序文) 主イエス様は、さばいてはいけませんと教えられました。それは悪意ある人を陥れようとする批判のことで、あら探しに、多くの時を用いる心情を指して言われた警告でした。ルカは、この文脈の中に今朝の39節からを置いています。さしあたり43節までを学びましょう。
三つのたとえ話が引用されています。共通していることがらは,自分を良く省みるようにという警告です。そのことによって自分にはさばいたり罪に定めたりする資格がないことを良くわきまえよ、と言うのです。
Ⅰ 39節 盲人の手引き
最初のたとえは盲人の手引きです。これは説明の必要がないほどに自明のことです。主イエス様は、ここで、悪意を持って人を裁く者が,さばかれている者を導くことはできない相談だと言っておられます。手引きをする者も、手引きされる者も同じ状態にいるのだから、その結果を共有することになる。二人とも穴に落ちる。さばく者は、さばかれる者と同じ立場にいる。その人だけが例外ということはない。おうおうにして、さばく人は自分だけは他の人と違うという思い違いをしている。自分も同じ共同体の一員だという事を忘れている。さまざまな事柄を批判してあげつらったからといって、その人はらち外に居る訳ではない。同じ責任と同じ結果を汲み取らなければならない。むしろ、自らを省みて、相手の立場や状態と同じかもっと悪いということに気づかなければならない。自ら省みて、自分の本当の霊的状態に気づかなければ、その人は、どこにいっても同じ事柄を繰り返し、ついに穴に落ち込むことになる。
Ⅱ 40節 弟子と師
第二のたとえは、「弟子は師 以上にはでられません。」しかし、十分訓練を受けると自分の師ぐらいにはなれるというのです。これも自明で、何の難しい意味も無いのです。古今、洋の東西を問わず、このことは実証されています。人は、それぞれの道を求めて、良い師に出会う事を願うのですし、師にレベルに達すると、さらに上を目指して修行するのです。師が主イエス様である弟子達は、主イエス様からの信仰の訓練を受けて、その生涯を通してイエス様に似るものとなるように導かれてゆきます。主イエス様が示してくださった愛や、あわれみを経験し、自分も聖霊の助けを得て、みよう見まねで従ってゆくうちに愛の訓練、憐れみの訓練により成長してゆきます。
ところが師がパリサイ人、律法学者であると、その弟子達はイエスを陥れようとした,あの悪意あるあら探しの精神を汲み取りそのようになるのです。
批判する者が優越感によって人のあれこれを語ったとしても、本人に欠陥があると相手にそれを超えるように期待することはできないのです。人をあしざまにさばいて師になったつもりで語ってみても、さばかれた側は、その人を超える事はないのです。もっとも、あのように揚げ足を取るのかと学ぶ事はあるかもしれません。
何事でも、師になる事はよほど気をつけなければいけないことで,ヤコブ書3:11[
多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は格別厳しい裁きを受けるのです。」ともいわれているのです。自己反省をおこたることなく、自らの信仰の成長を求めて歩む者でないと、道を誤ってしまうことになります。
Ⅲ 41〜42節 ちりと梁
これはさばく者へのイエス様の皮肉です。さばく者は自分をよく省みると、人をさばくような資格など到底ないことに気づくはずだ、というのです。「梁」は原語では「丸太、たる木、床や天井を支える木材」のことを指します。「ちり」は空中に浮かぶちりで、目に入ったちいさなゴミです。主はいわれました。自分の目にある梁が見えずに、どうして「兄弟に目のちりをとらせてください」といえますか?私たちの状態はとても他人を助けるどころではない。兄弟の中にあるちいさな欠点の事を心配し、彼の益のためにという印象をあたえ、なんとかしてちりをとってあげようというけれども、とてもそれはできない。目の中のちりはとるのが難しいのです。あなたの目にある梁がそれをできなくしている。兄弟のちりは兄弟がそれに気づいて涙を流せばすぐにとれるのです。悔い改めれば涙とともにでてしまうほどのものです。ところが、自分のめが曇っているのになぜ、そのような処置ができるでしょう。人を悪意を持ってさばく者は、それによって自分が真理と公義に仕えていると思っている。不公正なことをいっているわけではなく、心の底から真理のためと言い張る。しかし本当にそうならば、まず自分自身をさばくべきである。他人に対して、さばくのと同じ見方を自分に対してするはずである。自分の梁は見逃して、他人のちりばかりを責めるのは、本当に真理や義に関心をもっているとは認められない。
イエス様は、ここにそのような仕方で人をさばく私たちを、偽善者であると断罪しておられる。悪意を持って人をさばくことをする者が、本当に相手のちりを取りのけて助けたいと思っているわけではない。その人が口にしている真理にかかわる主題や原則が確率されていることを本当に思っているのではない。ただ、相手をやっつけたいと思っているだけのことです。兄弟姉妹、教会、長老、牧師の事を、こんなにも思っていると見せかけて、相手の欠点を見つけたので大変心を痛めているのだというのです。だが、真相は主イエス様がすでに示しておられるように、私たちはそれを見つけて喜んでいる。これが偽善です。これで、相手をやっつけられる、そしてさまざまな人を動員して批判をくりかえす。最良の人間にも欠点があり、最悪の人間にも良い点がある以上は、他人のあらさがしをすることは、それ自体でさまざまな弊害を巻き起こすのです。
人をさばきたくなったからといって、わたしたちはまず、自分の目から梁を取り除けよう。そうすれば、はっきりと見えるようになって兄弟の目からちりを取りのけることができる。と主イエスは言われました。
コリント第一13章は、自分を映す鏡です。これら愛の章句によって、自分の本当の姿がわかるのです。へりくだらされることは、結果として、過度の批判精神からの解放をもたらします。そして今迄の生き方が変えられます。自分を清めていただくように,自分を成長させてください、と祈り求めはじめます。御霊の助けがあたえられます。
ガラテヤ6:1〜4「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人をただしてあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いに重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行いを調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」
結び)一見 関連のないように見える三つのたとえ話しも、自らを神のみことばの前に本当に省み、さばく必要を教えている。そうして謙遜ならざるをえない者であると知るとき、神は、私たちを誤った裁きの精神から解放してくださる。御霊の実りを結ばせて、他の人々と和らがせてくださる事を経験できるのです。