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2011年2月13日 ルカの福音書5:1〜11「人間をとる者」

2011年2月13日 ルカの福音書5:1〜11「人間をとる者」

序文)ゲネサレ湖畔(ガリラヤ湖畔)に立って主イエスは押し迫る群衆に神のことばを伝えておられました。ますます群衆が迫ってきたので、ついに、岸辺にあった二そうの小舟の中の一そうに乗り込んで陸から少し離れたところから、話をされました。その小舟は、シモンの持ち船でした。群衆への話が終わったとき、イエスはシモンに「深みに漕ぎだして、網をおろして魚をとりなさい。」と言われました。

ここに主イエス様がみ国のために働き人を召される方法のひとつが記されています。

Ⅰ「深みに漕ぎだして、網をおろして魚をとりなさい。」1〜7節

1 このことばは、聞いた者たちにとって全面的に受け入れいれるか、拒否するかのどちらかを要求しています。漁師であるシモンたちは、漁師でもない宗教の先生であるイエスさまの言葉をうけいれるなら、先ほど洗っていた網をもう一度小舟に積み込み、沖へ漕ぎだして、自分たちがいつもしている漁の手順を全部しなければならなかったのです。しかも彼らは夜通し働いて何も魚が捕れなかったので、疲れ果てていました。他方、主イエスのことばを聞き流して従わなければ、現状は変らないままでした。疲労と空っぽの小舟だけが残っていたのです。

あなたが、彼らと同じ立場なら、どのように応答しますか?

2 ペテロは「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何もとれませんでした。でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう。」(5節)と答えました。ペテロは全面的にやってみようと決めました。「おことばですから」と。彼は「深みに」と言われた主のおこころに捕らえられました。また、このままでは何も変わらない。夜通しはたらいた結果が徒労であったので、もう一度チャレンジしてみよう。

3 別にイエス様は漁師ではないので、その力量を信じていたのではありません。半信半疑だったでしょう。「でも」といっています。おことばにしめされたことは全部やってみたのです。小舟に網を積み直して、深みに漕ぎだし、網入れをしました。

その結果は、「たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。」別の舟にいた仲間達に加勢をたのみ、彼らの舟にも魚をひきあげた。二そうとも魚がいっぱいになって沈みそうであった。ペテロは驚きでいっぱいになった。福音書著者ルカは主イエス様の権威が自然界の上に、さらに魚にまで及んでいたことの証拠として、この記事をいれたのではないでしょうか。人は、だれでも自分の働きの分野で大漁を願っています。願わない人はいません。そのために頼るのは自分の経験とか、技術とか、知恵とか、財力です。最大限の努力をします。しかし、主イエス様の権威については、関係が全くない。門外漢であると思って、考慮に入れないか、入れても排除します。第一現代の人ではない。歴史上の人物と考えています。

ルカは、前節からつづけて、主の権威の偉大さに読者の目を向けさせようとしています。ペテロは、主イエスの方法に目が釘付けになりました。この方はいったいどのようなお方なのだろう。「深みへ」と言われた。夜を徹して深みも探ったはずである。浅瀬ばかりを夜通し巡っていたのではない。それでも、主イエスの言われた「深み」がまだ残っていた。人生で自分たちがまだ考えに入れなかった分野がある。神への信仰の領域がある。物事を外面的、物質的にだけ見ていたのなら、内面的、霊的に考えてみる。自分なりに深いと思っていたのなら、さらにもう一漕ぎ沖に出てみる。神の方法は奇抜なものではない。では、どこが違うのか。徒労に終わるか、大漁かの違いは何か。ペテロにとってそれは、主イエスのおことばに従うかどうかにあった。それは天地の権威を持たれる主にしたがうかどうか。いわばこのお方の上に人生を築き直してみるかどうか。旧約聖書のメシア詩篇に「あなたの御手のわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」(詩篇8:6〜9)と歌われているのです。

Ⅱ ペテロの反応 8節

ペテロはイエスの足もとにひれ伏した。「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。」ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネも驚いたけれども、ペテロは、特に豊かな感受性で、率直に感情を表し、言葉と動作で驚きをしめしました。今迄、見たことも聞いたことも無い経験を突然して、理解を超えたことを目の前で味わわせた。その主イエスが自分の前にいる。神の力を感じ、恐怖心が湧いてきた。こわがった。超自然的なイエスの力に触れて、このままだと自分は罪深いので死んでしまう。離れてください。実際に「離れる」とは、彼らは舟のなかにいたのですか、ペテロが飛び込まない限りは、イエスさまが湖の中にドボンと入ることを願ったことになります。とんでもないことですね。でもペテロはそれほど恐れていたのです。「深みに漕ぎだし網をいれなさい。」との、彼らに対するイエスの配慮を、少なくとも疑ったりし、「でも、おことばですから」と言ってしまった罪を感じていた。罪の自覚と、破格のめぐみに感じてしまった。完全に聖い神の前に人は出られるでしょうか?普通にはその汚れの故に出ること自体ができない。死あるのみなのです。主イエスは人となられているので、ペテロは今まで、親しみを感じていた。しかし突然そうではないお姿に触れた。イエスがすぐに「こわがらなくてもよい」といわれたので、安心した。そうでなかったならば、人間は迷信的、異教的なおどろおどろしい力を読み取って、恐怖に駆られたままで生きるかもしれない。神の恵みは福音の力によって、ペテロの心を正し、立たせた。福音は人を恐怖させ、脅すためにあるのではない。救うためにある。罪を赦された者として、近くおられる主に会う。人生の深みを味わい、大漁を経験させてくださる。

 

Ⅲ ペテロは人間をとる者として召された。10〜11節

1 「あなたは人間をとる者となる。」(ギリシャ語ゾグローンwill be taking alive、 not to kill)ペテロは、人を生かすためにとる者になる。魚をとって食料として殺していた彼が、人を生かすためにとる。神の国の発展のために、主イエス・キリスト様に仕え、人々を生かし、仕え、働く者とならせていただくために召された。他の人を神の国の民として救いに導く喜びと栄誉ある働きに仕える者としてくださると、主は言っておられるのです。世界の創造主、導き手、完成者である、神様のために、罪の腐敗と混乱と悲惨の世を、救いに導き、新しい天と地を到来させ、御国をうち建てられる働きに、共に仕える者となることは、それによって人を生かす者になる。

主のために人間を捕る(救いに導く)ことは、習い覚えることができるのです。「人」が全てを決します。方法でなく主のしもべ「あなた」です。あなたの「愛」「イエス・キリストへの愛」が決め手なのです。すべてを置いてついてゆくほどの「熱い愛」が必要なのです。方法は「愛の表現なのです」熱い愛は多くの障害を乗り越えて目的を遂げます。障害の第一は「怠惰」です。これを壊すのは「行動」あるのみです。第二は「恐れ」です。これを直すのは「恐れていることをやってみる」のです。「恐れなくて良い」と言われた主が、ともにおられるからです。最後は「ふさわしくない自分」です。「自分自身」のあかしをするのでなく、「主イエス・キリスト」をあかしするのです。あなたがふさわしくなるまで待っていたら、時間がかかるので、その間に世界は滅びてしまいます。伝えるべき主イエスが素晴らしいのですから、それでよいのです。「聖書について無知」ならばそれは聖書を学ぶことです。「話し下手」なら。それは練習することです。主はあなたを人間を捕る漁師に「なるのだ。」といわれたのです。

 

2 そのために、主イエスについてゆくことが必要なのです。ペテロ、ヨハネ、弟子たちはついてゆきました。イエスの生活態度のすべてを見、人と出会って導かれるのを経験しました。話される御国の教えを吸収し、存在のすべてをかけて愛を注がれる姿にふれつづけ、力ある神の子としての奇跡のみわざを目撃し、贖いの犠牲を身をもって払われる戦いをみつめ、死からよみがえられた現実のお姿に出会い、それを確かめてゆく生涯でした。その結果は、主イエス・キリストに似るものとしての訓練を受けて、使徒の働きに示されるような人間を捕る漁師に見事になっていったのでした。主イエス・キリスト様についてゆく生涯は、単に自分が救われてよかった、よかったと言っているだけではなくて、もっと高尚な目標があるのです。それは救い主が、あなたをこの素晴らしく尊い働きに召しておられるという生涯なのです。それでなければ、「何もかも捨てて、イエスに従う」ほどの犠牲を払うことの意味がどこにあるでしょうか。世界中で今も起こっているように、すべてを置いて主イエス・キリスト様に従って、異国の地にやってくる意味がどこにあるのでしょうか。

イエス・キリストについてゆけばゆくほど、さらに主イエス・キリスト様の本当の姿を知り、その愛と憐れみと恵みと力を経験し、自分がどんどん変えられてゆくことを発見するのです。それにともなって自分と接する他の人たちも変えられてゆくことを発見します。御国の広がりを身をもって見るのです。

働きは主イエス・キリスト様の働きを担うのですから、その任務の達成感は大きく広く深く高いのです。主が計られたことは必ず成るのですから。徒労はないのです。労したことが無駄と言うことはないのです。希望と確信の湧き出てくる結末を与えてくださるのです。私たちが、自分を「人間をとる漁師にする」のではなく、従ってゆくなら、主イエス・キリスト様が私たちを人間を生かす者にしてくださるのです。主イエス・キリスト様さまは、世界をめぐり、宣教の聖霊の働きによって、救われるはずの人々を集めて、それに仕えるようにと私たちを調えて訓練して用いてくださるのです。自分一人で孤独に戦って来た職業と生活にはなかった充実感が、主に従う者にあります。神の御子と共にある生涯だからです。

ペテロ達が「何もかも捨てて」と書かれていますが、実際に何を捨てたのでしょうか?弟子達に向けられている非難が今もあります。それは彼らが熱狂主義者だというのです。人は召されたことが明らかなときに、それ迄の生き方をやめます。主に従うからです。主についてゆかなければならなかったからです。次から次へと場所を移動しながらの伝道生活だったのです。小舟、網、家、妻や子を置いていったのです。ある者はそうでした。しかし他の者はちがいました。肝心だったのは、天地の主に従う者としての献身と自覚だったのです。主イエスを中心とした生き方なので、その道は「自己犠牲の道」でした。キリストのために一人一人が歩む道は、十字架を負うあゆみです。しかしそれは主のためにいのちを捨てる者はそれを得るといわれた歩みなのです。復活を経験する歩みです。「ルカ18:28〜30」

結び)人間を福音によって生かす働きをする者への神様の約束は、ダニエル12:3「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」とあり、実に光栄に富んでいます。これからは、あなたも人間を取るのです。

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