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2011年3月6日 ルカの福音書5:12〜16「わたしの心だ、きよくなれ」

2011年3月6日 ルカの福音書5:12〜16「わたしの心だ、きよくなれ」

 序文)今日の聖書箇所に「ツァラアト」(らい病・特別な皮膚病)の病の人を主イエスさまが癒された記事がでてきます。それで、まず、現代この病気はどのような状況になっているのか、また理解されているのかを、紹介してから、聖書本文の時代背景を加味して学びをしましょう。

Ⅰ 現代における「ツァラアト」の状況                        今から26年ぐらい前のことですが、私は東村山市にある「国立療養所多磨全生園(ぜんしょうえん)」の当時の園長大西基四夫先生の講演を聞きました。救ライ事業に献身されて53年間労苦してこられた歩みからのあかしでした。今では「ハンセン病」と言います。「らい病」と言いません。新改訳聖書の最新版から「ツァラアト」と原語の発音のままに改訂しました。そうするだけの歴史的経緯がありました。以下は、最近の国立療養所多磨全生園のホーム頁からの引用紹介です。「1873年にノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師が発見したらい菌(Mycobacterium leprae)によって、主に皮膚や末梢神経、眼などが侵される慢性感染症の一つです。病型にもよりますが、皮膚に結節や斑紋などが生じ、また、末梢神経が障害されることから知覚障害や発汗障害などが生じます。その結果、筋肉の萎縮、四肢などの変形、視覚の喪失などの後遺症による障害を残す場合があります。しかし、らい菌が感染しても発病に至ることはまれです。また、発病しても現代では外来において、化学療法を中心とした治療を行い、ほぼ確実に治癒する病気となっています。全世界では現在でも、約25万人(2008年)の新規患者が発見されています。我が国に関しては年間10名未満の患者(多くは輸入例)が発見されるのみとなっています。ハンセン病の患者さんは、これまで、偏見と差別の中で多大の苦痛と苦難を強いられてきました。我が国においては、昭和28年(1953年)制定の「らい予防法」(新法)においても引き続きハンセン病の患者に対する隔離政策がとられ、ようやく「らい予防法の廃止に関する法律」が公布、施行されたのは平成8年(1996年)でありました。その後、(中略)平成20年(2008年)には、ハンセン病の患者であった者等の福祉の増進、名誉の回復等のための措置を講ずることにより、ハンセン病問題の解決の促進を図るため、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」が公布され、平成21年4月から施行されました。引き続き、ハンセン病の患者であった者等に対する偏見と差別のない社会の実現に向けた取り組みが求められています。」以上引用終わり。

 このような法律的な問題解決のための政治的な施行が、今日あるわけですが、あかしを聞いたときは、状況はそう進展していませんでした。以下大西先生のあかしを一部分ですが、紹介します。当時「日本全国で7、800人ぐらいの方々が、病気であると言われていました。実はすでになおっており社会復帰をすることができるほどです。入院中の方々の 99%が退院できるのです。しかも新しく入院を必要とする人は、現在いません。日本で育った人々はハンセン病にかかる人は皆無となりました。それは日本の生活習慣が免疫力を与え、伝染を阻止したのです。手を洗う習慣、風呂にはいる習慣などです。毎日この全生園で、患者と言われている方々のお世話をしている職員で、発病した人は一人もいません。入院中で召されたお年寄りの方々は、高血圧やガン等成人病でなくなられたのです。

 では、なぜ退院しないのか。それは園にいる方が生活しやすいのです。ある程度病気が進んで外見上はこの世のものとも思えない状態になって治った方々は、市民生活の通常の場が受け入れようとしないのです。家族からも入院したままでいてほしいと言われるのです。古くからの社会的阻害、村や、町の外で生活しなければならないとされてきて、触れてはならない人々として扱われてきてしまった現実があったのです。それは今でも、同様の扱いを受けているのです。」

  Ⅱ ユダヤ社会で、旧新約聖書時代、この病気はどのように扱われたか。

「ツァラアト」は町の外で生活しなければならない病気として扱われました。ことに宗教的な問題として取り扱われたのでした。レビ記13〜14章にその扱いの規定が書かれています。それは何よりも「神に対する汚れ」と考えられていました。

ルカ5:12で「ツァラアト」の人が、イエス様に「主よ、おこころ一つで、私はきよくしていただけます。」と願い出ています。これに対して、主は「わたしのこころだ。きよくなれ。」と言われました。病気という点だけならば、「なおしてください」「なおれ」だけで良いのです。それを「きよめてください。」「きよくなれ。」と対話があったのですから、あきらかに神様を意識したやりとりです。「汚れ」というように「ツァラアト」を捉えて神に近づけない者と見ている。「きよい」は神に近づける者・礼拝できる者と見ているのです。

この点からは、生まれつきの人間は誰でも、全員、罪に汚れており、原罪による性質の腐敗と、罪のとがめを心に負っています。そのままでは完全に聖なる神の前に絶対にでることはできません。ユダヤ社会で「ツァラアト」が罪の象徴として扱われたのも、その病気がもたらした汚れ、その結果と社会からの隔離、阻害が、罪のもたらすことと似ていたからでした。現代と違って、医学的にも治す事のできない時代には、ユダヤ社会だけではなく、世界中どこの国でも同じ扱いを受けたのでした。

この「ツァラアト」の人が、主イエス様の力を信じて「主よ。おこころ一つで私はきよくしていただけます。」と願いでたのです。彼は、主イエス様が単なる預言者ではなく、それ以上の方で、力と意思で、自分は聖まると見ました。すなわち、救い主メシヤであると信じました。それでも、主のお心だとまで汲み取る事ができませんでした。それで主イエス様に自分に好意を見せてくださいと、願い出たのです。彼は、いままで主イエス様が他の人々になさった救う力や、聖める力を聞いていました。今、彼は、この「私に」具体的に結びつけようとしたのです。それはこのお方のおこころにすがりつくしかないと考えたのでした。

13節。主イエスは深く憐れみ手をのばして、彼に触り、「そうしてあげよう。きよくなれ。」といわれました。主のおこころは、直ちに彼をきよくすることでした。それもわざわざ手を伸ばして、さわり。深いあわれみをもって、こころから同情と愛を込めてでした。「みこころでしたら」という申し出に「そうしてあげよう。」「わたしのこころだ」と言い切られました。

彼は気づいていなかったのですが、主イエスが地上においで下さった目的は、病人に届き、罪人を招き、悔い改めさせるためでした。そのおこころは、「ツァラアト」のために宗教的、社会的阻害の中に苦しんで、はかりしれない犠牲を人生で払ってきた彼らを救う事だったのです。

主のおこころは今もかわりがありません。罪深い、私たちに対しても変わりがありません。

 

Ⅲ 14〜16節 「きよめられた方への命令」

主はこのきよめられた方に命じられました。「だれにも話してはならない。祭司のところに行って、自分を見せ、そして人々へのあかしのためにモーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」モーセが命じた供え物は、「ツァラアト」がなおった人は、祭司からきよいと宣言してもらい、病人がささげるようにと命じられた供え物のことです。レビ記14章。それは当時エルサレムの神殿でささげるのです。「だれにも話さないように」「行って」と注意がつきました。「もし早く行って、祭司に見せなければ、この奇跡が多くの人々の中で行われたために、国中に伝えられ、都にまで伝わり、エルサレムの祭司や宮の当局者に聞こえたら大変です。彼らはすでに主イエス様に反感を持っており、その嫉妬心、ねたみ、よこしまなこころから、本人のきよめの事実を否定するかもしれない。だから、噂よりもはやく、本人がエルサレムに行き、身体を祭司に見せて正式に認可されるように。そして、律法の要求どおりに従いなさい。そうすれば、たとえ、彼の全快の理由が、イエスさまにあったといわれても、そのために病人が得た認可や特権はもはや奪う事はできないからである。」(ベンゲル)

主イエスさまは、この人が救われれば後はどうなっても良いと考たりはなさらなかった。完全に復帰できるようにはからわれたのです。後々の事までも配慮してくださった。主の特別のめぐみと力によって救われたからといって、あとは自分勝手に振る舞って良いのではないのです。主のおこころが後々までも配慮しておられるのですから、それに私たちは従うべきです。主イエス様を救い主と信じる者は、主イエスの命じられた洗礼に与り、聖餐式に与り、みからだである教会に加わり、主があなたになさせようとしておられることをする必要があるのです。感謝と喜びのしるしとして守り果たすべき部分があなたにはあるのではないでしょうか。

 

主のおこころは「きよくなれ」とともに、さらに深いところまで配られているのです。神のおこころくばりとして与えられた信仰のルールを守る事は、私たちのこれからの歩みを見通しておられるところからくるもので、勝手気ままに歩んではならないのです。信仰の基本的ルールを身につけて、きよめられた者の道をさらに確かにしつつ歩みましょう。

 

結び) エペソ2:10

[私たちは神の作品であって、良い行いをするために,キリストイエスにあって、造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。]

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