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2011年1月23日 ルカの福音書4:1~13「もし神の子なら」

2011年1月23日 ルカの福音書4:1~13「もし神の子なら」

[天の神よ。私たちを導いて、あなたに関する真の知識を与えてくださる聖霊に感謝いたします。あなたの聖霊をもって、私たちの心を照らしてくださって、心からあなたを叫び求め、あなたを知り、真実に信じ、感謝し、従うことができますように、み子のゆえに謹んでお願いいたします。

願わくは偽りやすい妄想のために福音の光が、わたしたちから取り去られることがありませんように。すべての事柄において、あなたの知恵のみ声をもって、私たちを導いてください。聖い、み名のために、このことをお許しください。アーメン」

(宗教改革者 メランヒトンの祈り)

序文)私たちの主イエス様は救い主として公の生涯に一歩踏み出される時に、洗礼を通して、聖霊の力注ぎと、天の父からのあかしを受られました。いよいよ、その使命に立ち、救いの事業を始めようとされたこの時、悪魔の誘惑にあわれました.

丁度、第一の人アダムが、エデンという最善の環境の中で、神にある人生を始めようとした矢先に、悪魔による誘惑に会ったのと同じようにです。第二のアダムとしてのイエス・キリストは、荒野という最悪の環境の中で、使命のスタートにあたり誘惑に会いました。第一のアダムは失敗し罪の結果として死を全人類にもたらしました。第二のダムは勝利し、救い主としての使命を全うされました。信仰を持って受け入れる者をいのちへと回復させられたのです。

キリストを信じて神の民とされた人生を、神の栄光のためにと歩みはじめたクリスチャン達も、常に同様の誘惑にさらされています。悪魔の誘惑の根本的な狙いは、神がその民に与えられた助け主・聖霊の力を見失い、その賜物などを神のために用いるのではなく、自分自身のためにだけ、用いるようにと、そそのかし、そのそそのかしを通じてクリスチャンの人生をもう一度、神に逆らう、元の罪深い人生にと引き戻すことにあります。それはわたしたちが、悪魔に仕えなおさせるための誘惑でもあるのです。

神の民は、聖書と信仰と良心によって、聖霊の助けのもとに、神にある人生を歩むように導かれていますが、悪魔は「食べるに良く、目には麗しく、賢くなるには好ましいと思われたから」禁じられた実を取って食べるという自分本位のみの生活に陥れるのです。

悪魔はイエス・キリストが救い主としての使命に立って働くことを止めることはできませんでした。その代わりに働きの内容を神が本来お考えになっていた「まず神の義と神の国を求める」という霊的、内的なものから、当時の人々が望みとしていた、物質的、政治的なエルサレムを中心とするメシヤによる一大世界帝国を築かせようとする働きに、すり替えてしまおうとしました。しかも、人間のもっている情や、野心に訴えて働きかけてきたのです。悪魔の誘惑の巧妙さは、私たちの立場を条件付きか、仮定的に認めて「もし神の子ならば、」とか、「もしクリスチャンならば、」というように語りかけ、私たちの肉や、情や、野心に訴えて、へつらうのです。これに対して迫害の場合は、悪魔は私たちの立場を真っ向から否定して打ち負かそうとかかってくるので、クリスチャンたちは神の力により、よく戦い、よく勝ち抜くことができます。

Ⅰ 石をパンに 2〜4節

イエスさまが直面された悪魔の誘惑は、13節に「誘惑の手を尽くした。」とあるように、あらゆる誘惑でありました。その中からイエス様が弟子たちに公表された代表的な誘惑が、ここに書とめられているのです。

第一は「あなたが神の子なら、この石にパンになれと言いつけなさい。」というのです。40日の間、荒野で何も食べずに空腹を覚えられた。悪魔は、イエスに「あなたは天から特別に”あなたは私の愛する子、わたしの心にかなうものである。”とあかしされた神の子でしょう?それなのに現実は神の子どころか、その腹は空腹でまいりそうではないか。本当に神の子ならば、それらしい事実をもって証明したらどうか。この石をパンに変えて空腹を満たしたらどうか、と。同様の誘惑はクリスチャンにも来ます。「あなたは神の子だね」しかしこの世からみると神の子らしくない。その実がとぼしく、そばに仕えるものもひとりもなく、一個のパンもない。たった一人で、孤独である。貧しい。本当に神の子なにかね。そうならば石をパンに変え神の子にふさわしい境遇を作ったらどうかね。まず、物質的なもの、外側のもので、自分の必要を満たせ。

イエス様の答えを良く心に刻み付け、同類の誘惑に対してきっぱりと答えましょう。「人はパンだけでいきるのではない。」と書いてある。(申命記8:3)

1 この明答からおしえられることは、まず「人は物資的なものの中にだけ、まことのいのちをみいだすことができない。」ということです。力にささえられた社会を出現させてもそれによって、人間が、神の前にまことの永遠のいのちをもって生きることはできません。現代の物質社会が、そのことをはっきりと証明しているのです。人間がまことに生きるのは、神様から来る聖霊のいのち、力によるのです。イエス様が主の祈りで「毎日のパンを今日もお与えください」と祈るように教えられたのは、そのまえに「みながあがめられますように」と、神様を第一とした上で、あったとことを覚えると、事柄の重要性がわかります。

2 次にイエス様は使命を全うするために、神様から受けた聖霊の力、賜物の使用法を、神様のお心に反して用いることはできないと答えられました。

石をパンに変えよという悪魔の誘惑は、イエス様が与えられた力を異なる目的のために発揮させようとことだったのです。

私たちクリスチャンに、神が与えられた聖霊の力、賜物は、神の道に用い、み国を広げるために用いるとき生きるのです。全く別の目的に乱用することは、イエス様の答えからもストップがかかっていることに気づくべきです。キリストを頭とあおぐ教会が、たてられている本来の目的と違うことのために、教会を用いることは、まさにこの悪魔の誘惑に秘められていることで、主はこれを拒否なさったのです。たとえそれがご自分の空腹を満たすためであってもです。

3 第三に イエス様が神の子であるかどうかは、悪魔のことばに従って、石をパンに変えられるか、どうかで判定されるものではないということなのです。この石をパンにかえられないようでは、神の子ではないのでは、という人の心を揺さぶるような疑いを引き起こす目的が、悪魔のことばには秘められているのです。しかしイエス様の答えは、そのようなことによって、ご自分が神の子であると証明しなくてもよい、ということをしめしています。実に私たちがクリスチャンであるかどうかは、それにともなう事実の証明によって神の子であるのではありません。わたしたちが神の子であるのは、神のみ子を信じる者に、神の子となる特権を与えてくださった、神のみことばによるのです。神の絶対主権のうちに、このように約束がしるされているので、その約束を受け取って信じる者は、絶対的無条件的に神の子と認められているのです。

このことは極端に言うとイエスさまが、この荒野で飢え死にすることがあっても、神の子であることに変わりはないということです.それはイエス様がバブテスマを受けられたときに天から声がして「あなたは私の愛する子」とみ父の明言があったからです。クリスチャンもおなじです。私たちの救いの根拠は悪魔や信仰にない周りの人がクリスチャンと認めるからクリスチャンなのではありません。神が信仰によって義と認められたからなのです。

 

Ⅱ イエスさまが会われた第二の誘惑 5〜8節

救い主としての働きを成就するために、唯一の神にのみ期待しないで、この世の力も借りなさい。すなわち悪魔礼拝という妥協をすることによって、その大目的を達成した方が、ぐんと早く効果的に目的を達することができますよ。権力や富ならば、私が持っていますからと悪魔は誘惑しました.悪魔はイエス様に「私と手を握ろう」「私の力を借りなさい」とさそいかけました。

イエス様の答え:「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と書いてある(申命記6:13)でした。これは全世界を悪魔が支配していたとしても、正しい目的を達成するためには膝を屈しないということです。実際は全被造物、全宇宙をおさめておられる唯一の神にのみ信頼をおき、期待すべきことを答えられたのです。万物を創造し、所有し、自由に万物を人の手に分配したり、取り上げたり、移すことのできる神を信じるものは、目的達成のために、悪魔とその支配下にあるものたちに妥協する必要はないのです。神のみわざを達成するために、神の力を信頼せよというのです。

わたしたちは、今は、神の賢い目的のもとに、この世が制限付きで一時的に悪魔の働く場となっていること、究極局的には天においても地においても一切の権威をさずけられた栄光の主イエスが支配しておられることを知っています。

神にのみ仕えるという道は、その信仰にふさわしいのです。

 

Ⅲ 次の誘惑は9〜12節にあります。

悪魔は詩篇91:11〜12を引用してイエス様に迫りました。これは、イエス様が第一、第二の誘惑に答えられた事を受けて「神にのみ仕え、神によってのみ生きるのなら、神があなたのすべての路で、あなたを守られ、み使いに命じて守らせられることを、この神殿の中で見せてみろ」と迫っているのです。これは、神のみことばに堅く立つクリスチャンに対して、神のみことばを用いての悪魔の誘惑なのです。

この誘惑に対するイエス様の答えは、「あなたの神である主を試みてはならない。」(申命記6:16)です。イスラエルの人々が、荒野の旅行中マッサで水がなくなったことがありました。彼らは指導者モーセに向かって本当に神がともにおられるかどうか、それならば、水を与えてくれるかどうか、とつめよりました。神は、後になってモーセを通して、人々に「あなた方がマッサでしたように、あなたがたの神主を試みてはならない。あなた方の神主が、あなた方に命じられた命令と、あかしと、定めとを努めて守らなければならない。あなたは主が見て、正しいとし、良いとされることを行わなければならない。そうすれば、あなたは幸いを得る。」と戒められました。

人間は神が命じられたところに従って歩まねばなりません。神がどうしてくださるかわからない隠されたみ心を見ようとして、試みてはならないのです。

神が共におられるかどうかは、神が表されたみ心とみことばに従って歩んでゆくときに示されるのであって、決して、水が出るかどうか、高いところから、飛び降りても支えられるかどうか、試してやれと言った不敬虔なテストによって立証されるものではないのです。神がみ使いに命じて守ってくださるのは、聖書によって発表された神のみことばに従う道だけなのです。神を信頼するとは、神の命じておられる道を歩みつつ、一切をおまかせすることです。不必要な英雄的な冒険や熱狂的な向こう見ずな挑戦は、信頼ではなく、高慢なテストであって、神を試みることなのです。

結び)信仰の道を歩むとき、悪魔は挫折をさせようとこれらの誘惑を放ちます。また、全く信仰の道では無い歩にすり替えようとせまります。勝つために神への徹底した信頼とみことばへの従順が不可欠なのです。私たちは毎日の生活で、最初のアダムのように誘惑に破れる者だという事を認めざるをえません。しかし、感謝すべきことは、第二のアダムである主イエス様が、決定的に勝利を収められたのです。「ヘブル2章18節」

この主イエスの中に、本当の同情と身代わりと救いを、私たちは見いだして歩んで行くのです。信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見上げて歩続けましょう。

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