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2011年9月18日 修養会礼拝説教 ルカ 5:1-11

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2011年9月18日 海浜幕張めぐみ教会 修養会礼拝説教 ルカ 5:1-11

「深みに漕ぎ出し」

序)今年の修養会主題を礼拝で説教します。午後から参加できない方々もおられるので自分の信仰生活の「深み」を探ってみてください。

背景:ゲネサレ湖畔=ガリラヤ湖畔に立って、主イエスは押し迫る群衆に神の言葉を語っておられた。ますます群衆が迫ってきたので、ついに岸辺にあった二そうの小舟の中の一艘を借りて、乗り込み陸から少し離れた所から話されねばならないほどであった。その小舟はシモンの持ち船だった。話し終わってイエスはシモンに「深みに漕ぎ出して、網をおろしなさい。」といわれた。シモン・ペテロの人生が漁師から初代キリスト教の大指導者の一人に一変してゆく、きっかけがここに書かれている。

 

1 「深みへ漕ぎ出して」1-7節

① 「深みに漕ぎ出して、網をおろしなさい。」との主イエスのことばは聞いた者たちにとって、全面的に受け入れるか、拒否するかのどちらかである。漁師であるシモンたちはもし、このことばを受け入れるなら、いま、洗っている網をもう一度船に積み込んで沖へ漕ぎ出して、自分たちがいつもしている漁の手順を全部しなければならない。しかも彼らは実は夜通し働いて何もとれなかったし、疲れ果てていた。他方主イエスの言葉を聞き流して従わなければ現状のままであった。疲労と空っぽの船だけが残っていた。

海浜幕張めぐみ教会、ひいてはその構成員であるあなたは、この言葉にどのように応答しますか。

② ペテロの応答はつぎのようでした。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と答えました。彼は全面的にやってみようと決心しました。おことばですから。ペテロは深みへ漕ぎ出しなさい、といわれたのです。

ペテロは主イエスの言葉を半信半疑であったが、御言葉に指示された事は全部やってみようとした。船を深みに漕ぎ出しただけでやめてしまわないで、ちゃんと網を入れた。

その結果は、二そうの船が沈みそうになるくらい魚がとれた。大漁であった。

③ だれでも、自分が慣れ親しんだ生活の場で、色々とやってみて、全くむなしくなることがある。手を尽くして全然ダメな場合がある。今までの経験が通用しない。全部試したが、魚一匹とれなかった。人生の徒労を感じるときである。

主イエスは言われる。人生の深みがある。いろいろとやってみただろうが、未だ試していない深みがある。自分たちは生きることについては専門家である。長年の経験とカンを総動員して、夜を徹して熱心に働いているのだ。しかし何も得られなかった。今までの歩み方、生き方、方法で全部やってみた。主イエス風情に何も指図される筋合いではない。そして深みを知らないままに人生の終局を迎える。そのような人々が多い。

しかし、天の地よりも高いような、神の道、神の方法がある。人生で経験しなかった深みがある。そこに網を入れてみなさいと、主は言われる。物事を外面的に、物質的にだけ見ていたのなら、もう少し内面的に、そして全然しらなかった霊的な部分に心を開いてご覧なさい。神は、私たちをご自身に似せて、霊的な部分を備えた被造物として創造してくださった。

神様の示された道は特別奇抜で代わった方法でない。深みに漕ぎ出しなさい。彼らにできない事ではなく、いつもしている生活の中で、気付かなかった深みがある。

ペテロたちが大漁に恵まれたのは、主イエスの言葉に従ったからである。彼らは天地の主権者であるお方とはしらないで、結果として言葉にしたがった。私たちは、すでにそのことを知っている。なおさら従うべきではないだろうか。詩篇8:6.8「あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。」このお方のもとに、自分の生も死もあると確信して進むところに、神に道があるのです。

 

2 ペテロの反応 8-9節

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいた みなの者も、ひどく驚いたからである。ペテロはヤコブ、ヨハネ、アンデレとともに驚きをあらわしたが、特に豊かな感受性で率直に感情をことばと動作で示した。

今まで、みたことも、聞いたこともない経験を突然し、理解を超えて、目に前に示された主イエス様の力、神の力に対する恐れが溢れてきた。はじめに主が深みに漕ぎ出して網をいれなさいと言われたときの自分の心の反応、そして実際にやってみようと決心したとき、更に大漁になった事実にたいする思いを、彼は罪深い自分と悟った。その破格の恵みに対する意識は、敬虔な恐れと変わり、イエスの前に立っておれないという恐怖心にかられた。このままで主イエスの前にいると自分が滅びるのではないか。

主イエスはすぐに怖がらなくても良いと言われた。福音は罪人のかしらさえも、恵みをほめたたえる者に変えるのですから。

私たちは、主イエスさまの圧倒的な神の子としての権威のもとで、怖がりながらではなく、恵みに満ちて仕えることが赦されています。主はペテロたちを滅ぼすためにきたのでなく、救う為にこられた。深みの存在をしらせるためにきた。恵みの深さを知らせたいと願われた。

 

3 彼を人間を取る漁師に変えようとして来られた。10-11節

10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

ペテロは人間を取る働きへと召された。主イエスとともに宣教の業を担う者となるようにと召された。この不十分で自分勝手な彼が、この日以来、最も広範囲なスケールにおいて、全世界において、人を取る漁師として、訓練を受け、ついに、その職務を見事にはたした。ある意味で、彼らは今も全世界の海に、人間を取る漁師として網を投げつづけている。福音書や、手紙における彼らのあかし、メッセージは、今も多くの人々を捕らえ、私たちをキリストに結びつけています。

 

彼らが、主イエスに従ったとき「何も、かも捨てて」従ったのです。この弟子たちに今も向けられている非難が一つだけ有ります。それは、彼らが熱狂主義者であったという非難です。ペテロのように主イエスを知ったとき、アンデレ、ヨハネ、ヤコブのように主イエスを知ったとき、人は自分のすべてが、このお方の手の中に有ることを発見します。この方にすべてをゆだねます。その召命にこたえるとき、アブラハムのように、自分の親族を離れ、国を離れ、行く先を知らないままに、神の示すままに歩み始めます。

ペテロたちは、「何もかも捨てた」と書いてありますが、一体何を捨てたのでしょう。船、網、いえ、妻や子も含まれていたでしょうか?

ぺテロには姑がいました。主イエス様が彼女の熱病をいやしてくださった事が福音書にでてきます。コリントの手紙には彼が結婚していた事が分かります。しかし同じ所から、使徒ペテロは妻を連れて伝道旅行していたことが分かります。主イエスが十字架に死に葬られた後で、彼らは昔ししていたように、ガリラヤ湖で、漁をしています。そこに復活の主が姿を現しました。この時、船も網も用いることができたのです。これらは「捨てる」というのが、文字通り捨てて省みない事を意味していたのでなかったと思えます。

既婚の弟子たちは事情が許すか許さないかによっても、妻を連れて行ったり、家に残したり、置いてきたりしたのではないでしょうか。

後になるとヤコブとヨハネの母親が家を出て、キリストの仲間に加わっているのを見ます。妻たちも志願するなら仲間に加えてもらえた事でしょう。キリストを中心に地方を巡る伝道団は、今日の組織化された教会と違う働き方をしたのです。次から次へと場所を移動してゆく主イエスに従って一緒に行くかどうかは任意で強制的ではなかった。それは信仰の対象であり中心であるイエスが移動されるための自然な結果だったのです。

今は、主イエスは天の神の右の座に着き、霊的にはすべての教会に臨在しておられるので、そのような事はないのです。私たちが主イエスに従うために捨てるべきことは何でしょう。

主イエスはこの場面から、ずーと後になって、ルカ14:25-27「イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」18:28-30ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」29 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、30 この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」

これらは、主イエスに従うことは、天地の主に従う事である。神を第一とする生活を送ることである。その道は「自己犠牲」をともなう。ペテロたちは主イエスの召しにこたえようとすると、家を離れてイエスに行かれるところに着いて行くことが必要だったのです。私たちは今の時代にイエスについてゆくために、物理的、心理的に払わなければならない犠牲があります。経済的にもそうかもしれません。捨ててとありますが、場合によっては捨てられることも起こるでしょう。キリストのために一人一人が通る道は異なるので、全部一律に同じではないのです。しかし、その幾倍をも主イエスから受け取るとも言われています。其れは本当です。永遠の命を受け取ります。輝かしい来るべき世において永遠の命を受けることは最高のことです。最善の事です。

この世では幾倍をうける。他の福音書では百倍を受けると書いてあります。もし私たちが個人の限られた生涯にだけ限定せずに、子や孫や幾世代までも見る目をもっていたなら、この約束の本当であることをさとるでしょう。なぜなら。私たちより前に歩んだ聖徒たちがすでに経験している所だからです。

結論)キリストに従う事で、多くを失うよりも、得ることの方が多いという事実は歴史が証明しています。たとえ、文字通り神の国を第一としたために、多くを捨てることになっても、パウロのように、全てをちりあくたとおもっても、それに変えて,主からいただく信仰にある父、母、兄弟、姉妹、そのほかは、真の意味を持って再び返されることが起こります。単なる肉の繋がり以上の恵みと祝福をもって届くのです。

マタイ 16:24-25

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