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2011年11月13日 ルカ 9:10〜17 「主は、わが牧者」

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2011年11月13日 ルカ 9:10〜17 「主は、わが牧者」 招詞 詩篇23:1,2

序文)今朝の箇所から、私たちの牧者として主イエス様が霊的、肉体的必要に配慮して、応えてくださる方であることを教えられます。使徒たちが伝道に派遣された先からかえって来て報告をしました。イエス様は彼らを連れてベッサイダという町に密かに退かれました。休息のためでした。体も霊も疲れていたからです。休息は人生の休止符です。それ自体では音を出さないのです。しかし休止符なしには名曲は生まれません。私たちの大牧者であるイエス様は霊的肉体的必要を配慮されるとき、この名作曲家は,時に応じた休止符を与えてくださるのです。

しかし、休息の時にもいろいろと出来事がおこります。その日の事を学びましょう。

1 イエス様、弟子達が休息しようとして場所まで変えてきたのにも関わらず、熱心な群衆が追いかけてきたのです。イエス様は、その願いを汲み取り喜んで彼らを迎えて下さったのです。主は人の必要に答えてくださいます。いつでも応じようとしてくださる憐れみ深い方です。人々の熱心な求めを喜んでくださる方です。

主は大牧者として、彼らを緑の野に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。神の国の事を話し、癒しを必要としている者には癒しを与えます。豊かに養ってくださるのです。そして彼らは思いがけず、夕方になってパンと魚までもいただく事になりました。

イエス様は大群衆の為に実は夕食をどうしようかとお考えになっていたのです。ヨハネの福音書6:5〜7「イエスは目を上げて、大勢の人の群がご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか。」これは弟子達の信仰を試すために言われたおことばでした。

夕方になって、さすがに皆おなかが空いてきたのです。ピリポはじめ弟子達は、イエス様が前もってなさった問いかけに,自分たちなりに懸命に考えて答えました。この男子だけでも5000人、女子子供を入れると10000人はいるでしょう。大群衆です。食事をさせるために200デナリからのお金が居る。年収の3分2ぐらいの出費です。そのような大金を持ち合わせていません。人々の中で弁当を持ってきている者がいるだろうか。どれほどいるか調べてみよう。その結果、一人の少年がパン5つと魚2匹を持っている事がわかりました。当然足りません。おどろくべきことに弟子達は自分たちが食べる物も持ちあわせていなかったのですね。群衆もイエス様の話しが終われば、家に帰り道でも何か食べればいいだろうと考えていたかもしれません。ところがついついお話に引き込まれて聞いているうちに夕方にまでなってしまったのです。彼らがうかつだったのではなく、神の国を求める点で熱心であったのです。

弟子達は「この群衆を解散させてください。そして周りの村や部落にやって、宿を取らせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れたところにいるのですから。」(ルカ9:12)と言いました。

主イエス様は、弟子達が今迄いっしょに歩んできたお方を理解しているのなら、「主よ、その食物をお与えください。」と願うはずだと期待されました。彼らがガリラヤの村々へ二人一組ずつ派遣されたときに、何日も不思議な方法で、主が彼らを泊める家を備えられ、その人々から備えられたパンをたべてきたはずでした。だから,今も、主よ、あなたがお与えになれると言えるはずだったのです。

神様が、わたしたちに、その家族や友人や隣人の必要に応えるようにと迫られるとき、自分には何もないと分かっているとき、ばたばたと落ち着きなく慌てて、早々に無理ですと、結論を出してしまわないようにしましょう。その課題を主イエスの御前に持ち出して、祈りましょう。「主よ、あなたがわけあたえるべきみことばをください。」「彼らに今必要な物をください。」と祈りましょう。期待する信仰をはたらかせましょう。この教会の必要についても,期待する信仰を働かせましょう。期待する信仰の賜物を持っている兄弟姉妹方が、この教会に大勢おられるのですから。神様がお働きになる機会を、神様に求めましょう。

パウロはピリピの信徒たちに自分の経験から「私の神はキリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)と言いました。

 

2 さて、主は弟子達の報告した5つのパンと2匹の魚を用いられました。群衆を50人ずつ組みに分け座らせました。男だけで5000人という人数は、このように座らせると正確に数えられたのです。

弟子達は主の命令に従い、群衆も応じました。主が何をしようとしておられるのか、分からないままに。言われた通り従いました。自分たちに不可能と思われたときに、わたしたちは自分なりの判がすべてだとおもって、その賢さを披瀝して,イエス様の命令に一言抗弁したりします。しかし、物事が非常に混乱して迷っているように,私たちが自分の信仰のレベルで判断しても、私たちの牧者である教会の主イエス様は、ご自分に属する者たちをどのように導けばよいか、何を語るべきか、何を行うべきか、間違いをなさるはずはないのです。おことばに従う時に良い結果が与えられると期待する事を学ばなければなりません。

主イエスは天を見上げて祈り、パンを祝福し、魚を祝福し、弟子達に手渡し配らせました。

弟子達は自分たちで群衆に、そのパンと魚を運んで行きました。神からそれぞれが手に受けたもの、心に受けたものを必要としている他の人々に運ぶこと、これが伝道なのです。人々は喜び、食べ、満足しました。残りは12籠にもなりました。12弟子たち一人にひと籠残った勘定です。はじめに会った物よりも、残った物の方が断然 多いのでした。

まことの牧者である主の手から受けた糧は、それが霊の糧であれ、肉の糧であれ、他の人々にわかち与えられてゆくとき、それが減少するのではなくて、増え広がるというのは、伝道のもたらす実りの喜びを表します。有り余る恵みはさらに次の機会に用いることができるのであります。

ここに主イエス様が、私たちを招き入れてくださった神の国のすばらしさが証しされているのです。

主は、私たちの魂の牧者でありたもうのみではなく、私たちのパンをも配慮なさる方であります。主日礼拝の主でありたもうとともに、月曜日から土曜日迄も主であられます。生活の場で、職場で,主なのです。日ごとの糧を今日もお与えくださいと祈るとともに、主のご用に,私のすべてをお用いくださいと祈ることは、主イエス様を、私の牧者と告白する者にふさわしい。

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