのですが、しばらくして枯れてしまう。浅い心でみことばを受け取る者は、しばらくの間は信じて喜んでいるが、やがて試練がくるときに信仰から退くものである。浅い心とは利益本位や興味本位でだけでみことばを聞く。魂の深い要求から聞くのでないため信仰のため外見上の不利益がおよぶとすぐに実をみことば捨てて信仰も捨ててしまうのです。又、自分の好みにあわないみことばは、全部捨てて自分の利益になるだけのものを受け入れる。それはキリストと共に喜ぶ事は受け入れるが、共に苦しみ事はごめんだという態度なのです。一時的な順境のときだけのクリスチャンとなる。表面的、一時的熱狂で終わってしまう。

 

3 「いばらの中に落ちた」に譬えられる聞き方

「いばらも一緒に生え出て、それを押しふさいでしまった。」「みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて実が熟するまでにいたらない。」

み言葉を聞き、理解し、信じるのです。キリスト者となる決心をして、主のものとなる。全く新しい世界が目の前に開け、良いスタートを切る。ところが古い生活を満たしていたものから抜けきれずに、新しい人生は押さえつけられて、ついには枯死してしまう。おもいわずらいや、富や、世の快楽が,神のことばをおこなうことから心をそらせてしまう。二心をもっていて、神と富み、神と快楽、神と自分の両方に仕える。ところが人は目にみえること,目の前のことに多くの時間を注ぐので、次第に神様からは離れていってしまう。

みことばを第一にして受けとめ、生活していくという姿勢がなくて、いつもみことばと目の前の事を秤にかけてどちらを取ろうかと、其の時、其の時でゆれうごいている。じつは実が熟することがない。

4 「良い地」に落ちたに譬えられる聞き方

「生え出て、百倍の実を結んだ」「正しい良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、良く耐えて実を結ばせるのです。」

みことばを聞き,理解し、信じてしたがう。正しい良い心と従順と忍耐をもって聞きつづけるものが、百倍の実をむすぶにいたる。

大切な事はスタートではなくて歩みつづけることであると悟り、誠実さと努力をもって従順と忍耐をもって神の道を進むことです。「正しい良い心」とは謙遜で,素直で実直で二心のない心、新鮮で善意に富み真理をするどく受け止める心をさします。この心でみことばをしっかりと心の中に「守り」、多くの誘惑と試練の中にあって永く持ちこたえる者が、神のめぐみにより百倍の実を結ぶのです。「忍ぶ」耐えるとは、外からの攻撃ばかりではなくて、内からの苦しみや分からない出来事や、心の意欲が失われて、祈れなくなってきても、蒔かれたみことばを心から離さず持ちこたえてゆけば、自分で気づかぬうちに成長して、ついに花が咲き実をむすぶのです。

心の気高いクリスチャン、生涯かけて全身全霊みことばと取り組む者として聞く事です。

 

Ⅱ 16〜18節

さて、次に主は正しく良い心でみことばを聞いた人々のために、その聞いた言葉と本人の関係を「あかりのたとえ」を用いて示されました。あかりは当時ひしゃげた急須のような型をした素焼きの陶器の器で、その中に油を入れ、急須の口のところに灯心があって、火をつけて台の上において用いました。イエス様が「あかり」で意味されたことは次のことでした。みことばを聞いた人々の心にある,神の国の奥義の知識を指しました。みことばを正しく聞いた者は、心に点火された福音のあかりを人々の前に隠さないで輝かすのです。入ってくる人々を照らします。外から入ってくる人々と、神の国を求めてくる人々、入信する人々を照らします。

良い地に落ちた種はある期間土の中に隠されているが、やがては芽をだし,茎を伸ばし花を咲かせて実を結ぶ。そのように神のみことばを聞いた者は、台の上におかれたランプのように、ますます多くの人々を福音の光で照らす。その人が世の光りとならせられる。

神があなたの信仰生活において,あなたを密かに教え経験させられた,神の国の奥義はやがて公にされ、あかししてゆくべきものであります。また、神があなたに託されたタラントは,地下深く埋めて隠しておくためではなく、公にして活用するはずのものであるとも言われています。

ようするに、聞き取られた福音は自分の内に一人そっと抱きしめているものではなく、やがてはあらわになり明るみに出される。良い聞き方によってみことばは光となり、力をあらわします。ますますその人を豊かにし、生きて働く信仰と聖霊の油注ぎを豊かに受けて百倍の実を結び、今、持っている以上の神の祝福に入れられてゆく。

ところが、道ばたや、岩の上や、いばらに示されるような聞き方をしていくと,持っているものまでも、サタンに奪い取られてしまう。

Ⅲ 良い正しい心で聞くものを,主は励まされました。

丁度この話しをしておられる所に来た、母、兄弟を例に引いて、主は「神のことばを来いいて行うものが,わたしの母、わたしの兄弟だ」と言われました。

イエス様と最も近い関係にある人々、身内とは、母マリア、兄弟ヤコブ,ヨセフ、シモン、ユダそれに姉妹たち(マタイ13:55.56)でした。イエス様はここでわたしたちに、この世で親族関係は、永遠的な意味をもっていないこと、むしろ,真の近親は、イエス・キリストを信じ、聞き従う者たちであるとおっしゃったのです。主イエスは聖書の他のところで、天国ではめとりとつぎなどはない、といわれました。思い違いをしないようにと言われました。

もちろん、この世に生きている限りは、神の定められた家族の秩序はあります。その上に祝福が約束されているのですが、それは永遠のものではない。地上の家族制度は,キリストを中心とした天の御国での霊の家族の写しです。天においては、信仰によってきよめられた霊の父、母、兄弟,姉妹関係があり、それは今、この地上で、主イエスを信じ、みことばに聞き従う者たちの間に結ばれる霊の兄弟姉妹の関係として一部分味わわれているのです。

主イエスの地上での家族は、当時はイエス様を気が狂ったと思って働いているところに取り押さえようとしてやって来たことがありました(マルコ3:21)。またマリアとヨセフの間に生まれた兄弟たちはイエスを信じないであざけったりした事があったのです(ヨハネ7:3〜5)。

この肉による兄弟たちが、まことの意味でイエスを知り、信じるにいたったのは、イエスさまの死後でした。復活の後でした。主は復活後にヤコブに現れました。このとき彼らは初めて霊における兄弟となったのでした。

 

結び)みことばを聞いて行う者,実行する者は、その実りを百倍結び、主イエスの家族として、主に最も近い関係のある者として覚えられ、支えられ、守られ、はげまされるのです。生まれながらの関係は、常に一時的です。神のもたらす霊の家族関係は永遠なのです。それは神のきよめと祝福の中になる、愛と喜びの結びなのです。

みことばの聞き方は、その人に一時的でついえさる人生か、永遠で実り豊かな人生かを選ばせるのです。

 

 

2011년9월25일 누가복음 8장4-21절 “”들을 귀 있는 사람은 들으라!”

서문) 예수님은 사람들에게 영적진리를  가르치기 위해 우리 생활

중에 경험하는 사실을 비추어 짧은 예화로 말씀를 하셨습니다. 보통 이것은

예를 들어 말씀하셨습니다. 이 예화들은 몇가지 이야기중 중심적 메세지를

담고 있고, 영적중요한 부분을 차지 하고 있습니다.

예화는 듣는자가 그 영적 메세지로 부터 자기 생활과 사역 활동에 적용

하기 위해서입니다.

때문에 중심 메세지를 발견하지 못하면 “그들이 보아도 보지 못하고 들어도 깨닫지못한다’라는것입니다 . 이 아침 “씨앗을 뿌리는 사람”에 대한 예화

는, 수많은 예수님에 예화 가운데, 예수님 자신이 예화를 설명해주신점에서

매우 유명합니다.

씨앗은 하나님에 말씀입니다. 씨앗을 뿌리는 사람은, 하나님 말씀을 전하

는 사람입니다. 즉 예수님 그 자신이며, 예수님이 쓰시는 설교자입니다.

이 예화의 포인트는 뿌린 씨앗은 같은 방법으로 뿌렸더라도, 씨앗이 닿는

땅, 즉 사람에 마음이 다르듯이 땅이 다르다는것입니다.

길가에 떨어진것, 바위에 떨어진것, 가시밭에 떨어진것, 좋은 땅에 떨어진것

입니다. 이것은 예수님에 가르침을 받는 사람에 마음에 열린 상태를 나타

냅니다. 여기에서 중심 메세지는 우리들이 예배나 각종집회, 문집, 라디오,

텔레비변등 개인적으로 접하는 수많은 말씀을 어떠한 태도로 받아 들이는가

에 따라 그 열매가 다르다는것입니다. “그러므로 너희는 내 말을 조심해서 들으라. 가진 사람은 더 받고 가지지 못한 사람은 가진 줄로 생각하는 것조차 빼앗길 것이다.” 18절』

 

하신 말씀이 키 포인트이며, 이 말씀을 뒤받침하기 위해 “예수께서 대답하셨습니다. “하나님의 말씀을 듣고 실천하는 사람이 바로 내 어머니요, 내 형제들이다.”라고  재말씀하셨습니다.

Ⅰ 4가지종류의 땅

그럼 예수님이 말씀하신 우리들이 듣는 자세에 대해 4가지를 배우기

합시다.

1 땅에 떨어진 씨앗이라는 것에서 듣는자세

하나님의 말씀을 들었으나 마귀가 와서 그 마음에서 말씀을 빼앗아 가는 바람에 믿지못하고 구원받지 못하는 사람들이다

이 사람은 하나님 말씀을 들었지만, 무관심해서 조금도 관심이 없다.

또 때에 따라서는 편견을 가진 마음이 굳어져 받아 들이지 않는 마음,

때문에 말씀을 들었지만 깨닫기도전에 사탄이 와서, 말씀을 걷두어 가버리고

만다. 하나님 말씀을 완전하게 잃어버려 무엇을 둘었는지도 조차 모르는 상태를 말합니다.

우리들도 주의해서 듣지 않는다면, 예배가 끝나고 사탄이 말씀을 잃어버리

도록 하는 경우가 생깁니다. 자기스스로 성경을 읽고 깨달았는데 방을 나와

부엌으로 가는 사이에 말씀이 마음속에서 사라지는 경우가 있습니다.

사탄이 우리의 마음속에 하나님 말씀을 걷두기 위해 여러가지를 이용해

시험을 합니다. 그 가운데 가장 많은 것이 굳은 마음으로 받아 들이지 않는

것입니다.

2 바위위에 떨어진 씨앗은 어떠한 자세로 듣는것인가

하나님의 말씀을 듣고 기쁘게 받아들이지만 뿌리가 없어 잠시 동안 믿다가 시련이 닥치면 곧 넘어지는 사람들이다.

말씀의 씨앗은 잠시 돋아나지만 조금 지나면 시들고 만다. 앝은 신앙으로

말씀을 듣느자는 잠시동안만은 믿고 기뻐하지만 시련이 닫치면 신앙으로부터

멀어지고 만다. 믿음이 적은자는 이윤추구나, 흥미위주로 말씀을 듣습니다.

영혼 깊숙한곳으로 부터 요구가 아닌 신앙이기 때문에 외견상 불이윤이 찾아

오면 말씀를 버리고 신앙을 버립니다. 또한 자기에게 맞지 않는 말씀은

전부 버리고 자기에 이윤에 맞는 말씀을 받아 들입니다. 그것은 그리스도와

함께 기뻐할수 있으나 같이 고난에 길은 가지 않겠다는 태도입니다.

일시적인 찰라의 그리스찬이라 합니다. 표면적이고 일시적인 광열적인 모습

만으로 끝이 납니다.

3 「가시덤불에 떨어진 씨앗」에 비추어진 받아들이는 자세

“하나님의 말씀을 들었으나 이 세상의 걱정과 부와 쾌락에 사로잡혀서 자라지 못하고 온전한 열매를 맺지 못하는 사람들이다”

말씀을 듣고, 이해하고, 믿는것입니다. 그리스도에 사람이 되고자 결심하고,

주의 것이 되는거이다. 전혀 다른 새로운 세계가 펼쳐지고, 좋은 출발을 한다.그러나옛 습관에 만족해서 그곳으로부터 나오지 못하고, 새로운 인생은 그것에밀려, 결국에는 시들어 죽는것이다. 걱정과 부, 세상에 쾌락이 말씀에 순종하고자 하는 마음을 눌러버린다. 두가지 마음을 가지고, 하나님과 부, 하나님과 쾌락, 하나님과 자신에게 쓰여집니다. 그러나 사람은 눈에 보이는것,눈앞에 있는 현실에 많은 시간을 보내고, 드디어는 하나님으로 부터 멀어지게 됩니다.

말씀을 제일로 받아들이고, 생활하는 자세가 없이는 항상 말씀앞에 어떻게 할것인가흔들린다. 열매가 익어갈수가없다.

 

 

る4 「좋은 땅에 떨어진 씨앗 」에 받아 들이는 자세

“또 다른 씨는 좋은 땅에 떨어져 자라나 100배나 많은 열매를 맺었다.”

“좋은 땅에 떨어진 것은 착하고 좋은 마음으로 하나님의 말씀을 들은 뒤 그 말씀을 굳게 간직하고 인내해 좋은 열매를 맺는 사람들이다”

말씀을 듣고, 이해하고, 믿고 따른다.  올바른 마음으로 순종하고 인내를 가지고 듣는것을 계속하는것이 백배에 열매를 맺는다.

중요한것은 출발이지 않고 ,계속해서 걷는것을 깨닫는것이다. 성실하게 노력

하고 순종하면 인내를 가지고 하나님에 길을 걷는것입니다. “착하고 좋은

마음”은 겸허이며, 솔직하며, 두가지 마음이 아닌, 선의로 가득한 진리를

받아들이는 마음입니다. 이 마음으로 말씀을 분명하게 받아들이고 “지켜”

많은 유혹과 시련중에도 그것을 지켜, 하나님에 은혜로 백배의 열매를 맺습

니다. “견뎌”라는 것은 외부로부터 공격해오는것 뿐만 아니라, 안에 있는

괴로움이나 이해하지 못할 일들, 마음에 의욕을 잃고, 기도할수 없는 경우에

도, 뿌려진 말씀을 마음속에서 멀리하지 않고 간직해가면, 자기가 깨닫지 못

한중에도 성장하게 되며, 드디어는 꽃을 피고 열매를 맺는것입니다.

마음이 깊은 그리스찬, 생애를 걸어 전신전령으로 말씀을 듣는 자세입니다.

Ⅱ 16〜18절

그럼 주님은 올바른 마음으로 말씀을 듣는 많은 사람들을 위해 그 듣은

말씀과 본인의 관계를 “등불에 예”로 나타내었습니다. 등불은 그 당시에

짖눌런 생김새가 좋지 않는 토기로 만든 등으로, 그 안에 기름을 넣고,

그 입구에 등심을 넣고, 불을 부쳐 등불을 준비합니다.

예수님이 “등불”로 비유하신것은 다음과 같습니다. 말씀을 듣는사람에

마음이 있다. 하나님 나라에 뜻을 의미합니다. 말씀을 정확하게 들은 사람은

마음에 불을 밝혀 복음에 등불을 사람들앞에 비추는것입니다.

찾아오는 사람을 비춥니다. 외부로 부터 들어오는 사람, 하나님 나라를 구

하는 사람, 교회에 들어오는 사람을 비춥니다.

좋은땅에 씨앗이 떨어지면 당분간은 아무것도 보이지 않지만, 쌋이 나고,

줄기가 늘어나고 꽃이 피고, 열매를 맺습니다. 그렇게 하나님 말씀을 듣는 사람은 등잔에 놓인 등불처럼 많은 사람들에게 복음에 빛을 비춥니다.

그 사람이 세상에 빛이 됩니다.

하나님이 여러분의 신앙생활중에 비밀리에 경험하게 하신 것들, 하나님 나

라에 뜻을 알리기 위해 간증하게 하실것입니다. 또한 하나님이 여러분에게

준 달란트는 지하 깊은한곳에 묻어 두는것이 아니고, 같이 활용하여야 한

다 말씀하셨습니다.

다시 말하면 듣은 복음은 자기 자신내에 두는것이 아니고, 밝은곳에서

나타내어야 한다. 듣는 자에 따라 말씀은 빛을 내고 능력을 나타냅니다.

더욱더 사람들을 풍족하게 하고, 살아 잇는 신앙과 성령에 기름 부우신

풍족한 백배의 열매를 맺고, 지금 가진 이상에 하나님에 복음에 들어가게

합니다.

그러나 길바닥에 바위위에, 가시덤불에 뿌려진것처럼 듣는자는 가진것 마저

도 사탄에게 빼앗기고 마는것입니다.

Ⅲ  좋은 자세로 듣는자는 하나님이 도움을 주십니다.

정중하게 주님이 말씀이 하신는곳에 어머니, 형제가 온것을  보고 ”

주님에 말씀을 따라 행하는 사람이 나에어머니요, 형제다”라고 말씀하셨습

니다. 예수님에 가장 가까운 관계에 있는 사람들은, 어머니 마리아, 형제 야곱, 시몬,유다 그리고 자매(마태복음13:55-56)이였습니다.

예수님은 여기에서 우리들에 이 세상에 친척관계는 영원하지 않든다것과

반대로 더욱 가까운 사람은 예수님을 믿고 따른자다 라고 말씀하십니다.

예수님은 성경에 다른 곳에서 천국은 결혼을 하지 않는다 말씀하셨습니다.

잘못된 생각을 하지말라 말씀하셨습니다.

물론, 이세상에 살아가는 동안는 하나님이 정해주신 가족이 있습니다.

그 위에 축복이 약속되였지만, 그것은 영원한것이 아니다.

지상에 가족제도는 그리스도를 중싱으로한 천국에 영적 가족을 나타낸것입

니다. 천국에선느 신앙에 따라 정해진 영적 부모, 형제자매 관계가 있고,

그것은 지금 이 지상에서 예수님을 믿고 말씀에 따라 맺어진 영적 형제

자매관계가 일부 의미를 부여되여집니다.

예수님이 이세상에 계실때 예수님 가족이 예수님가 정신이 이상해졌기 때문

에 그에 활동을 저지하기 위해 예수님을 대리러 온 사실이 있습니다

(마가복음 3:21) 또한 마리아와 요셉사이에 태어난 형제들은 예수를 믿지 못

하고 없신여겼습니다. (요한복음 7:3-5)

예수님에 형제들이 진정한 의미에 예수님을 알게 된것은 예수님이 죽고 난

이후 였습니다. 부활하신이후 입니다. 주님은 부활하신후 야곱에게 나타

났다. 이때 그들은 처음으로 영적인 형제가 된것입니다.

결론) 말씀을 듣고 행하는 사람, 실행하는 사람은 그 열매를 백배 맺고,

예수님에 가족으로 주님에 더욱 가까운 사람으로 기억하고 세워주시며,

지켜 주시며, 도움을 주실것입니다. 태어날때 관계는 일시적인것입니다.

하나님이 주신는 영적 가족 관계는 영원합니다. 그것은 복음가운데

사랑과 기쁨으으로 맺어집니다.

말씀을 듣는 자세는 그 사람을 일시적 인생이 영원한 열매를 맺는

인생으로 바뀌는것입니다.

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