マタイ7章6節 2011年10月9日
(挨拶)今回は、東関東中会の講壇交換で、ここに立たせていただきます。海浜幕張教会はまだ若い教会とはいえ、成長が与えられて、大いに恵まれている教会ですね。奉仕の機会を与えられて光栄です。
私どもの関わる姉ヶ崎キリスト教会は内房線の姉ヶ崎駅から車で10分ほどのところにあります。元々は石油コンビナートの会社が沿岸にあって、そこの従業員の方々や東京に通う方々の住宅地でした。今日では日本の各地に見られるように、少子高齢化が進んでいる地です。私は神学校を出て最初は甲府に行ったのですが、3年後に市原に移り、それからずっと姉ヶ崎での奉仕ということになります。
(序)さて、皆様の中で犬が好きな方がいらっしゃいますか。犬を飼っている人はやさしい人が多いです。犬を飼っていないからといって、やさしくないというわけではありません。私は犬を飼っていませんが、数年前に信徒の方の犬と親しく過ごし時がありました。今、その犬は息子さんの家に飼われているのですが、現在でもその家に繋がれている犬と会うと、喉をならしながら甘えてじゃれてきます。犬は人につき、猫は家につく、といわれますが、飼い主ではなくても、大切な人という感じで、忘れないでいてくれると、こちらまでうれしくなります。
次に皆さんの中で豚が好きな方はいらっしゃいますか。千葉県は全国で第二の畜産業の県で、乳牛を育てるうちが北海道に次いで多いのです。市原の私たちの近くにも酪農家が何軒もあります。ところが、豚をそだてているところはあまりないらしく、その姿を見ません。ですから、豚が本当にぶーぶーと鳴くのかということすら十分には確認していません。
さらに伺います。みなさんのなかで真珠が好きな方はいらっしゃいますか。私は真珠を妻に買ってあげたたことはありません。もっとも妻が養殖だろうと思われる真珠はもっているようです。
お気づきのように、今お聞きした犬も豚も真珠も今朝の聖書個所に出てくる動物や物です。
マタイの福音書7章6節
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に真珠を投げてはいけません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょう。」
1.この聖句の住所
①聖句の住所 まずはこの聖句の住所から見ていきましょう。マタイ7の6という番地ですが、なんと、その家の周りを見回すと、大きなお隣さんに囲まれています。一番地の「さばいてはいけません」にはじまるお隣さんは「兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」と続き、「自分の目から梁をとりのけなさい。そうすれば、はっきりと見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことがきます」と結ばれる、がっちりとした建物です。それを右側とするなら、左側のお隣さんがまた一節とはいえ、高く聳え立っています。7節「求めなさい。そうすれば、与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 双方の立派なお隣さんは表札も立派で、皆様もよくご存知の通りです。
②入っていく家 ところで、私どもが今朝、入っていく家というのは、これらの建物の間に、建っていて、聖書を読んでいると、なんとなくその扱いに戸惑ってしまうことがあります。もちろん、この節はなんとなく愉快なのですが、一方ではとても厳しそうな存在感を放っているのです。とはいえ、十分な位置づけもせずになんとなく通り過ぎるてしまいやす家ですね。
③豚に真珠という言葉 もっとも、世間では、この家のことについて案外よく知られています。お隣さんがたにも負けないぐらいよく知られています。ただ、これが聖書という、聖なる庭の中に入っているとはついぞ知らなかったという向きも少なくありません。「へー、『豚に真珠』という言葉は聖書の言葉だったのですか?」などという声が時々聞こえてきますが、それほど日本人にも馴染みのある言葉なのです。
ことわざ辞典によると、皮肉屋の劇作家バーナードショーは「夫へのうそ」のなかでこんなことを言っているそうです。「あなたに麗しい女性を紹介するのは、豚に真珠を投げるようなものだ」と書いているとのことです。劇の中のこととはいえ、これを言われた男性はショックを受けるでしょうね。
2.この聖句の位置づけ
①リズミカルな聖句 豚に真珠の方からとりあげましたが、「豚の前に真珠を投げてはならない」の前に、「聖なるものを犬に投げてはなりません。」が記されています。この二つは、対をなしています。リズムがあります。~してはならないという否定の言葉が頭にきて対となります。②単なる格言? ある方が言っていました。「普段は、真珠は身につけません。娘の入学式の時につけました。」 持っていても、真珠は礼服を着るような特別の場合だけつけるのでしょう。そう簡単に身につけるわけにはいかないのです。また、普段着に真珠をつけてもさまになりませんね。聖なるものも真珠も「価値あるものもの」なのです。
すると、この言葉は価値の分からない愚か者には、なんのありがたみも感じられないから、与えたり投げたりしないようが良い。価値あるも物は、むやみに与えない方が良いという格言になるのでしょうか。でももし、それだけの意味ならば、「猫に小判」と同じでこの節の存在価値は薄くなります。お隣さんの霊的厚みに比べれば、見劣りしてしまいます。どうもそれだけではないように思われるのです。
③この節の位置づけ その意味を考えるために、この節の位置づけを見てみましょう。文語訳聖書も、口語訳聖書も、新改訳聖書も同じです。1節から5節までと分け、一節だけ独立させて行換えしています。新共同訳は1~6節までを一つの段落としています。これだけでも、解釈があるわけです。
この聖句がお隣さんとの前後関係でどのような役割を果たしているのかを考えていくことと、この節をどのように理解するかと関わってくると言っても良いでしょう。
3.この聖句の言葉の意味を探る
①聖なるものの意味 さあ、この聖句の意味をさらに考えるために、言葉の意味に入りましょう。まず「聖なるものを」とはなんなのでしょう。それはずばり、「信仰的・霊的真理」「キリストの真理」あるいは「神の国の福音」あるいは「御言葉」と言ってよいでしょう。「真珠」とは何でしょうか。「真珠」が聖書では、「知恵」と比べられ(ヨブ28:18)とか「天の御国」(マタイ13:45)にたとえられています。こんなことから、聖なるものと同様に、真珠も「真理」「福音」「御言葉」などをさしているといってよいのでしょう。
②犬、豚の意味 「犬」や「豚」の意味も考えてみましょう。「豚」とはなんでしょう。犬が好きで、犬の十戒を覚えているぐらいの人々がいます。曰く犬の十戒の5戒「私にたくさん話しかけてください。人の言葉は話せませんが、わかっています。」曰くその8戒「あなたには学校もあるし友達もいます。でも私にはあなたしかいません」。など、犬を愛する者たちには、犬に聖なるものを与えてはなりませんといわれると、冷たい言葉だなと思われるかもしれません。しかし、聖書に出てくる犬というのは野生の犬または野良犬であります。
人の血をなめ、死人の肉を食べたりもしたというのです(Ⅰ列王14:11、16:4など)。また路傍の病人のおできをなめたりするというのです(ルカ16:21)。豚は「汚れたもの」(レビ11:7など)とあり、汚れた動物の代表のように嫌悪されています(箴11:22、ルカ15:16など)。
「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(箴言11:22)
「犬は自分の吐いた物に戻る」(参照箴言26:11)とか「豚は身を洗って、また泥の中にころがる」」(第二ペテロ2:22)と、犬も豚も聖書では決してよくは描かれていません。
4.この聖句は簡単に適用できるのか
①この聖句の適用例 この言葉をそのまま教会の働きに適用した例としては、初代教会の時代にあります。そこには「主の晩餐は「聖なるもの」だから「聖なる民に」授け、未信者は陪席することができない。」つまり、正会員以外は主の晩餐にあずかることができない、としたのです。紀元100年頃に書かれた最初の礼拝式文には「主の名によって、バプテスマを受けた者以外は、主の晩餐でパンを食し、ぶどう酒を飲んではならない。」とあり、これは「聖なるものを犬に与えるな」といわれているからだ」とあるそうです。日本長老教会の聖餐式でも、洗礼を受けた者以外には聖餐にあずかることができないのですから、これをそのようにとれば、納得もできます。
②この御言葉の宣教的適用 また、この御言葉を宣教に取り入れると、真理や神の国の福音を受け取る価値のない人には、これを無闇に伝えてはならないという意味にもとれないことはありません。
これを特に弟子たちにむけて語っているとするならば、伝道をしていくと必ずしも真理や福音を素直に受け取らず、反対する人々がある。そういう人々にはむしろ、語らずに、時を待って、伝えなさいと教えておられるようにもとれます。
昨年までの3年間、私は30台前半の一人の男性のために、かなり多くの時間を使いました。若い人が教会に来ることがあまりありませんので、丁寧に接したわけです。仕事を持っていないということで、よく教会に出入りしました。礼拝はもちろん、2回の祈祷会、婦人会、清掃や整備活動などあらゆるものに参加するのです。聖書も通読し、実に細かいところまで読むのです。聖書理解も福音理解もなかなか良いのです。熱心に祈ります。絵を描くことが好きなので、ポスターを書いたり、教会学校や子供伝道の教材を作ったりすることが得意です。長い引きこもりの時期がありましたから、なかなか仕事に出ることができません。
もちろん、その経過のなかでも暴言などいろいろとありましたが、ちょっと早いとは思いましたが、罪の理解も福音信仰もはっきりしたと思われましたし、本人も希望しますので、来会から8ヶ月ぐらいで洗礼準備会をはじめました。順調に学びは続きました。よく顔を出して、質問などをしましたから、いろいろとよく知っています。翌年のイースターを目指して準備をしたのです。ところが、しばらくして、教会の中の者に失恋し、ぱったり教会に来なくなってしまったのです。それだけならともかく、大変な暴言を言い始めたのです。「梶川一家を殺してやる。なんのこわいものもない。」などとやるのです。そういう時はジギルとハイド氏のジギルが前面に出てくるのです。困りました。
それでは今日の聖句によると、こういう人には聖なるものを与えないほうが良いのでしょうか?3ヶ月間は何も連絡しませんでした。しかし、イースターになって案内を出しました。すると、またもどってきました。同じようなことを何回か繰り返しました。今は来ていません。案内も出していません。でも、この御言葉から来ているのでありません。
この聖句を、うかつに宣教への適用はできないでしょう。
5.この聖句の私達への迫り
①霊的判断と識別
マーチン・ロイドジョーンズは「山上の説教」で、この聖書部分を「霊的判断と識別」と題して教えています。ロイドジョーンズは、この節は1節から5節までと分けて考えてはいけないといいます。
まずは「さばいてはならない」と「自分の目の中の梁をしっかりと見よ」と教えた上で、主は「霊的判断をもって、犬や豚を見極めるべきだと教えるのです。6節は1から5節のしめくくりとして、なくてはならない言葉とするのです。まさに、その通りであります。特に、当時は律法学者やパリサイ人が社会を牛耳っていましたから、本当にうなずけます。
②危うい実践 しかし、霊の高根に達していないものが、これを安易に用いるならば、危ないなと思います。上から目線、豚になんか真珠を与えてあげない。犬に聖なるものを投げてあげるものか。
何でも、してあげるとか、してやったとかという思いが強い人がいます。夫が妻に、何かをしてあげたとか、妻が夫に何かをしてあげたとか、それが相手を傷つけるということも知らずに言っているのです。
どんなところから見ていっているのでしょう。
どんな立場になっていっているのでしょう。聖書が、聖なるものを犬にやってはならない、豚に真珠を投げてはならないといっているから、とすぐに人の高みに立ってしまうなら全くこの聖句の理解は間違ってたってしまいます。
③豚とは誰のこと?
そもそも、豚っていったい誰でしょう。犬っていったい誰でしょう。
あなた自身ではないでしょうか?私自身ではないでしょうか?
あたりを汚らしくする存在。ちらかっていて、自分の部屋の整理がつかないということならまだしも、あたりに汚い言葉、意地悪な言葉、とげとげしい言葉、自分のうまくいかないことを人のせいにする。
自分はいつも正しい。相手が悪いと決め付ける。そういう場合は、そのように言われても気がつきません。いくらいっても理解しません。
エレミヤ書17:9に「人の心は何よりも陰険で、それは治らない。」とありますが、本当に人は直りにくいのです。聖霊の働きによるしか直りようがありません。
(結論)
このように見てくると、聖なるものを犬にやってはならないとか、豚を真珠に投げてはならないといった御言葉は、霊的判断をもって断ずることは断ぜよという方向以上に、他でもない私たちのような者には聖なるものも、真珠も与えるわけにはいかない、という風に読めてきます。私たちのようなものに、霊的真理や福音を簡単に与えるわけにはいかないと言っているのではないですか。え?福音は誰にでも開かれているのでしょう?そうです。しかし、霊的真理も福音も自らがどんなものであるかを知らずには、本当の意味では開かれてこないのです。
「それを足で踏みにじり、開き直ってあなたがたを引き裂くでしょう。」と結びにありますが、なんのことはない、私たち自身が聖なるものを踏みにじり、開き直って引き裂くものたちなのではないでしょうか。
最初に問題にいたしました、「さばいてはならない」というくだりにおいて、他人の目の中の塵には敏感でも自分の目の中の梁に気がつかない人間の姿を教えられた
主は、ここでもこれを聞く者たちに、自分たちが犬であり、豚であることに気がつくように、暗に促しておられるのではないでしょうか。
「おまえは、自分が犬であることに気づき、自分が豚のようなものであることに気
づいたかい?そうであれば、それをはっきりと認めなさい。そうすれば私はあなたに聖なるものを授けるよ。私はあなたに真珠を与えるよ。」という声が聞こえてくるのです。
そして、自分が犬であって、野犬のように噛み付くものり、豚のように身を洗って、また泥の中にころがるようなものであることを認めてこそ、お隣さんである次の節の聖句、「求めなさい。」「捜しなさい。」「門をたたきなさい。」という言葉が、意味あるものとなって響いてくるのでしょう。心へりくだっている者の求め、捜そうとする諦めない心、門をたたき続ける熱心を主は確かに受け取ってくださることでありましょう。
1「みゆるしあらずば ほろぶべきこの身、わが主よあわれみ、救いたまえ。イエスきみよ、このままに、我をこのままに救いたまえ」「みめぐみうくべき 身にしあらねども、ただ御名のために、救いたまえ。イエスきみよ。このままに、我をこのままに、救いたまえ。」
讃美歌511番です。どうしようもない罪人の私たちにあわれみを与えてくださる主を覚えながら、賛美してまいりましょう。