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2011年12月18日 ヨハネ1:9〜13「神の子とされる特権」

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2011年12月18日      ヨハネ1:9〜13

「神の子とされる特権」

序文)クリスマスアドベント説教をヨハネ福音書1章からつづけています。今朝は主イエス様がこの世にきてくださった目的の一つをまなびます。それは私たちを「神の子」にするために来て下さったのでした。この真理はウェストミンスター信仰告白12章「子とすることについて」でまとめられています。まずヨハネ1章9−13節を学びましょう。次に12章の解説をします。

Ⅰ 9〜11節

9節は先週、まことの光はキリストである事を学びました。10節「この方はもとから世におられ,世はこの方によって造られたのに、世はこの方をしらなかった。」「世」ということばはヨハネ福音書で77回使われています。人々がその中に生きている物質的,霊的な環境を指して用いられています。

「この方はもとから世におられ」イエスはマリアから生まれる以前に、ノアの日と同様に不可視的に「世におられた。」ペテロ3:19、20「その霊において,キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばをのべられたのです。昔、ノアの時代に、箱船が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。」キリストは人間が彼を見る目を持ってさえいたならば、

彼のみわざにおいて、また摂理的な万物の統治においてみられるはずであった。しかし彼の創造したこの世、つまりみ手のわざである人間は、彼を認めないし、信じないし、聞き従わなかったのです。この世は彼を知らなかったのです。

11節「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」

「ことばはご自分のくにに帰ってきた」事を意味します。自分のところとは、財産とか、その人特有の環境を作っている事物を示します。キリストが人となられて、特別ご自分の民であるイスラエル人たちのところに来られた。選びの民として,エジプトの奴隷状態から贖い出されて、カナンの地に導かれ、モーセの律法を有し、契約によってキリストの民となっていた。しかし、彼らはキリストを信じないし、拒否し、あまつさえ殺してしまいました。日本語では「ご自分のくに」と「ご自分の民」の「ご自分の」は同じ表現です。しかしギリシャ語の文法上は、中性形名詞、と男性形名詞の違いがあります。「ご自分の民」は従僕、家臣を意味します。「ご自分のくに/ところ」は、「ご自分の物」を意味します。イスラエル民族の土地、領地、神殿、すべての財産は,最初主ご自身によって、その民に貸与されたのです。キリストに独特の所有権がありました。イスラエル人は(詩篇78:71)「乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れて来て、御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを牧するようにされた。」ですからこの民のキリスト拒否の罪は大きくて深いのです。しかし、12節です。

 

Ⅱ 12-13節

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

このご自分の世にきてくださったキリストを受け入れたものは、とてつもない祝福があります。その人は「神の子とされる特権」をいただくのです。

「受け入れる者」は「信じる者」と同じ意味です。だれでも神の子とされる特権をうけます。自発的に信じることです。永遠のみ子、世に来られたお方を受け入れた結果は、新しい神様との関係にはいります。それは神の家族の一員となる権利をいただくのです。神のいのちにあづかる者となります。これは養子縁組です。法律的な立場として「神の子」です。

「その名を信じる」主イエス・キリストの人格、存在のすべてを信じる。

13節「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

人がキリストを信じたときに、彼のうちに神が起こされる新しい創造があります。新しい誕生です。心と性質の完全な変化がおこります。

第二コリント5:17、18[だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらの事は神から出ているのです。] みことばにあるとおりです。

それはただ神によって生まれたのです。神の恵みによって生まれたのです。御霊によって生まれるのです。血によってではないのです。血とは、血統の意味です。だれそれの子孫だからというのではありません。人に新しい誕生を与えられるのは、肉の欲求や人の意欲によってではありません。人の恵みによって新しい誕生がおこるのではありません。信じるのは私たちですが、誕生をあたえるのは神様です。自分で自分を変えた訳では決してありません。

クリスマスの喜びは、主イエス様を信じた者たちに届けられた神様の側からの一方的な祝福なのです。

Ⅲ  ウェストミンスター信仰告白第十二章 子とすることについて

「義とされるすべての者を、神はそのひとりごイエス・キリストにあって、また彼のゆえに、子とするめぐみにもあずかるものとされる。それによって、彼らは神の子の数に入れられ、その自由と特権を受け、神のみ名をその上にしるされ、子たる身分を授ける霊を受け、大胆に恵みのみ座に近付き、アバ父と呼ぶことができるようにされ、あわれみをこうむり、守られ、備えられ、親から受けるように神から懲らしめられ、しかし決して捨てられず、それどころか、あがないの日のために証印され、永遠の救いの相続人として、いろいろな約束を受けつぐ。」

ヨハネは第一の手紙の中で『わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんな大きな愛を父から賜ったことかよく考えてみなさい。』(第一ヨハネの手紙3:1)と申しています。

天の父から子と呼ばれる幸い、喜びを他のものと比べることはできません。クリスチャンの実際生活は、神の子としての生活です。これこそ、本当の幸福というべきことです。子とされる恵みは、家庭的、社会的、国家的な性質を帯びています。

告白の文章は、ほとんど、聖句そのものを綴っています。

1 まず、『彼らは神の子の数に入れられ、その自由と特権を受け、神のみ名をその上にしるされ』では、法律的な意味での子であることがいわれています。神のみ前での地位が子であるというのです。

2 『子たる身分を授ける霊を受け、大胆に恵みのみ座に近づきあがないの日のために証印され』までは、霊的、倫理的な意味で子であることがいわれている。有効召命を受けた者がこの世で受ける恵みと小教理問答で答えています。みことばに示された豊かな祝福を味わう者となりましょう。

3 『永遠の救いの相続人として、いろいろな約束を受けつぐ。』ここはクリスチャンの将来の希望とかかわっている。「もし子どもであるなら,相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら,私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(ローマ8:17、18)。永遠の将来への希望は、今の苦しみに打ち勝つ力となることが分かります。

神がキリストのあがないの故に子としてくださった、そして父でありたもうということと、創造者一摂理者として、すべての人の父といわれていることとは、はっきり区別しなければなりません。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなた方のある詩人たちも、「私たちもまたその子孫である。」と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。」(使徒17:28〜29)

19世紀に自由主義神学の人たちが、神は万人の父、人間みな神の子といって、罪のあがないの福音を、信じる、信じないにかかわらず、救いは、あなたのものと宣言することが、伝道である、と主張したりしました。

結び)ヨハネ1:12の明白なことばによって、神は信じる者に「子とする特権」を与えられるのです。すでに子とされた皆様は、ますます法律的にだけでなく、実質的に神の子である幸いを体験して、父なる神様との霊的交わりをみ子イエスさまによって深めてまいりましょう。聖霊さまは,いつでもどこでも「天の父よ」と祈らせてくださるのですから。

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