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2011年5月22日 ルカの福音書 6:17〜19「いやす主イエス」

2011年5月22日 ルカの福音書 6:17〜19 招詞 第一ヨハネ1:1〜4

「いやす主イエス」

序文)今朝の段落は、癒しぬしイエス様の姿を簡潔にまとめて書いてあるところです。「山を下り平らなところにお立ちになった」としるされているので、「山上の説教」と違って「平野の説教」と言われているところでもあります。その説教内容を学ぶ前に、ルカは、さまざまな病気を癒される主について挿入をしました。17〜19節の短い箇所に「多くの弟子達の群れ」「おおぜいの民衆」「人々」「人たち」「群衆」「すべての人」と6回も集団について言及しています。ここには個人の癒しの具体的記事は記されていません。イエス様がいろいろな病のいやし主としての力を発揮されたということを読者に与えようとしています。それで、良い機会ですので、聖書の病気観と癒し主イエス様について、主題説教を試みようと考えました。

聖書の巻頭の書「創世記1章」に聖書の神様が人間をご自身のかたちに創造されたことが記されています。神が創造されたすべてのものをご覧になった。そうして「見よ。それは非常によかった。」1:31とあります。その意味するところは、人間が創造されたとき病気とか、虚弱とか、痛みとか、苦しみ、悲しみとか、腐敗とか、死は被造物世界に存在していなかったということです。神が創造し存在するすべてのものは「非常によかった。」

Ⅰ 現実に存在する病気

1 現実には病気は世界に満ちています。私の父は脳溢血で、母は心臓と糖尿病気、弟は直腸ガンでなくなりました。兄はくも膜下出血でしたが最後は多分脳溢血で昨年亡くなりました。10数年前に私は大腸に憩室が複数できていることが発見されました。数年ごとにチェックしていますが変化がないので、安心しています。25年以上前に狭心症の疑いと予防で心臓の薬を、あれ以来毎日飲んでいます。現在異常はありません。

2 聖書によれば「非常によかった」存在が、非常に良くない状態に陥ったのは、人間が神様に背いて罪を犯した結果であります。最初に良くない結果があらわれたのは、最初の人アダムが「神様の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」という表現に示されています。アダムの心が病み、自分がしたことに咎めを感じて神様を避けようとした。さらに神様のさばきの言葉「苦しんで食を得なければならない。」「顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。」にも良くない状態がはっきりと示されています。次にアダムの子供たちのカインがアベルを打ち殺した事件は、病気という、主題をひとっ飛びで罪の結果である死の現実に直面させられます。

3 病気という言葉は、聖書の用語では幾種類か使われていて、ヘブル語ハーラーは「病気である」「元気がない」、ダーワーは「エジプトの悪疫」「病の床」「心の病気」、ギリシャ語アスセネースは「病気」で本来は「力のない」「弱さ」を示します。ノソスは「病気」、マラキアは「柔弱」「わずらい」、アルローストは「病気」「病人」と訳されています。他にもいろいろと訳語が当てはめられています。

4 出エジプト記9:10や申命記28:15-37に出てくる病気は、神に反抗した民へのさばき、のろいとして記録されています。その場合でも、悔い改める者へのいやしが保証されていて、「主はいやす者」ということばがついているのです。主の定めを聞いて守り行う者には「主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、」(申命記7:15)と約束しておられます。

Ⅱ 病気にたいする神様の取り扱い-いやす道

1 イザヤ53:4「まことに、彼は私たちの病気を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」彼とは「メシア」をさします。救い主は、私たちの病気を負われた。救い主は私たちの罪のために身代わりとして十字架にかかって贖いのみわざを成し遂げて下さった。その地上人生は私たちの病気を負うことが含まれていた。病気に象徴される苦難、罪、咎、死までも含めて、この聖句を適用することができる。イザヤ53:5-6「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

新約聖書はマタイ8:14-17「それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大勢、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病気を背負った。」とイザヤの告げるメシアは、救い主イエス・キリストのことであると証言しています。

聖書の神様は、人間の罪の結果の病気と死を放置されることなく、贖い、ゆるし、きよめ、いやし、回復させ、腐敗の究極の姿である死そのものを葬りからだの復活をともなう永遠のいのちによって、完全な贖いをもたらそうとしておられるのです。その鍵をにぎっておられたのが地上に来て下さった救い主イエス・キリスト様でした。その保証が主イエスさまの十字架と葬りとからだのよみがえりでした。

2 主イエス・キリスト様が地上生涯で行われたいやしの数々が、次のように言われています。マタイ11:4-6「主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病気を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」主は神の国の到来をご自分で見せられました。

3 使徒たちの福音宣教の内容を保証するものとして、主イエス・キリストからいただいた権威によっていやしが伴ったことが「使徒の働き」に記されています。

4 パウロは自身で肉体的な弱さをもっていました。どのような病気かは判然としませんが、ガラテヤの人々にとっては「試練」となるものであり、「軽蔑」されるものであった(ガラテヤ4:14)。それは「サタンの使い」Ⅱコリント12:7。三度も真実に切実に祈り求めました。彼はその弱さをいやされることはなかったのです。

5 ヨハネの黙示録21:3-4「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」22:1-4「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。」

黙示録に示されている、完全な救いの世界、新天新地、新しい神の都には、死も、悲しみも、叫びも、苦しみもない。またそれまで罪がもたらしたすべての病気、肉体的、精神的、自然的、社会的、人間生活が営まれる環境の病気も含めて、すべての病気はない。完全ないやしがそこにある。のろわれるものはないのだから、二度と病気はない。永遠のいのちは、からだの復活によって全人に及んでいる。一人の人間の完全な贖いと救いと新しい存在の状態だけでなく、神による新天新地は被造世界の完全な栄光に満ちた世界である。

 

Ⅲ 病気をどのように受けとめて生きればよいか

1 基本的に病気はキリストの贖いと深く関係している。主イエス・キリストを自分の罪からの完全な救い主と信じる者は、その贖いの恵みに預かっているし、主の十字架と死と復活に示された恵み、もちろん新天新地に入る恵みも受けている。それゆえにローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」と告白して地上生涯を歩んで行きます。

2 主イエス・キリスト様は、病気の人々をいやされました。生まれつきの障害をもっている人々には、その原因を詮索するのでなく、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」ヨハネ9:3と積極的に言われ、いやされました。主イエス・キリストの祈り、願いは、私たちがいやされることです。原因を詮索する前に、助け、いやし、前向きに生きるようにと励まされるのです。

3 主イエス・キリスト様は、ある人々には病気のいやしをなさった後で、もう罪を犯してはいけません、と警告されました。生活の仕方を罪深い道から転換するように。私たちが暴飲、暴食、飽食の罪によって自分の身に病気を引き寄せ苦しんでいるのだとしたら、いやされることの祈り求めると同時に、その罪を悔い改めて、生活態度を転換しなければなりません。

4 ヤコブ5:13-16「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」

教会がいやしのために奉仕できる道が示されています。

病んでいる人自身が祈ることです。病んでいる人のためにお互いに祈ることです。病んでいる人が長老たち(複数)を招くことです。長老たちを招くのは、霊的必要もからだの必要も神様に依存してクリスチャンは生かされているからです。謙虚になって祈りの必要を求めるのです。長老たちがその人のために油を塗って信仰の祈りをすることです。そのために病んでいる人は心を探って神のいやしをさまたげる罪があるかどうかを反省しなければなりません。罪があれば告白され、キリストの御血のもとに赦しの信仰(Ⅰヨハネ1:7-9)を持ちます。病気にかかる前よりもさらに信仰が深められるのです。

病んでいる人のために教会全体が祈りの奉仕をすることです。それは霊的なレベルでの奉仕になります。病気が治ればよいと言ったレベルでなく、その人の全体的な必要のための祈りとなります。本人も教会も清くあるようにと祈り求め、信仰を働かせるようにと祈り求めることになります。

5 パウロのようにいやされないことがある。その場合、その弱さのゆえに主の恵みを体験し宣教に生きた。病気に対してはいやされるように祈ることの必要を勧めているし、テモテには薬用にぶどう酒を用いることや、休息をすることを奨励している。病気自体は歓迎すべき事柄ではないが、クリスチャンとしてその状態の中にも主の働きを認め、それを感謝に変えている。

6 ローマ8:26「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」

御霊のとりなし、助けを信頼する。

Ⅳ 聖書に出てくる病気の例(聖書辞典)

1 ツァーラアス(〈ギ〉レプラ。マタ8:2‐4、マコ1:40‐45、ルカ5:12‐14)は、レビ記(13‐14章)では神の前に汚れたものとされていたので、イエスのいやしの場合にも「きよめ」が重視されている(マタ10:8、11:5、ルカ7:22)。旧約聖書でらい病気の意味に使われる〈ヘ〉ツァーラアスは、35回用いられるうち29回はレビ13‐14章に出てくる。この箇所にはらい病気とそれに似た皮膚病気の見分け方、診断の仕方が詳細に述べられている。真性のらい病気と診断された者は予防上隔離されることになる(13:45‐46)。また宿営内を歩く時は衣服を裂き、「汚れている、汚れている」と叫び、周囲の人々に自分の存在を目立つようにしなければならなかった(13:45)。これも予防の一つの方法であった。らい病気は前2400年頃のエジプトのパピルスにすでに記録されている。エジプトに長く住んでいたイスラエル人は、エジプト脱出の時この病気を持ってきたと思われる。それゆえに特にこの病気についての診断、予防の方法が詳細に指示されているのかもしれない。レビ記で扱われるらい病気が、現在ハンセン病気として知られているものと同じであるかどうかは、いくつかの点で疑問がある。衣服のらい病気(13:47以下)、家屋のらい病気(14:33以下)はそれぞれ「かび」のようなものではないかと思われる。

2 てんかん(〈ギ〉セレーニアゾマイ)。直訳は「月に打たれた」(マタ17:15欄外注)。この病気の症状は「火の中に落ちたり、水の中に落ちたり」(マタ17:15)、「あわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせる」(マコ9:18。ここでは口のきけない霊につかれた者)激しい発作を伴うものである。この病気は「悪霊」(マタ17:18。マコ9:25では「汚れた霊」)のしわざであると考えられており、悪霊を追い出すイエスのわざによっていやされる。

3 中風。中風の人を表す〈ギ〉パラリュティコスは「麻痺に侵された者」という意味である。この病気人はほかの者に運ばれなければ動けなかった(マタ9:2)ように、半身不随のことで、脳血管障害などの後遺症である。この病気の場合には特にそのいやしと罪の赦しとが関連づけられている(マタ9:1‐8、マコ2:1‐12、ルカ5:18‐26)。しかしこの病気だけが特定の罪の結果であると言うのではない。

4 長血(マタ9:20、マコ5:25、ルカ8:43)。マタ9:20は〈ギ〉ハイモルロエオーで「出血する」という意味の語を用いる。マコ5:25とルカ8:43は〈ギ〉リュシス・ハイマトスで「血の流出」(参照ルカ8:44「出血」)という意味の語を用いている。婦人科の病気でひどい痛みが伴うものであった(マコ5:29)。この婦人は12年間もこの病気に悩まされ、医者の治療では直らなかった(マコ5:25‐26)。当時の難病気の一つである。

5 水腫(〈ギ〉ヒュドゥローピコス。ルカ14:2)。からだの組織のすきま、体腔内に多量のリンパ液がたまる病気。腎臓機能不全等によるいわゆる「むくみ」のことと思われる。

6 悪霊につかれた(〈ギ〉ダイモニゾマイ)。この人たちは悪霊によって視力や聴力が奪われ(マタ9:32、12:22)、狂暴性を帯び(マタ8:28)、人々によって連れて来られなければイエスのもとへ来ることもできず(マタ4:24)、自分の意志さえも失われてしまう。その症状は精神病気のようにも見えるが、精神病気とは異なるもののようである。神が霊であると認めるなら、サタンの存在と同様に悪霊の存在も認めなければならない。悪霊の力によって本来の人間としての諸機能が奪われている状態のことである。

 

以上に取り上げたものは、イエスの公生涯の中で行われた病気のいやしの奇蹟の中でも、特に目覚しいもの、意味のあるもの、福音書記者たちの印象に強く焼きつけられたものであって、このほかにも多くの病気のいやしが行われた。

5。使徒の働きにおける病気。使徒の働きでは、使徒たちの宣教の内容を保証するものとして病気のいやしが伴っている。したがって記述は病気そのものよりもいやしに重点がある。病気名としては「中風」(8:7、9:33)、「熱病気」と「下痢」(28:8)があるだけで、そのほかは「足のきかない人」(3:2、14:8)、パウロと魔術師エルマの突然の「盲目」(9:8、13:11)だけである。

6。パウロの手紙における病気。パウロは肉体の弱さ(〈ギ〉アスセネイア)を持っていた(ガラ4:13)。この弱さは病気であると考えられるが、どんな病気かは不明である。その病気はガラテヤの人々にとっては「試練」となるものであり、「軽蔑」されるものであった(ガラ4:14)。またそれは「サタンの使い」(Ⅱコリ12:7)であるとも証言されている。そのために彼は弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難を体験させられた(Ⅱコリ12:10)。しかし彼はむしろその弱さのゆえに、主の恵みのうちに生かされ宣教の働きができることを感謝している(Ⅱコリ12:9)。病気に対しては、いやされるように祈ることの必要を認めている(Ⅱコリ12:8)が、同時に薬用としてぶどう酒を用いること(Ⅰテモ5:23)や休養すること(Ⅱテモ4:20)の大切さも認めている。病気という状態はパウロにとっても避けがたいものであり、宣教のわざの妨げとなるものであった。しかし彼はその病気という状態の中にも主の働きを認め、それを感謝へと変えている。これはキリスト者が自分の病気を理解する積極的なあり方を示すものである。

結び)来るべき救いの完成を心から待ち望み、病気との戦い、受容の日々の中から、たとえ肉体の死を迎えても、なお確かな喜びある復活の希望ゆえに、主イエス・キリストのいのちに結びつけられている者として、御国を目指しましょう。

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