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2011年6月5日 ルカの福音書 6:20〜26「幸いと哀れ」

2011年6月5日 ルカの福音書 6:20〜26 招詞

「幸いと哀れ」

序文)何が幸いであり、何が哀れかについて、世間一般に定説があるように思えます。貧しいよりも富んでいるほうが幸い、飢えているよりも満腹しているほうが幸い、泣いているよりは笑っている方が幸い、憎まれるよりは誉められるほうが幸いであります。

主イエス様は、この一般的定説に対して、弟子たちを見つめながら、どのような人が幸いな人であるか、また哀れな人であるかの判断をくだす視点を教えられました。すでに天の神を父として信じている人々、クリスチャンを対照にした教えをされました。私たちはキリストの弟子として、どのような視点から自分の人生を幸いとし、哀れとするかの判断力を身につけて生活を進めるようにチャレンジを受けているのです。

 

Ⅰ まず、幸いな人とはどのような人の事か?

主イエス様がおっしゃるには、「今」という観点で「貧しい者」「飢えている者」「泣いている者」「人の子のために,人々から憎まれている者」「除名されている者」「はずかしめられている者」「名をあしざまにけなされている者」は、「幸い」だというのです。これに反して哀れなのは、「今」という観点で「富んでいる者」「食べて飽きている者」「笑っている者」「誉められている者」だというのです。

なぜそうなのかの答えは、それぞれに語られております。

「将来」という観点から、「貧しい者」の幸いの理由は、神の国はあなたがたのものだから。「飢えている者」の幸いの理由は、飽くことができるから。「泣いている者」の幸いの理由は、いまに笑うようになります。「人の子のために,人々から憎まれている者」「除名されている者」「はずかしめられている者」「名をあしざまにけなされている者」は、天にて受ける報いが大きいから「幸い」だというのです。

「富んでいる者」の哀れの理由は、慰めを既に受けているからであり、「食べて飽きている者」の哀れな理由は飢えるようになるからであり、「笑っている者」は悲しみに泣くようになるからです。「誉められている者」の哀れの理由は、先祖が「にせ預言者」たちをそのようにあしらったからだというのです。

 

Ⅱ イエス様の答えには、一つの共通している点があります。

それは「いま」と「将来」の立場の逆転ということです。「いま」とは今です。しかしそれは昨日の今日という意味ではありません。「将来」とはいつのことでしょうか。朝食を抜きにして礼拝にきた者が昼食にカレーライスが出てきて、満腹するとか、今泣いている人が、のちの日に笑う日がくるとかは、なるほどありえます。今、満ち足りている人が後に落ちぶれる事もあります。しかしそれと同時に悪い事が、次々と重なって同じ人を襲う事もあります。富める人がますます富んで財産を積み上げてから亡くなることもあります。人生の出来事は,それほど単純ではありません。

イエス様のおっしゃる「いま」とは、「この世」であり、「将来」は「天国」であるといえます。お答えの中の、「神の国はそのひとたちのもの」、「天にてその報いは大きい」、などははっきりとその事を示しています。ですから、人生の幸い、哀れ、を考えるときの、主イエス様の視点は,次のとおりでしょう。すなわち、「この世」しかもたないものは哀れです。「天国」をもつものは幸いです。

富む者は、この世で慰めを受けてしまっているのです。「受けてしまっている」とは、領収済という意味です。もはや、二度と受け取る事ができない。ところがキリストの弟子たちのように貧しい者たちは、まだ領収していない。彼らが約束されている神の国は完全に領収済になるのは、将来においてである。

満腹している者、誉められている者、笑う者は、この世ですべてを領収して満足している。そして天国を持たないから、将来を考えると哀れだ。これに反して、この世で貧しい者、飢える者、泣く者、キリストの為に人々から憎まれ、捨てられ、悪名を着せられる者は、天国にて、その溢れる報いを受けるから幸福です。

幸いと哀れの分かれ道は、人生の土台を聖書の神に据えて、来るべき神の国に通用する価値観で生活しているかどうかにあるのです。

 

Ⅲ では、イエス様が上げられた例を、もうすこし詳しく学んでみましょう。

1 「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。」ここで、「貧しい」と訳していることばは、比喩的精神的意味が含まれている言葉を用いています。文字通りにその日暮らし、ままならない貧乏人を意味するには、別の言葉をもちいます。イエス様はここで、他の人に頼らなければ生きていけない者を表すことばを使われました。それで、マタイ福音書では「心の貧しい者」と言葉をついで、「霊的、精神的な事への言及としてはっきりさせているのです。

自分に頼るとところの何もなく、神によりすがることによって生きてゆく人のことです。「心の」とマタイが書いて場合「空っぽ」ということで、そこに何を満たしていただくかということになります。イエス様は神の目に心が空っぽである者、そうだと自覚する者は、神の国が満たされるから、幸いだとおっしゃったのでした。

2 このことはイエス様の弟子として教えられるところを、独力で実行できるものではないということを知ることにつながります。例えば、このあとに次々とでてくるイエス様の説教「あなたを呪う者を祝福しなさい。」とありますのが、それを自分にはできると思ってやろうとしたならば、その人はいかに自分の無能力を理解できていないかを思い知らされるのです。イエス様の弟子たち、すべてをイエス様から満たしていただいてから、行動するのです。丁度イエス様が天の父から、すべてを満たしてもらって、地上を歩まれたように、私たちも神の前に、そのように立って歩みます。そのことは、人の前で、どのように行動するかということよりも、先に根本的な生活態度として身につけなければならない信仰の姿勢なのです。

3 だから、この貧しさは臆病や神経質になれという意味では決してありません。また勇気を欠くことでも、引っ込み思案で弱々しくなる事でもありません。生まれつき慎み深い人がいます。自分を全面におしだすどころか、いつも、後ろに控えて隠しているのです。それは生まれつきであって、時に弱々しく、引っ込み思案でもあります。このことは心の貧しいと言われているのとは違います。さらに、心の貧しさは個性の抑圧ではありません。名前を変えて偽って自分を殺して生活しなさいというではありません。

4 積極的に聖書にでてくる例を考えてみましょう。

旧約のモーセ 出エジプト4:10〜17 彼は神様から課せられた使命に自分が相応しくない事を深く感じ、自分の不十分さと至らなさを良く知っていました。モーセは神様からすべてを得てついに出エジプトの大事業を成し遂げました。

ペテロ うまれつき積極的で自己主張が強く、自信に満ちた人であった。その彼が、主イエス様を真実にみいだしたとき「主よ、わたしから離れてください。私は罪深い者です。」と叫びひれふしました。彼は心の貧しい者となりました。大使徒ペテロにかえられました。

パウロ 彼ほど才能豊かな人は新約聖書中,なかなか他に見当たりません。彼は自分の力を自覚していました。ものごとを成し遂げる力のあることを知っていました。肉のたのみについてピリピ3章で語っていて、もし、他の人たちを張り合うならば、何ものにも恐れないほどである。この彼が、ダマスコ途上、復活の主に会ったときからすべてを「損」と思い、「糞土」のように思った。そして自分のことを神の前で「このような任務に,誰が耐えようか。」と言っています(第二コリント2:16)。彼ほど十分な人物はいない。しかし心の貧しい人でありました。

神の前に自分は何者でもない事を痛感し,意識していること、ここに貧しさと主イエスがいわれた言葉の中心的意味があるのです。真の弟子は自分の生まれつきの素質に信頼をおきません。生来の気質と言う土台にもたよりません。自分に与えられている才能に信頼しません。自分の持っている金銭や財産に信頼しません。自分の受けた身分、教育、卒業資格などは誇りとしません。パウロはそれらを糞土のように思いました。そのような考え方、生き方、囚われから実は解放されていました。そして完全な服従を神にささげ、全幅の信頼を神にのみ寄せました。その恵みと憐れみと御力に徹底して頼りました。完全な神の前に立つならば、無に帰するような事物を誇りません。むしろ神から来るすべてのものを持って満足しました。空っぽにした心の中に神の国を満たしました。それをしてくださったのは神様です。

主イエス様を見つめれば見つめるほど自分一人の力だけでは望みがないことを強く覚える。弟子達は実際、主につかわされてみことばを伝え悪霊を追い出し不思議なわざをしました。しかし気づいたことがありました。それで主に私たちの信仰を増し加えてくださいと願いました。

このように神への信頼と謙遜を表す歩みは、天のみ国の民である事を証明する歩みであります。

結び)この世の富を持っているかいなかといった「貧しさ」ではなく、自分を神として、自分を義としながら生きる者は、この世の富をもっていようといまいと、ここでいう「貧しい者」ではありません。悔い改めて福音を信じる者、神の前に

自分を置く事のできる者が、貧しいものであり、キリストはその方のうちに満ち溢れてくださるのです。 そのとき、あなたのいのち、あなたにかかわるすべては清められ新たにされ、輝いて、ことごとく用いられてゆきます。これこそ「幸い」なのです。

 

2011년6월5일 누가복음 6:20-26

“복과 불행”

서문) 무엇이 복이고 무엇이 불행한것인가에대해, 세간에서는 정설이 있는것으로

알고 있습니다.가난한것보다는 부자가 복이라하고, 굶주림보다는 배가 부른것이

복이며, 우는것보다는 웃는 것이 복이고, 저주받는것보다는 칭찬받는것이

복이다 할수 있습니다.

주님은 이 일반적인 정설에 대해, 제자들을 보면서, 어떠한 사람이 복이 있는사람

인지, 불행한 사람인지 판단 할 시점를 가르쳐 주셨습니다.

이미 하늘 아버지를 믿는 사람들, 크리스찬를 향해 가르침을 주셨습니다.

불행한지에 대한 판단력을 가지고 생활하기를 바랍니다.

 

Ⅰ 먼저 복이 있는 사람은 어떤 사람인가요?

주님이 말씀하시는 “지금”이라는 시점에서 “가난한 사람” “배고픈 사람” 울고

있는 사람” “주님를 위해 사람들에게 비난받는 사람” “버린받은 사람” “부끄러움

을 받는 사람” 이름을 업신여김을 받는 사람”은 복이 있다고 하셨습니다.

이것에 반대로 불행한 사람은 “지금”이라는 시점에서 “부자인 사람” 너무 먹어

싫증난 사람” “웃는 사람” “칭찬받는 사람”이라 말씀하셨습니다

왜 그러는지에 대한 각각 답변을 주셨습니다.

“장래”라는  시점에서 “가난한자”가 복이 있는 것은, 하나님에 나라가 그에 것이

기 때문이며, “배고픈자”가 복이 있는것은 배부르게 될것이기 때문이며, “우는자”

가 복이 있다고 하는것은 웃을수 있기 때문입니다. “예수님을 위해 사람들에게 비

판을 받는자” “버린받은자”  “부끄러움을 받는자”는 하늘로 부터 큰상을 받기 때

문에 복이 있다고 하셨습니다.

“부자”가 불행한것은 위로를 벌써 받은것이며,  “배부른자”가 불행한것은 굶주리

게 될것이고,  “웃고 있는자”는 슬피울게 될것이기 때문입니다.

“칭찬받는 사람”들이 불행한 이유는 그들에 조상들도 거짓예언자들에게 그렇게

대했기 때문입니다.

 

Ⅱ 예수님에 대답에는 한가지 공통점이 있습니다.

그것은 “지금”과 “장래”의 입장이 바뀐것입니다. “지금”이라는 현제 시점입니다.

그러나 그것은 어제의 오늘이라는 의미가 아닙니다.

“장래”는 어느시점입니까?. 아침을 먹지 않고 예배오신 분이 점심에 카레가 나와

배부르게 먹거나, 지금 울고 있는 사람이 웃는 날이 오는것은 응 정말 있을 법한

일입니다. 지금 만족한 사람이 낙담하는경우도 있습니다. 그러나 동시에 나쁜 일

이 계속해서 겹쳐 일어날수도 있습니다. 부자가 더욱더 부자가 되여 죽는경우도

있습니다. 인생은 그렇게 단순한 것만은 아닙니다.

주님이 말씀하신 “지금”은 “이세상”이며,  “장래”는 “천국”를 말씀하십니다.

대답중에 “하나님 나라는 그 자들에게것” “하늘 나라에서는 그 상이 크다”

라고 확실하게 말씀하셨습니다. 그렇기 때문에 인생에 복, 불행를 생각할때,

주님의 시점은 다음과 같다 할수 있습니다. 즉 “이세상”만 소유한 사람은 불행

한것이며, “천국”를 소유한 사람은 복이 있는 사람입니다.

부자는 이 세상에서 위로를 받고 만 것입니다. “받고 만 것이다”라고 하는것은

영수증을 받았다라는 의미입니다. 이후에 두번다시 받지 못한다. 그러나 예수님

제자들처럼 가난한 자는 아직 영수를 발급하지 않했다. 그들에게 약속되여진

하나님 나라의 영수증 발행은 장래에 것입니다.

배부른자, 칭찬받는자, 웃는자는 이세상에서 이미 영수증을 받고 만족한다.

그리고 천국를 가지지 못하기 때문에 장래를 생각하면 슬퍼진다.

이것에 반대로 가난한자, 굶주린자, 우는자, 크리스도를 위해 비난받는자, 버림받

고, 악명의 누명을 받은자는 천국에서 그 댓가를 행복으로 받을것이다.

복과 불행의 갈림길은 인생의 토대를 성경의 하나님에 두고, 다가올 하나님 나라

에 통하는 가치관으로 생활하는지에 있는것입니다.

 

Ⅲ 그러면 예수님이 예를 들어 말씀하신 것을 더욱 자세하게 배워봅시다

1 “가난한자가 복이 있다, 하나님나라가 그들에게 것이기 때문이다” 여기에서

“가난하다”라고 하는 말은, 비교적 정신적의미가 포함되여 있다고 봅니다.

문자 그대로의 생활, 매우 가난한 자를 의미하는것은 다른 표현이 있습니다.

예수님은 여기에서 다른 사람에게 의지하지 않으면 살수 없는 사람을 표현 했습

니다. 마태복음에서는 “마음이 가난한자”라는 표현으로 “영적, 정신적의 것으로

언급하고 있습니다.

자기에게는 의지할곳이 없는 자, 하나님만 의지하고 살수 밖에 없는것입니다.

“마음이”라고 말할때 “텅빈”것이라 할수 있으며, 그곳에 무엇으로 만족하게

채워주실것입니다. 예수님은 하나님 눈에 텅빈자, 그렇게 느끼는자에게

하나님 나라가 임하기 때문에 복이다 라고 말씀하셨습니다.

2 이것은 예수님의 제자로 부르신것 같이 자기의 실력으로 되여지는것은

아니라는것을 알아야 합니다. 예를 들면, 이후에 계속해서 말씀하시는 예수님의

설교내용 “너희를 저주하는 사람을 축복하여라” 라고 하는데, 이것을 자기 자신

이 하려고 생각한다면, 그 사람은 자기의 무능력에 대해 이해하지 못한것입니다

예수님의 제자들은 모든것을 예수님으로 부터 받아 충족하게 하고 행동으로 옮겼

습니다. 예수님 조차도 하나님으로 부터 모든것을 받고 지상에 사역을 한것처럼

우리들도 하나님 앞에서 그렇게 서야 할것입니다. 사람들 앞에서 행동으로 나타

내는 것보다는 먼저 근본적인 생활태도를 몸에 익히는 것이 신앙에 자세입니다.

3 때문에 이 가난함이라는것은 겁쟁이나 신경질적으로 되여라 하는것이 절대로

아닙니다. 또한 용기를 잃거나, 외툴이가 되여 약해지는것이 아닙니다.

태어나면서 내면적인 사람이 있습니다. 자기를 전면에 내새우지 않고, 언제나

뒷면에서 일합니다. 이것은 마음이 가난한자라고 하는것과는 다르죠.

마찬가지로 마음이 가난함이란 개성을 억제하는것도 아닙니다.

이름을 바꾸고 자기를 죽이면서 생활하라는것도 아닙니다

4 적극적으로 행동하는 예를 성경에서 찾아 봅시다

구약 모세 출애굽기4:10-17에 하나님으로 부터받은 사명에 대해  자기가 얼마나 다른지 깊이알고 있었습니다. 모세는 하나님으로 부터 모든것을 받은후에

출애굽의 대사역을 이룬것입니다.

베드로 태어난 성질대로 적극적이고 자기 주장이 강했다. 그런자가 주님의

진실과 맞이하면서, “주여 저에게서 멀리 떠나가 주십시요. 저는 죄가 많은

사람입니다” 라고 외쳤습니다. 그는 마음이 가난한자가 되였습니다. 대제사장

베드로가 된것입니다. 바울 그 사람보다 재능이 있는 사람은 신약성경중에

찾아 볼수가 없습니다. 그는 자기에 능력을 자각 하고 있었습니다. 무엇을 성취

할수 있는 능력에대해 알고 있었습니다. 이 세상에 일로는 빌립보서 3장에서

말하는것처럼, 다른 어떠한 사람과 논쟁하더라도 어떠한 것도 두려워 하지 않는

다. 그런자가 다마스코에 가는 길에 부활하신 주님을 맞나고, 모든것을 “손”이라

생각하고, “배설물”으로 생각했다. 그리고 자기를 하나님앞에서 “이러한 사역에 누가 견딜수있을까”라고 말했습니다 고린도전서2:16 그 사람보다 능력이 있는자는 없습니다. 그러나 마음이 가난한 자가 되였습니다.

 

 

 

하나님 앞에서 자기는 어떠한 존재도 아니라고 통감하고 의식하는것, 이것이야

말로 가난한이라는 주님이 말씀하신 중심적의미가 있습니다. 진실한 제자는

태어나면서 가지고 있는 소질에 신뢰를 두지 않습니다. 자기 기질에도 토대를

두지 않습니다. 자기에게 주어진 재능에 신뢰를 두지 않습니다. 자기가 가진

금전이나 재산에 신뢰를 두지 않습니다. 자기가 받은 신분, 교육, 졸업자격등을

자랑하지 않습니다. 바울은 그것들을 모두 배설물로 생각했습니다

그렇게 생각하는 것은  포로로 부터 해방된것과 같습니다. 그리고 완전한 복종을

주님에게 맹세하며, 전폭적인 신뢰를 하나님에게 바치면 무로가는 것에 의지 하

지 않습니다,  반대로 하나님에게서 오는 모든것을 받아 만족하게 됩니다.

텅빈 마음에 하나님 나라로 채운것입니다. 그렇게 해주신것은 하나님입니다.

주님을 바라보면 볼수록 우리에 능력에 한계를 느낍니다.

제자들은 실제로 주님의 말씀을 전하고 악령을 쫏는 기적를 행했다.

그러나 느끼는것이 있었습니다. 그래서 주님에게 우리들에 믿음을 불어 넣어

달라 부탁을 하였습니다.

이렇게 하나님에 신뢰와 겸손을 나타내는것은 하나님 백성임을  증거한다

할수 있습니다.

결론) 이 세상에 부를 가지고 있는냐 아니냐 라는것의 “가난함”이 아니고

자기만을 의존하고 자기가 옳다고 생각하면 살아가는자는 이 세상에서 부자라

할수 있었도 우리가 말하는 “가난한자”라 할수 없습니다.

회개하고 복음을 믿는자, 하나님 앞에 자기를 내려 놓는자가 가난한자라 할수

있고, 주님은 그 사람에게 충분하게 채워주실것입니다.

그때에 여러분에 생명, 여러분에 모든 것들이 깨끗해지며,

새롭게 되며, 빛이나게 되고, 하나하나 준비되여 질것입니다

이것이야 말로 “복”이라 할수 있습니다.

 

 

June 5, 2011 Luke 6:20-26 Invitatory

“ blessed and woe“

Introduction: There seems to be an established theory what is blessed and what is woe.  It is more blessed being rich than poor.  It is more blessed being full in stomach than being hungry.  It is more blessed being able to smile than to cry.  It is more blessed to be receiving someone`s praise than being hated.

 The Lord Jesus taught the way of judging how you see who is blessed or woe as against the established theory looking at his disciples.  He taught believers who already believe the Heavenly God as the Father.  As Christ`s disciples, we are challenged about how we view and judge our lives blessed or woe as we live.

Ⅰ  First of all, what kind of people are blessed?

According to the Lord Jesus, people who are poor, hungry, weeping, hated because of the Son of Man, excluded, insulted, and rejected their names as evil in terms of nowadays are blessed.  But, on the contrary, people who are rich, well fed, laughing now, being spoken well by others in terms of nowadays are woe.

And there are reasons explained why for each one.

 In terms of future, the reason why the poor is blessed is that the kingdom of God will be theirs.  The reason why the hungry is blessed is that they will be satisfied.  The reason why the weeping is blessed is that they will laugh.  The reason why the hated because of the Son of Man, excluded, insulted, and rejected their names as evil are blessed is that their reward will be great in heaven.

The reason why the rich is woe is that they have already received their comfort. The reason why the well fed one is woe is that they will go hungry.  The reason why the laughing one is woe is that they will mourn and weep.  The reason why the one who is well spoken by others is woe is that that is how their ancestors treated the false prophets.

Ⅱ  One thing in common in Jesus`s answers

is that the inversion of “now“ and “future“.  “now“ is now, but it doesn`t mean now in light of yesterday.  So when is the “future“?  It is possible that a person who didn`t eat breakfast gets full at theirchurch`s lunch eating curry and rice or a person who is crying now will have latter days with a smile.  There could be an incidence that a person who is satisfied now would come down in the world later. But there is a case that bad things happen to a person at the same time or repeatedly and a rich keeps adding his assets until he dies.  Incidences of a life are not that simple.

What Jesus means by “now“ is “the time in this world“ and “future“ is “the time in heaven“.  It clearly indicates in His answers, for yours is the kingdom of God and because great is your reward in heaven.  Therefore, the Lord Jesus`s point of view for life`s blessings and woe was this.  Woe to those who only have this world.  Blessed are those who have heaven.

The rich have already received their comfort in this world.  “Has received“ means that it has already been done.  So the one can`t receive it again.  But the poor, like Christ`s disciples, haven`t received it yet.  It will be in the future that they will receive the promised kingdom of God.

People who are well fed, spoken well by others, and laughing have received everything in this world already and are satisfied.  And they don`t have heaven. So when we think about their future, they are woe.  On the other hand, people who are poor, hungry, weeping, hated because of the Son of Man, excluded, insulted, and rejected their names as evil in this world are blessed because they will receive their reward in heaven.

The fork in the road for blessed and woe is depending on if one sets his life`s base on the Bible and lives with the concept of values which works in the coming kingdom of God.

Ⅲ  Let`s study further Jesus`s examples

1 “Blessed are you who are poor, for yours is the kingdom of God. “ the original word which has translated “poor“ has figurative and spiritual meanings.  When it literally means the poor who is barely getting by everyday, a different word is used.  Jesus used the word which describes persons who have to depend on others in order to live.  So in Matthew, the phrase is added as the poor in spirit, making it clear that it`s describing about spiritual and mental matters.

It is about a person who doesn`t have anything.  He can depend on in himself, but lives only as depending on God.  The poor in spirit as Matthew described means he is empty.  And it is the matter of with what the person would allow to fill that emptiness.  Jesus said the poor whose heart is empty in God`s eyes realizes thatthey are blessed because they will be filled with the kingdom of God.

2 It leads Christians to know that Jesus`s teaching to them as His disciples is not something that they can do alone.  For instance, if a person thinks he is able to put Jesus`s teaching, bless those who curse you, into his action alone, he will find out in the hard way that he doesn`t know how incompetant he is.  Jesus`s disciples take actions after getting filled totally by Jesus.  Just as Jesus walked on this earth after He was filled totally by the heavenly Father, we stand and walk before God in the same way.  It is the spiritual approach we have to master as the fundamental life attitude even before we think of how we act before men.

3 So this poorness doesn`t mean one becomes a coward or nervous.  It doesn`t mean lacking courage or becoming weak as being shy and withdrawn.  There are some people who are modest by nature.  They don`t bring themselves to the fore. They always hide themselves behind others.  It is by nature, and sometimes it shows as weakness or shyness.  This is different from being poor in spirit.  Being poor in spirit does not suppress individual characters.  It doesn`t mean that one has to change his name and live in disguise as sacrificing himself.

4 Let`s think about positive examples in the Bible

Moses in the Old Testament Exodus 4:10-17 deeply felt that he was inadequate for what God commanded him for.  He knew very well his insufficiencies and shortcomings.  Moses got everything from God.  And at the end, he accomplished a great undertaking of Exodus.

Peter was outgoing and assertive by nature, and full of confidence.  When he truly understood the Lord Jesus, he shouted and bowed before Him saying “Lord, please go away from me.  I am so sinful“.  He became poor in spirit and was changed to the great disciple Peter.

There is nobody like Paul in the New Testament who is so gifted.  He knew his talents.  He knew that he has abilities to accomplish things.  He talks about putting no confidence in the flesh, and is he not afraid of anything or anybody if he competes against others.  But this Paul thought about everything a loss and garbage and said about himself before God “ Who is able to do that work? “ (2 Corinthians 2:-16) There is nobody more sufficient than he is, but he was a person poor in spirit.

Keenly realizing and sensing that you are nobody before God, in this, there is a central meaning of the Lord Jesus saying poor.  The true disciple doesn`t trust in capabilities by nature.  Doesn`t depend on bases of nature nor abilities which are given.  Doesn`t depend on money or assets he has.  Doesn`t boast about given position, education, or graduation eligibility.  Paul thought those as garbage.  We have been actually freed from this kind of mind set, way of life, and slavery.  Then we gave God total submission and fully trusted God only.  We completely trusted His blessing, grace, and power.  If we stand before perfect God, we don`t boast about things which are nothing.  Rather, we are satisfied with everything which comes from God.  We fill our empty heart with the kingdom of God.  And it is God who does it.

The more we see the Lord Jesus, the more we strongly realize that we have no hope in just our strength alone.  In fact, the disciples did miracles such as chasing out bad spirits as they were sent to proclaim the Gospel by the Lord.  As they did such things they realized it, and asked the Lord to strengthen their belief.

The walk expressing trust and humbleness towards God proves that they are citizens of the Heaven.

Conclusion:  It is not the poorness about having or not having wealth in this world.  If a person thinks of himself as god and lives as he is righteous, it doesn`t matter if he has wealth or not on this earth, he is not the poor mentioned here.  A person who repents, believes the Gospel, and place himself before God is the poor, and Christ lives in him and fills him.  When that happens to you, your life and everything relating to you will be purified, made a new, shine, and be used mightily.  That is called “blessed“.

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